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エタ、部落、部落跡 [目の裏の神様]

2015-01-26 02:44:55のブログです
更新中
:::::::::::::::::::::::::::::::::









中学の時にはじめて知って、ショックだったけど

それは戦後に引っ越してそこにってあとから聞いて、少しホッとした、、

のに、

18歳くらいの時に

え?同じ響きじゃんって思って、なんとなくうっすらショックで

でも、まあ、両親ともにそこの生まれじゃないし、別にね、、って少しホッとした、、、

のに、


一人暮らしして住んだところの裏手がまたそんな場所だったり


たぶんその後に何年も住んでたところも、同じようなとこかも、、、、



父の墓のある一体が



それはそれは


それはそれはそれは、、、、な場所で


それを知ったのは去年で


でもその場所に行くだけで、なんとなく感じ取れるものがあって


あ、なるほどね、、って思って

あちゃーーーー、、これはやっぱ呪いだなって思って


かなりショックだった、、、、けど


”****さん(私の父方おじいちゃん)は” 

この辺の人じゃないんだよねって聞いて

ホッとしたのもつかの間


私の父方のおばあちゃんが

もろにそこの出の人で


もうーーーーーあら~~~~~~~~って感じで


かなりショックだったけど



エタにも部落にもいろいろあるのは知ってるし、


そもそも私はそこで生まれ育ってもいないし




だけど






父から受け継いだ意識は大きくて



今はその意識と格闘中。。。




今、、一人暮らししてた横浜の1軒目2軒目の両方の場所がそういうところかどうか調べ中


あの雰囲気、、


あれは同じもの感じるんだよね、、、






はははははははは

はははははははは


はははははははは


はははははははは


は。



やっぱ呪いかな。



このブログじゃないブログには横浜のことも少し書いたけど

住んでたのも6年位か

あまり気にしてなかったから、そのとき調べても深くはほじくらなかったし、

その時は、その名前を調べてなかった


”本家”といっても誰の本家なのか、はっきりしなかったからね、、、

はっきりした今、同じ地図を見ても違う世界に見える。。。



1軒目
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%BA_(%E6%A8%AA%E6%B5%9C%E5%B8%82)

私は浦舟町というところにいたけど、

大きな道路を挟んだ後ろ側に

”中村(本家の名前)” ”山谷 (サンヤ、三谷-地元)”

1889年4月1日 - 町村制施行に伴い、久良岐郡戸太村(太田村、吉田新田と戸部村、平沼新田、尾張屋新田)、中村、大岡川村(井土ヶ谷村、蒔田村、弘明寺村、堀之内村、下大岡村、永田村、引越村、中里村、別所村と上大岡村、最戸村、久保村)が誕生。



久良岐郡中村

現在の町名
中村町、唐沢、平楽、八幡町、山谷
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91_(%E7%A5%9E%E5%A5%88%E5%B7%9D%E7%9C%8C%E4%B9%85%E8%89%AF%E5%B2%90%E9%83%A1)


2軒目
磯子区岡村

三殿台遺跡(さんとのだいいせき)は、神奈川県横浜市磯子区岡村にある、縄文時代から古墳時代にわたる大規模な集落遺跡である。 約250軒の竪穴式住居跡があり、その大部分が弥生時代のものである。 三殿台考古館として、復元住居、出土品などが保存・展示されている。

標高約55mの小高い住宅街の一角にあり、広さ約10,000平方メートル。 この周辺の丘の斜面に貝塚が点在していたことから、明治30年代に「屏風ヶ浦岡村貝塚」として学会誌に紹介され[1]、小規模な発掘調査が何度か行われた。 1961年(昭和36年)に、隣地の滝頭小学校岡村分校(現・岡村小学校)校地拡張予定地となって大規模な発掘調査が行われ、遺跡全体が発掘され、縄文・弥生・古墳の3時代に亘る集落跡が確認された。1966年(昭和41年)国の史跡に指定され、翌1967年、三殿台考古館が開館し遺跡とともに公開された。

住居跡は252軒が確認され、うち8軒が縄文時代、43軒が古墳時代、残余の大部分が弥生時代のものである。[2]


岡村のそばには若宮もあった


岡村のマンションは、あれも不思議だった

すっごい広くて6階の角部屋なのに家賃が53000円だったかな

1DK(6,6、洗面所(朝シャン付き洗面台、洗濯機置き場)風呂トイレ別、システムキッチン、クローゼット)
Lバルコニー

不動産屋さん、鍵を開けて部屋にはいったのに、

ええええ????

あれれれ??

っここでいいんですよね?って

また鍵を鍵穴にさしに行ってしまうくらいのお得物件。

呼ばれてたのかもね、、、、とかいいながら

周りを散策なんてほとんどしなかった

でも今でもたくさん思い出のある場所で、時々夢にも出てくる。

泣きたくなるんだよね~~~

なぜか。。。


エタとか部落とかいうといやな感じにしか受け取れない、受け取らない人が多いだろうけど

自分のこと、自分の身の回り調べてごらん


そこから見えてくるものって大きいと思うよ。


しかし、横浜に引っ越すことになって

1軒目は知り合いの部屋を、自分の部屋が見つかる2,3ヶ月いていいよ~って言ってもらえたので、

そこへ行ったんだけど、毎日見つめて歩いた目の先に中村の町があったとはね、、、

2本か3本横並びの道は、3大ドヤ街といわれる”寿町”




kuraki

クラキ公園のあたりは、ほんとに何か重たい感じのする場所だった

当時あのあたりはなんとかなのよって聞いたけど、なんていわれたか忘れてしまった

でも、重たい場所だったのは今でも覚えてる

きれいな場所になってたけど思い

だからバスで通るだけで降りてみようと思ったことはなかった

公園の先に大き目のスーパーがあって、そこには何度か行った事があるくらい。

21歳から25か6までずっとそこに住んでて、何度かしか行ったことがない


でも、今では気になる響きだな、、なんとなく


クラキ


「久良岐」は以前武蔵野国にあった地名なのである。

多摩丘陵南部から、三浦丘陵の北端まで広がる大きな郡だったのだ。

現在の行政区画で言うなら、南区、中区、磯子区、西区、港南区、金沢区、鶴見区にまたがっていたその中に「横浜村」が存在していたという。

久良岐公園、掘割川の分岐点の久良岐橋、材木屋の久良岐屋、久良岐能舞台と「久良岐」の名を残している場所が点在しているのは、範囲の広さから来るものなのだろう。


郡衙(今で言う県庁所在地?)は明らかではないが弘明寺だったという説もあるのだ。

であるなら、久良岐の名を語るのは、うちの法人がベストである。

西暦700年頃の藤原京跡から出土した木簡に「久良岐郡」という文字があったというから歴史もある名前なのだ。



橘樹郡
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E6%A8%B9%E9%83%A1

橘樹と書いてタチバナ郡だって。

こんな場所があったのはまったく聞いたこともない

WOW


1878年(明治11年)に行政区画として発足した当時の郡域は、概ね下記の区域にあたる。
横浜市 鶴見区、神奈川区の全域
西区の一部(同年に設置された横浜区に属した区域[1]を除く)
保土ケ谷区の一部(上星川、川島町以北および今井町を除く)
港北区の一部(新羽町、北新横浜、新吉田東、高田東、高田町以西を除く)

川崎市 川崎区、幸区、中原区、高津区、宮前区、多摩区の全域
麻生区の一部(金程、高石、百合丘、東百合丘以東)


隣接していた郡

行政区画として発足した当時に隣接していた郡は以下の通り。
東京府 : 荏原郡
神奈川県 : 南多摩郡、北多摩郡、荏原郡、都筑郡、久良岐郡、鎌倉郡

歴史
かつて郡衙が置かれたと推定される地域に建つ影向寺は、仏教伝来間近の7世紀頃まで遡る遺跡が見つかっている (2005年4月9日撮影)

郡名は、かつて橘樹郡内であった現在の川崎市高津区子母口富士見台に

弟橘媛の御陵とされる富士見台古墳があることによると伝えられる。

その近くの高津区子母口には日本武尊・弟橘媛を祀る橘樹神社がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E6%A8%B9%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E5%B7%9D%E5%B4%8E%E5%B8%82)



昔の地名を意図的にどんどん消していってるわけですよ。

でもその土地の意識・エネルギーって変わらないからね

名前を変えられたりしたら、余計にそれは違和感となって渦巻くんだろうね。。。

廃仏毀釈も同じ。

神社に行ったときの違和感とかはそれだろう

神社の名前や神様の名前を切り張りしたり変えちゃったり隠したり

でも実際行ってみれば、本物はこっちじゃね?って感じることができる

本当に消されてしまうくらいなら、自ら隠して上手に生き残ったところもある


”残していくことの大切さ”


残していくことは本当に大事なことなんだ。

橘樹ー>たちばな

倉樹ー>くら


クラキに戻ろう


534年 - 武蔵国造の乱後に屯倉が置かれた武蔵国倉樔(くらす)が、
久良岐郡であるとする説が有力(倉樹の誤記とするなど)

700年頃 - 藤原京跡から出土した木簡に久良郡の文字

768年 - 続日本紀に「武蔵国橘樹郡人飛鳥部吉志五百国於同国久良郡獲白雉献焉」の記述


【参考資料:磯子の史話/武州久良岐郷地名考/小千谷市史/平子氏の西遷・北遷 ほか】

おっとっと、、、↑

出てきちゃったね、、小千谷市

このブログでも何度も登場しているんだけど

私自身、私の記憶の中に、なんでこの”小千谷”があるのかわからない

だけど、なぜかこの響きをよく知っているんだ。



小千谷市(おぢやし)は、新潟県中越地方に位置する市である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%8D%83%E8%B0%B7%E5%B8%82

新潟県のほぼ中央、越後平野の南端にあり、中越地方に属している。隣接する十日町市とともに、魚沼地域の中ではいち早く市制施行し(昭和の大合併時)、国や県の出先機関が置かれるなど、主に北魚沼地域の行政・経済の中心として発展してきた。現在、都市圏では長岡都市圏に属しており、長岡市のベッドタウンの機能も有している。

信濃川の河岸段丘上(特に旭橋を中心とした信濃川両岸)に中心市街地が発達してきたほか、北部の片貝地区においても小規模な市街地が形成されている。 1990年代に入ってからは店舗の郊外化が顕著となり、2000年代以降は信濃川を挟んで西側地域の郊外が商業地域として機能しつつある。

市名の「小千谷」は、千谷郷の中にある小千谷に由来する説や、沢の落ち合う所や低湿地という意味の「落ち」が転じて「おぢ」となった説がある。


クラキの平子氏と小千谷
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tairako.html

 平子氏は相模国の豪族三浦氏の一族で、平安後期に武蔵国久良岐郡に進出した三浦為長の子次長(通継?)が久良気(久良岐)三郎を称し、叔父の景通は平子民部大夫を号している。次長が久良気を称したことは、久良岐郡の大部分を治めていたことを想像させるものである。
 平子氏の名字の地となったのは久良岐郡内の平子郷で、久良岐郡衙の管轄地のひとであったようだ。 平子氏と関係の深い堀ノ内宝生寺に伝えられた文書によれば、郡内の地名には石川・禅馬(磯子)・ 戸部・永田・根岸・本牧・蒔田・横浜などの名があり、横浜の文字の初見は宝生寺文書の記述が最初である。
 治承四年(1180)の源頼朝の旗揚げのとき、久良気三郎次長の曾孫にあたる平子弥平右馬允有長は宗家の三浦氏に加わって頼朝のもとに馳せ参じ、三浦氏の推挙を受けて御家人となった。以後、源平合戦に出陣し、平家追討に功があった。有長は出陣にあたって磯子の真照寺を再興して平子一族の菩提寺とし、毘沙門堂を建立した。毘沙門堂に祀られた毘沙門像は、有長の影像といわれ今も真照寺に安置されている。


中世戦国時代 - 上杉氏の所領となり、市内各城に上杉氏(長尾氏)家臣が居城していた。薭生城に平子氏、時水城に曽根氏、内ヶ巻城に田中氏、高梨城に長尾氏・高梨氏,片貝城に片貝氏などが居城していた。
1551年 - 薭生城の平子氏が上杉氏の命で時水城の曽根氏を攻め滅ぼした。
1553年 - 上杉謙信が朝廷にこの辺りで生産されている越後布を献上した。
1560年 - 魚沼地区が大洪水にあう。
1578年 - 御館の乱が起こり、平子氏は景虎方につき、薭生城は景勝方に攻め滅ぼされる。
このころ青苧などは、南魚沼地区や中魚沼地区から魚野川や信濃川で小千谷に下り、陸路で柏崎の港に運ばれていたとみられる。


新潟県上越市には榊神社
新潟県と榊はつながる




クラキに戻ろう!!!!

久良岐郡
大和朝廷の直轄だったという磯子区のルーツとは…

久良岐の名が歴史上に記されたのは、今から1500年ぐらいの昔、

大和朝廷が東方の武敵国へ支配を進めようとした頃です。

日本書紀によると、そのころ北武蔵に内乱が起こり、
大和朝廷はこれを機に朝廷の直轄地「屯倉(みやけ)」を4ヵ所設けたと書かれており、
その一つが後の久良岐郡(現在の磯子・中・港南・金沢区一帯)といわれています。

郡名について、
14世紀後半頃までの文書は「久良」と書いて「くらき」と読ませていましたが、
文明年間あたりから「久良岐」とするのが一般的となりました。

初めて久良岐郡と記された文献としては、文明5(1473)年、
真照寺に阿弥陀堂領の寄進をした際の文書に記述されています。

その語源を『武州久良岐郡地名考(抜粋)』によると

久良は古語の座≪くら≫で、

すべて人の、あるいは物の位置すべきところを≪くら≫と呼んだのであろう。

つぎに岐は城(き)で、城とは、

堀や柵を設け外敵から守るため内外を区切った一区域のことである。

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横浜近辺調べだしたら、またこれとんでもなくぐるぐるしそうだから

やっぱ今掘るのはやめとこう


ただ、、、


クラキ


この響きはとっても気になる

別の視点から調べよう


「久良」と書いて「くらき」と読ませていた



久良は古語の座≪くら≫で、

すべて人の、あるいは物の位置すべきところを≪くら≫と呼んだのであろう。

つぎに岐は城(き)で、城とは、

堀や柵を設け外敵から守るため内外を区切った一区域のことである。







あーーーまたココで堂々巡りが始まってしまったので中断

またあちこち寄り道しながらココへ戻ってこようと思います。




中村橋のおっちゃん

mike.png


私立探偵 濱マイク 第二話/歌姫 (オリジナルTV放映完全版 total 48 min... 投稿者 KumaRingo


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神奈川最古の古墳「三殿台遺跡」が大岡川の流域にある。
http://www.rekihaku.city.yokohama.jp/shisetsu/sandd/

住所的には磯子区になるから「弘明寺」とは言わないかも知れないけど、

昔住んでいた原住民的には
「三殿台」は部落の外れ、そういう感覚が望郷っぽい。

http://nonbiri-tc.jugem.jp/?eid=41



aboutStd_img.jpg

Q.三殿台遺跡はどういうところが重要なの?

①縄文時代、弥生時代、古墳時代という3つの時代のムラがひとつの場所にあること

②とくに弥生時代のムラは規模が大きくて、横浜で農業が始まった頃につくられたムラの様子がわかること



小学校の頃から好きだった縄文人の博物館、守屋教育委員会、郷土資料館

そういえば目黒区から代官山には縄文のあとがわりと多くあったと思う。


横浜で一人暮らしをはじめたマンションの直ぐそばの三殿台遺跡



母の田舎のまさに家があった場所も縄文の黒曜石が豊富にとれたところ。


そして今現在も歩いてすぐ行ける所に

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阪田山祭祀遺跡

1300年前の縄文の祭祀場だ



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jama

クラキは倉敷
by jama (2017-01-05 13:46) 

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