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血とDNAのスクランブル交差点だ。 [調べなさいアプローチ]

Tamikrest @ Afro-Pfingsten Festival 2013

血の交差点

血とDNAのスクランブル交差点だ。





マリは様々な言語と文化と民族と伝統とが合わさった大きな国で、オープンな耳を持った音楽ファンはマリを無視してはいけない、とまで言われています。

2ndでもフレッシュさを失っていない、サハラ砂漠から届いたこのロック・アルバムは彼らがアフリカでもっとも「ネクスト・ビッグ・シング」と呼ぶにふさわしいバンドであることを証明する、反骨精神をもった強い意志に溢れています。

アフリカン・ブルースとダブ、サイケデリック・ファンクの間を埋める彼らのオリジナル・ロック・サウンドはさらに強力に、ポジティヴになっており、ワールド・ミュージックの枠を越えて、より広い層に受け入れられることでしょう。


TAMIKREST タミクレスト

グリオ・カルチャーとロックとの融合に成功した

マリのオルタナ・バンド:タミクレスト

マリ共和国 キダル

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%B3


ティナリウェン(Tinariwen)
サハラ砂漠遊牧の民トゥアレグ人の バンド。
1979年よりマリ共和国北東部のキダルを拠点に活動している。


1979年に、
リビアの革命戦士キャンプで知り合ったメンバーを中心に結成


トゥアレグ人が自治権を求めて、マリ共和国政府と武装闘争を繰り広げる中、
マリ北東部のキダルを拠点に活動し、カセット・テープでアルバムを発表。

2001年に初めてのCDにして、
アフリカ以外でリリースされる初作品『ザ・レイディオ・ティスダス・セッションズ』を発表。


フランス語とトゥアレグ語による歌詞を用い、
“砂漠のブルース”とも称されるサウンドは、ブルースのみならず、
民俗的な要素も多分に反映した独自のものであり、
その目新しさから称賛を浴び、
2012年には第54回グラミー賞ベストワールドミュージックアルバム賞を受賞した





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アザワド(トゥアレグ語: ⴰⵣⴰⵓⴰⴷ, アラビア語: أزواد‎, Azawad)は、

マリ共和国北部の地域。

反政府勢力アザワド解放民族運動(英語版)(Azawad National Liberation Movement、MNLA)をはじめとしたグループが2012年初頭からの紛争でマリ軍をトゥアレグ族が主張する領土から駆逐した後に、一方的に独立宣言を行った地域である。


ただし国際的な国家の承認は得られていない。

MNLAはマリの地方行政区画のうち

トンブクトゥ州、キダル州、ガオ州、モプティ州の一部から成っていると主張している[4]。

南西をマリ、南をブルキナファソ、

北西から西にかけてをモーリタニア、

北をアルジェリア、

東から南東にかけてをニジェールに囲まれている。


サハラ砂漠とサヘルをまたがった地域に位置する。ガオが最大の都市であり暫定首都である[5]。

2012年4月6日にMNLAがウェブサイトで、アザワドがマリから

「取り消すことのできない」独立を行ったとの声明を出した。

独立運動事務局長のビラル・アグ・アチェリフ(英語版)は同日、ガオにて独立宣言に署名した[6]。

しかし、この宣言は未だ外国による承認を得ておらず[2]、またMNLAが主張するアザワドにおける事実上の統治でさえ、マリ政府やMNLAとかつて共同戦線を組んでいたイスラム軍事組織アンサル・ディーンとは議論がある[7]。


2012年5月26日にはMNLAとアンサル・ディーンが合同し、

マリ北部にイスラム国家を建国することで合意した[8][9]が後に両者の対立が鮮明となり、

アンサル・ディーンはMNLAによるアザワド独立を却下[10]。

2012年6月27日のガオにおけるMNLAとアンサル・ディーン間の戦闘の結果、
MNLAはガオより駆逐され、

アンサル・ディーンはマリ共和国北部を支配下においたと宣言[11]。

アザワドは事実上崩壊した。



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B6%E3%83%AF%E3%83%89




公用語
トゥアレグ語、アラビア語、ソンガイ語(英語版)、フラニ語、バンバラ語、フランス語

首都
ガオ(暫定)
トンブクトゥ(正式)



ガオ帝国、マリ帝国とソンガイ帝国

ガオ帝国は都市ガオに由来する。

9世紀の時点で西アフリカ最強の国家と考えられている。

1324年にマンサ・ムーサがメッカ巡礼から戻り(この巡礼は有名なものとなった)、

トンブクトゥを平和的に併合するなどして、

14世紀初期には地域の南部がマリ帝国の支配下となる[14]。



15世紀前半にはマリ帝国の勢力が徐々に衰えていき、

トンブクトゥ周辺は相対的に自立していくことになるが、依然としてトゥアレグが支配的地位にあった[15]。


しかし30年後、ソンガイ帝国がガオにその勢力を拡大し、

1468年から1469年にかけてトンブクトゥとその周辺地域を吸収した。

以降、スンニ・アリ (1468年-1492年)、スンニ・バル (1492年-1493年)、アスキア・ムハンマド1世 (1493年-1528年)によって統治された。

スンニ・アリ・バーは征服後、トンブクトゥを非情に扱い対立するが、

アスキア・ムハンマド1世は効率的な中央・地方行政を確立し、

商業中心地が繁栄するために十分な行動の自由を与えたことで、

ソンガイ帝国とトンブクトゥ両方にとっての黄金時代を築いた[15][16]。



帝国はガオを首都とし、トンブクトゥは比較的自立した立場を享受する。

ガダミス、アウジラ、その他北アフリカの非常に多くの都市から、

タガザのサハラの塩、北アフリカの服や馬を金や奴隷と交換するために商人が集まった[17]。

アスキア王朝は次第に内部の争いにより衰えていき、王朝による統治は1591年まで続いた[18]。



モロッコの遠征

ガオのすぐ北の村において発生したトンディビの会戦(英語版)でソンガイ帝国は敗北を喫し、

都市は1591年5月30日にモロッコを統治していたサアド朝のアフマド・アル=マンスールによって派遣され、


金鉱を探し求めていた

ジュダ・パシャに率いられた傭兵と奴隷によって占領された。

彼らはアルマ人と呼ばれた。


ガオが奪われたことは地域大国としてのソンガイ帝国の終わりを象徴する出来事となった[19][20]。

続く時代では経済的にも知的にも衰退していく[21]。

増加しつつあった大西洋貿易のルートを使って

トンブクトゥのアフリカ人奴隷、指導者や学者たちが移動していったことにより、

ガオやトンブクトゥの貿易、学術的な中心としての役割が薄れていったのである[22]。

モロッコは最初のうちこそトンブクトゥとの間の交易ルートを統制していたが、

やがてアルマ人との結びつきを断ち、

このため多くのトンブクトゥのパシャたちによる支配は弱まっていった。

トゥアレグは1737年より一時的に統治を行なう。

以降、18世紀中はバンバラ族やコウンタ族など、トゥアレグのいくつかの種族が
短い期間、統治もしくは占領を行った。

この期間、ソンガイと混血したパシャたちの影響力は完全に消えることはなかった。




フランス統治下

ヨーロッパ列強がベルリン会議においてアフリカ分割の原則を確認し合い、
その結果、西経14度とチャド南西ミルトーの間、かつニジェールのセイ(英語版)からバロウラを結んだラインを南の限界とした部分がフランスの領土となった。

アザワドは名目上フランスの領土となったが、ベルリン会議においては「有効性の原理」(principle of effectivity) が確認され、フランスに対しては割り当てられた地域において実際に権力を保持するよう要求された。


例えば、植民地の地元の首長と協定を結び、政権を樹立してこの地域を経済的に活用することによって、
前掲の領有権主張は決定的なものとなるのである。

1893年12月15日、既に最盛期から長い時間が経っていたトンブクトゥはガストン・ボワトー中尉率いるフランス人兵士グループによって併合された[24]。

これによりフランスの植民地であるフランス領スーダン(1890年-1902年)の一部となる。

フランス統治下で植民地は再編され、何度か名前が変わった。

1899年にはフランス領スーダンは更に細かく分割され、アザワドはオート・セネガル・モエ・ニジェール(Haut-Sénégal et Moyen Niger - 『セネガル上部と中部ニジェール』、

1899年-1902年)の一部となった。

1902年にはセネガンビア・ニジェール(英語版)(仏: Sénégambie et Niger、1902年-1904年)となり、

1904年にはオート・セネガル・ニジェール(フランス語版)(仏: Haut-Sénégal et Niger、1904年-1920年)と再改称。

この名前は1920年に再びフランス領スーダン(1920年-1958年)の名前に戻るまで使われた[25]。



マリ統治下

1958年、フランス領スーダンはフランス共同体の中で自治国スーダン(フランス語版)(1958年-1959年)となり、マリ連邦(1959年-1960年)を経て、1960年にフランスよりマリ共和国として独立した。

しかし、アザワド地域ではマリ統治に対する抵抗運動がたびたび起こっており、
主要なものとしては次の4つが挙げられる。


第1次トゥアレグ抵抗運動(1962年-1964年)、

1990年から1995年にかけての抵抗運動

2007年から2009年にかけての抵抗運動

そして2012年にアザワド解放民族運動
(MNLA)とアンサル・ディーンによって起こった抵抗運動である。



21世紀初頭、この地域は略奪や麻薬の密輸によって悪評が高くなる[26]。

この地域には石油やウランを含む鉱物資源を潜在的に存在していると報告された[27]。

2012年1月17日、MNLAはマリ政府に対する反乱の開始を宣言、

「バマコ(マリの首都)がこの地域を別個の存在と認めない限り継続する」とした。

2012年3月、MNLAとアンサル・ディーンはキダルやガオの州都を政府軍の軍事基地も含めて占領。

4月1日、トンブクトゥは占領された[30]。

4月1日のトンブクトゥの奪取後、

MNLAはアザワド独立を主張する領土のほとんどを実行支配した[31]。

この時、MNLAは声明で、外国にいる全てのアザワド人に対し、

故郷に戻り新国家建設に参加するよう招聘した。



一方的な独立宣言

「アザワド独立宣言」も参照

2012年4月6日にMNLAはアザワドの独立を宣言し、これを民主主義国家とするための憲法案を作成することを誓約した。

声明の中で国際連合憲章を受け入れ、新国家はその原理原則を支持すると述べている[2][32]。

MNLAのスポークスマンはFrance 24のインタビューに応じ、その中でアザワドの独立を宣言した。

“ マリ共和国は無政府状態の国家である。

ゆえに我々は、我々の領土を守ることができる軍隊、

並びに民主主義制度を形作ることのできる事務組織に参加させるために、

民族解放運動を集めた。

我々は本日、この日からアザワドの独立を宣言する。 ”

—Moussa Ag Assarid、MNLAスポークスマン(2012年4月6日[33]より)


またこのインタビューでは、
アザワドが「アザワドと隣人を分割する、植民地的な国境をすべて尊重する」と約束し、
またアザワド独立宣言は「国際法的にも正当なものだ」としつこく主張した[33]。


いかなる国家、また国際機関も未だアザワドを国家として承認していない。


アフリカ連合はMNLAによる独立宣言を「どんなものであれ、空っぽであり、何の価値もない」として即時に拒絶した。

フランス外務大臣はマリからの一方的な分離を認めないものの、「長い間、十分かつ必要な返答を得られてこなかった北トゥアレグの人たちの要求」に対処するようバマコとガオとの間の交渉を促した。

アメリカ合衆国も独立宣言を拒絶している[34]。


日本国外務省は独立宣言を非難し、アフリカ連合を支持する立場をとっている[35]。


MNLAは最大で3000人程度の兵士を有していると推測されている。

西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)はマリ南部の治安回復、また反政府勢力の封じ込めを目的として3000人の兵士を用意し介入する準備を行なった。フランス政府はこの後方支援の準備を命じた[34]。


2012年5月26日にはMNLAとアンサル・ディーンが合同し、マリ北部にイスラム国家を建国することで合意した[8][9]。

しかし、後にMNLAはこの合意協定を取り下げ、アンサル・ディーンからも距離を置くことを決定したとされている[36][37]。

アンサル・ディーンは後にMNLAによるアザワド独立を却下した[10]。

MNLAとアンサル・ディーンは衝突し[38]、6月27日のガオにおける戦闘で対立は最高潮に達した。

この戦闘の結果、MNLAの司令官を含む兵士22人が死亡し、アンサル・ディーンとイスラム武装勢力西アフリカ統一聖戦運動(英語版)(MOJWA)はガオを陥落させ、MNLAは駆逐された。


後日、アンサル・ディーンはトンブクトゥ、キダルも支配下においたと宣言し、
これによりマリ北部3大都市全てを手中に収めた[11]。

アンサル・ディーンはその後もMNLAの陣地に対する攻撃を継続し、
2012年7月12日までにMNLA最後の拠点アンソンゴ(英語版)が陥落[39]。


アザワドは事実上崩壊した。


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難しいなこの辺もほんとに。

ただ日本と違うのは見た目がはっきりごちゃ混ぜだよってこと。

でもそれで悲しい思いをする人も多いんだろうな。

アメリカじゃ黒人の肌の色の濃い薄いだけでもいろいろあるからな。







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