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2016年までの観た!読んだ!お勧めの映画や本でーす!





消えた一族(222)阿部お任せコース状態 [消えた一族]

調べてることは違うことなのに

勝手に阿部お任せコースになってる

お任せコースの時はお任せしておくだけでいい

お任せの波に乗ってるうちに頭痛もなくなるんだ。


このページではお任せじゃなくて、ちゃんと自分で調べてることを書きたいけど

今日は一日お任せコースなのかな、、、


ええと、、

あんまりこういうことを認めたくない

受け入れたくない

阿保スピリチュアルな人みたいなこといいたくない

私ずーーーーーーーーーっとそういの拒絶してきてるのよ


前世が巫女だ


阿保か

あんたのどこが巫女だ

なにがわかってるっていうんだい?

みたいにね



私はなんにもわかってはいない


こうやって書いていても

すべてわかってない


本当にそういう力のある人なら


すべてお見通しのはずで


セオリツヒメ様からのお言葉です、

とかいわないはずなんだ

コノハナサクヤヒメ様からのお言葉です、

とかな。。。


本当にそういう力がある人なら


もっと違うと思うんだ。




ちょっとお任せコースから外れるためにいったん落ち着きます。

















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消えた一族(221)神旅もとい、、、、、、阿部氏怨念旅? [消えた一族]

今、220の続きで調べててですね

驚愕の再確認ですよ、、、、

びっくり、、、、、


[爆弾]
[むかっ(怒り)]
[バッド(下向き矢印)]


はっ。。。。

ちゃんと行ってたし、、、

https://www.google.co.jp/maps/place/%E5%BC%95%E7%94%B0%E9%A7%85/@34.2275618,134.3994732,15z/data=!4m12!1m6!3m5!1s0x3553762dfb27bae7:0x97d26fa525f71223!2z77yI5qCq77yJ5p2x6K6D6Zu75qmf5bel5qWt!8m2!3d34.222115!4d134.408185!3m4!1s0x355376297d8105cf:0x8c4f47bb3b00f8c2!8m2!3d34.2244532!4d134.4021571?hl=ja




ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ




しかも、ココへ行く筈じゃなかったのに、

目的地の白鳥で思った以上に時間を使ってしまって

ちゃんとチェックしてた時間の電車に乗れず、

次に来た電車がこの駅どまりで、
(この電車を逃したら次に目的地に行ける電車どころか次の電車が確か2時間後とかだったの)

この駅に行ったほうがいいのかすごく迷ったけど、

ココどまりということは

ココからバスが出てたりするかなと踏んで、

この駅に向かって、駅を飛び出し、

バス停を探そうと思って、

通りをとりあえず行きたい方向に渡り、




アーーバス停ダーーー!!っとうしろを振り返ったら、




行きたいところへ向かうバスがやってきてたという。。

その日も神旅!!!!とかいってはしゃいでたけど、

今更またやっぱ神旅!!!

というか、、、

やっぱ、、、

のろい?

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
アルバム
ちょうど1年前の2月に行ってるんだね、、、、


この時も半端じゃない移動距離
和歌山の吉備のニュウツヒメ&シラヤマヒメ
ニュウツヒメ神社へ行って裏山に登ってシラヤマサンへ
徒歩で来た道を戻り、急いで大阪へ
大阪からバス?で高松へ
夜10過ぎについて高松に1泊
早朝から起きて、本場讃岐うどんを食べて、
周辺ちゃちゃっと観光
電車で、白山&白鳥へ
白山ではなんとびっくりのどでかい富士塚に遭遇
麓の白山でお参りをしてから登山
山としては小さい山
白山から白鳥へ
途中神旅体験をし、するするとうまい具合に進む。
海沿いをバスで揺られ
阿波、大麻比古神社へ。
また山のぼりすっかーーー!!って思ったけど
猿が多すぎて断念
四国お遍路さんの寺をちょろっと見て回り
高速バスで大阪へ戻る

https://www.facebook.com/media/set/?set=a.674602242642915.1073741866.100002794355533&type=1&l=940808a95f
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::




ややややや、、

今改めてグーグル旅行してみると、

私がバス停だと思っていたところはタクシー会社だ、、、

なぜバスが止まったのか? 

確かに運転手さんは、バス停はこっちじゃないけどっていったけど、

私は方向がこっちじゃないって意味かと思ってた、、、 


https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92769-2901+%E9%A6%99%E5%B7%9D%E7%9C%8C%E6%9D%B1%E3%81%8B%E3%81%8C%E3%82%8F%E5%B8%82%E5%BC%95%E7%94%B0%E5%A4%A7%E9%81%93%E4%B8%89%E4%B8%81%E7%9B%AE/@34.2247721,134.4022864,3a,90y,340.79h,78.66t/data=!3m7!1e1!3m5!1saS9P86MnjAJl7yCQDmfXuQ!2e0!6s%2F%2Fgeo0.ggpht.com%2Fcbk%3Fpanoid%3DaS9P86MnjAJl7yCQDmfXuQ%26output%3Dthumbnail%26cb_client%3Dmaps_sv.tactile.gps%26thumb%3D2%26w%3D203%26h%3D100%26yaw%3D138.36232%26pitch%3D0%26thumbfov%3D100!7i13312!8i6656!4m12!1m6!3m5!1s0x3553762dfb27bae7:0x97d26fa525f71223!2z77yI5qCq77yJ5p2x6K6D6Zu75qmf5bel5qWt!8m2!3d34.222115!4d134.408185!3m4!1s0x3553762a1993bfb9:0x8dc795027e36300!8m2!3d34.2257999!4d134.4002252!6m1!1e1?hl=ja





どうやらわざわざ慌てて通りを渡ることもなかったようで、

でもわたしたしかに時刻表みたいなの見てた気がしたんだけどな、、、



大道 中道 阿波

蛭子神社、お亀大明神 、、、、、 


お亀大明神って、、、


ぷぷぷぷ、、、


またちんこ神か~~~


あん?


ここらいったいも阿部一族の地でした♪



しかもこの先の駅は 

”讃岐相生”






東かがわ市|引田町|大内町|白鳥町

https://www.higashikagawa.jp/itwinfo/i661/



引田町(ひけたちょう)


 引田の名の由来については、過去の4つの説がある。


・坂出鎌田共済会の岡田唯吉の持論
・『八幡宮御伝書紀』による解釈
・字義的な解釈
・猪熊信男の恩頼堂一家言説



坂出鎌田共済会の岡田唯吉の持論

 大正12年3月、城山・安戸池を含む国立公園指定地の申請とともに町内有志をもって「城山保勝会」が設立され、町をあげての観光開発の運動がおこった。

その際、香川県で、古代史並びに考古学研究の第一人者として著名な岡田唯吉に起稿を依頼した。

同氏は当町に泊まり込みで、城山・安戸池をはじめ町内各所を詳細に調べ 歩き、
その結果を「史蹟名勝天然記念物調査報告」(大正13年発刊)として発表した。


 氏はその項で

「誉田八幡宮勧請以前、この宮は引田神社と唱え、

孝元天皇の皇子大彦命を祭神としていた」という伝承に着目し、次のように述べている。

「この地の旧家に、安倍氏、阿部氏の姓ありて

引田氏の姓はなけれど地名として伝えられることなれば、

孝元天皇の皇子として崇神天皇の時四道将軍の一人たる

大彦命の裔孫(えいそん)阿倍氏引田氏が

大和京師、北岡地方に発展しその族裔の一部が大化改新のころより
奈良朝ころ迄の間において東讃の地に転住したるものにあらざるか」と。

 一 新撰姓氏録孝証 安倍氏系図
 一 太田亮著 姓氏家系辞書 引田氏
 氏は、このニ書を引用して論じている。



『八幡宮御伝書紀』による解釈

 書紀には

「承和8年(841)3月吉日(中略)神璽(じ)を斎(いつ)き奉り我国に帰る 
急ぎ清地を求め安鎮(中略)又御宮地を改め則ち誉田の田を称え美しみて号を引田と改む 
第一の若宮は八幡御宮地を賑田と号す 同若郎子(わきいらつこ)御社地を吉田と号す
 亦梨木(なしき)と田夫 湖水を分ち御饌田(みけた)となす 之を佃田と号す」

以下省略

 この書紀は延久三戌歳(1071)の奥書をもつ忌部(いんべ)中山氏の縁起であるが、
この宮が勧請されたという承和8年から近年に至るまで、
他の古文書には引田の忌部氏誉田八幡宮の字は全く見受けられない。

 初版の香川叢書には古文書の項に記述されていたが、
その後の研究により、江戸中期の作というのが大方の定説となっている。

だが、この書紀の中で注目したいことは、

引田という地名の命名の精神である。

著者は田の字に殊更のようにこだわっている。

誉田・引田・賑(にぎ)田・吉田・佃田と列記したのがそれである。

察するに引田郷田地耕作者の間では、古くからの伝承があり、
それらを吸収し、表現したのかもしれない。

ちなみに賑田は迯田、佃田は佃として現在も残っている。

この佃という地名は民俗学的にも歴史学的にも、

領主の自作する土地の意に解され、書紀に記述された意に似ている。




字義的な解釈

 小海山系小入谷(こにゆうだに)に貝の化石が出たり、
大坂山山系で貝殻がしばしば発見されたり、
かつて迯田に「かな突きの鼻」とか、引田の古名が「網の浦」とかいう伝承など
一連の地名が干潟を暗示しており「汐が引いた後地」のことで、
引田という地名が発生した由来だとする説。



猪熊信男の恩頼(おんらい)堂一家言説
 猪熊氏によると

 引田を字義通り田を引くとしては、
意をなさぬ、諸国にある「ヒケタ」の地名をまず参考にしてかからなければならない。

地方にあっては、曳田(ひきた)・匹田(ひきた)・辟田(へきた)などと書かれている。

しかし、引田を「ヒキタ」とも読んでいるが、

「ヒケタ」と「ヒキタ」では、その語源の違っている事勿論である。

引田の町名は、引田部族という一つの部族から起こったものと解せられる。

 諸国にいろいろ引田という地がある。
その中にもここ引田は、
和名抄に出ているところの引田郷で全国的に最も大きい有力な引田部族のいた所である。

「新撰姓氏録」から考えてみると、

大国主神の後に、大神(オオミワ)ノ引田朝臣、三輪ノ引田君がある。

それで引田ノ朝臣、引田ノ君の部族の祖先は、一応は祖神大国主神に落ちつくのである。

それゆえに、佐渡国引田部ノ神社の祭神は、大巳貴神(大国主神)であるとせられる。

 ところが、この引田部ノ神社は、引田明神ともいわれ異説として、

その祭神は、孝元天皇の皇子大彦命であるというのが

吉田東伍博士の「大日本地名辞書」に見えている。


それは、このあたりに阿部氏の子孫が多い。


それで、阿倍氏等が祖先の大彦命を祭ったのだろうというのである。

大彦命は崇神天皇の時、四道将軍の北陸大将軍となって行った人、

また「斉明紀」に、
越前国司阿倍引田ノ臣また阿倍引田の臣比羅夫なども斉明天皇のころ、越前守となっている。

引田と名のつく所に阿倍氏の事あるゆえがあるのだろう。

 そこで東讃引田に八幡神がどうして鎮座せられているのであろうか。
この社八幡宮であれば、之より祭神は応神天皇であるはずである。

 「大川郡誌」を読んでみると、

「引田八幡宮、一説 元引田神社」といって、孝元天皇の皇子大彦命を祀ったとある。

果してそうであろうか。
そこまで未だ詮索を尽していないが、
もしもかりに、そうであったとするなら、

佐渡の国の引田部の神社の祭神説と一致する。

しかしながら、
一方引田部族の祖神が

大国主神ということと大彦命ということについて、一致点が見出されなくなる。


 (中略)

引田部族が祖神を祭ったものとすれば、考証的には祭神が、大国主神となるわけのものだが、

ここにも、佐渡の引田部神社の如く、大国主神以外に、
阿部氏関係があるのは、如何なるわけのものだろうか。

この地に現に有力な阿倍氏ノ引田朝臣、阿倍ノ比羅夫関係によるのであろうか。

 阿倍氏阿部氏は引田の有力者で、代々相承してその家をなしてきたものと思われる。

(中略)

阿部という姓は、阿倍という姓より後につけられたものと思われるが、

元より同族のものと思われる。

とにかく、東讃の引田に、

阿倍氏と阿部氏と双方あるのが、私共昔のことを調べるものにあっては誠に興趣を覚ゆる。

(中略)

 世間にある阿部氏は、

多く駿河の安倍郡から出ているとされているが、

その安倍郡も、「古事記」「日本書紀」では阿倍であるが、

「類聚国史」「後風土記」には阿弁となっている。

攝津国の阿部野神社などは地名の阿倍野からきているのに、

阿部野を以てしていられる。


 引田の阿倍氏も、阿部氏も共にあるいは駿河の安倍郡から出ていて、

阿倍ノ朝臣、阿倍ノ比羅夫から出ているとも思われるが、

引田部族との関係が明らかでない。





ただ、


陸奥地方の

阿倍氏は

朝廷が懐柔策として各家の姓を与えただけのもので、


本来の阿倍氏とは何等の関係もなく、

その子孫も本来の阿倍氏とは全く没交渉のはずである。



阿部ヒカル







以上、4つの説を検討すれば、

おのずから引田部族というのが浮かびあがり、

それに関連して引田という地名が定着したとするのが、当を得ている。











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消えた一族(220) まだまだ阿部 [消えた一族]

なにやらすごいのが来ている時には

この頭痛なんだ。

ステージ目かわかんないけど、

古代の糸口のでっかいひとつを

見つけかけてる。

ちっ、、、

っていうかね、

そんなの見つけてどーすんだって話なんだけどね

やめられないんだなーこれが

もーーーーーっ!!!!!!!!


昨日の記事はとりあえずあれで〆とく

そのまま調べようとしたんだけど

どんどん違うのが入ってきちゃって


今はもう頭が痛くてしょうがない


でも前からちょっとは知ってたものだけど

その頃にはまったく理解不能だったものが

今ちょっと理解できそうなので

今日はそれに取り組もうと思う


阿部だけど


ココ最近揺れてるところで私がリツィートしてるのは

だいたい

蝦夷関連

っていうか、掘れば絶対阿部になっちゃう


安倍じゃないよ

いや、安倍も阿部かもしれないけど

今のシンゾウのとこの安倍はイカン




いや、、、イカンとは思うんだけど


これまでいろいろ見てきたもんは結局、結果的に

みんな

内輪もめやら

陥れるとか

なんか欲深いやつら同士のやってることだよ

私ら民衆にはなんも関係のない世界

いつも巻き込まれて殺されるだけのわたしら民衆とさ


金ぴかの城に住んでる欲深い奴らが

いくら争いのない世界とかいっても説得力ないんだよね


消された古代の王朝だとか、

消された古代の神だとか言ってもさ

後ろに引っ込んだだけで、

影では相変わらず金ぴかで暮らしてるんだろうよ



この感覚は





マイケルのHOAXを追っていたときも






感じていた




ある時期から感じていたのだよ。。。





なぜこのように感じるのか


たぶんそこが











あのねーーーー

お金のいらない世の中なんて来ないよ

病気もない老いも死もない争いもない

そんな世の中は来ないよ


あたりまえだろ


ドアホっ

ソンナヨノナカニシヨウヨーーー

ソンナヨノナカニナルヨーーー

ソンナヨノナカニスルヨーーーー




これこれこうすれば、、、、、、、




な。


そうやってドアホな民衆は常に誘導されて

奴隷のように一生懸命働いて

税金はどんどん取られ放題


働けば働くほど税金は取られ放題

収入が多いから、ステータス高し!と思っている人も多いだろうよ

そんな人が一番の奴隷だな



で、

神様を信じて、

宗教に入って

そこでまたお金を払って

そこでのステータスをあげるために周りの人を勧誘して

これはマルチにもいえることだわね


どんどん金儲けをして

どんどんいい生活贅沢をして金を使って

どんどん税金を払って

いい車に乗って税金を払って

大きな家に住んで税金を払って

やりたいことをすべてやるために

楽して稼げることもどんどんするだろうし

で、もって海外旅行にも行って

TAX払って


この世はほんとうに


第六天魔王が喜ぶ世の中だよ



民衆の皆さんの笑っている幸せな顔を見るのが

第六天魔王の一番の喜びであり幸せなのよ



わかる?




あああ、、、


こまった、、、


何を言ってるんだろう、、、、





あの、炎立つってほんとそのまんまの内容だったね



35話もある中で

民衆の暮らしが出てきたのは最後の方にちょっとだけで

奥州藤原氏は金ぴかの城に暮らしているのに

民衆はボロ雑巾みたいな着物を着て

祭りだけが喜びで、みんなそれを楽しみに日々貧しい暮らしを絶えてる



ふっ



ふふふ



ふっ


結局

おめーらだけ


欲深いおめーらだけがいい思いしてるってだけの

この世の中はいつもそんな世の中だってこと




第一部「北の埋(うず)み火」(全12回)
藤原経清は親の代の不祥事で奥州に土着を余儀なくされたが、本来は名門の家柄であった。
しかし朝廷のやり方に失望し、次第に安倍一族の思想に共感するようになり、
一族の女性・結有を愛し、結ばれる。
ついには自ら望んで安倍一族と共に朝廷と闘う決意をするが、
武家の頭領と仰がれていた陸奥守源頼義軍を相手に奮戦するも非業の死を遂げる。


第二部「冥(くら)き稲妻」(全8回)
経清の忘れ形見・清衡は、母・結有が再嫁した清原家の勢力争いに巻き込まれながらも、
陸奥守源義家の力を利用しながら、父の果たせなかった奥州独立国家の夢を実現する。



第三部「黄金楽土」(全15回)
奥州藤原氏の後継者となった藤原泰衡。
しかし時代は源頼朝を盟主とする東国武家政権樹立へと一気に流れていく。
だが奥州藤原氏はそれを理解できない源氏の御曹司・義経を抱え込んでしまう。
泰衡は苦悩の末、自らの命と引き換えに、奥州の民の平和と文化を守ろうとする。
平泉を頼朝に明け渡し、一人逃避行を続ける泰衡は、
安倍一族や結有ら、敬愛する先祖の霊に温かく迎えられながら、
いつしか祖先・経清の姿となり昇天していく。











あ、、


私的には、今まで調べてて、希望のようなものを感じていたんだけど


ココへ来て一気に反転してきている





でも




ここが











なぜこんな風に感じるのかが














じゃ、またあとで。
















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消えた一族(219)ピコ太郎さ。から~の阿部彦から~の? [消えた一族]

13時間前
AM2:00



あああーーーーー


寝かせろーーーーー







ピコ太郎さ。


なんであんなのが出きてて

一躍大人気なのかは

ジャスティンビーバーのおかげで、

ジャスティンは若干チームM。











で、なぜか、、

ココがまた

偶然なのか

仕組み済みなのか

因縁なのかわからないけど、



確かピコ太郎、

第六天魔王ならぬ、古坂大魔王(芸名)で

本名は古坂 和仁かずひと=わに。

そんでもって青森出身なんだよね。

それはピコ太郎が出てきたときに気になって調べたんだけど、


今またさらに気になることがあって、


サーチした。



それは





”阿彦”




謎の阿彦なんだけどね



阿部彦だったりして、、って思って検索してみたら


” 阿部彦太郎 ”って人が出てきたのさー!!!!





阿部彦太郎は、

近江国神崎郡能登川村(現滋賀県東近江市能登川町)に生まれた

本家筋にあたる5代阿部市郎兵衛の三男がで分家した阿部市次郎の長男である


彦太郎は『布彦』と呼ばれ、父と共に攘夷運動が激しかった文久年間(1861年-1863年)に、

室町姉小路に唐金巾(とうかなきん、キャラコ)・唐木綿・唐糸・唐縞・唐紅・唐桟に加え
ラシャ・ケット・モヘール・シャッポン・洋紙・インキ・鉛筆・靴・蝙蝠傘・シャツ・メリヤス・
石鹸・洋酒類等の洋物を取り扱う『唐物店』を開いた[3]。

当時唐物を扱う店は他に『丁吟(小林吟右衛門)』・『八幡屋』・『大和屋』があったが、
これら唐物屋は攘夷派浪人から狙われ、嫌がらせや罵詈雑言を浴び、
その都度金銭を渡しことなきを得ていたとされる[2][3]。


文久3年7月23日(1863年9月5日)布彦店は遂に浪士の襲撃を受け店は打ち壊されたが、
幸い彦太郎父子は外出していたため災難を免れることができた。

襲撃を受けた翌日には、
三条大橋橋詰に、八幡屋主人の首と共に布彦他唐物屋へ天誅を加えた旨記した張り紙が出されていたと言う[3]。

布彦店は、張り紙の横に『唐物を焼き捨て、唐物で得た利益は残らず町年寄りに寄託する』として
天誅騒ぎから逃れた[3]。



維新後、
彦太郎は米穀問屋として活躍すると共に米・株式・綿糸・砂糖などで相場を張り、
相場の世界で活躍した。



相場師彦太郎は

『阿部彦将軍』と読ばれ、




金銭商業史などを専門とする歴史学者宮本又次は、彦太郎について『彼の性格は非常に大胆で、

しかもすばしこく、よく勝機をつかんで、ついに彼の働きが市場の大勢を左右するようになった。』

と語っている[1]。

明治20年(1887年)9月、

阿部一族は

大阪の実業家と共に綿花需要の増大から内外綿花の販売を目的とする

『有限責任会社内外綿』を大阪北区源蔵町に設立し(資本金50万円)、

初代社長に彦太郎が、

他に役員として松本重太郎・秋馬新三郎が就任した。

国産綿の他、中国産・インド産・北アメリカ産綿の輸入に務め、

有力紡績会社との間で取引を拡大していった(その後、内外綿は現在シキボウ傘下にある)[1]。

明治37(1904年)年5月5日、東京で死去した。

:::::::::::::::::::::::

阿部一族
相場師彦太郎
『阿部彦将軍』
唐物店

阿彦族の一部だろうか。。。。。
http://fanblogs.jp/japonismlove/archive/6/0

それとも阿部大彦の一部だろうか

古坂大魔王
青森は蝦夷




”阿彦”
古代越国を支配していた最大勢力を誇る豪族。
「高志の国王」を名乗っていた。

阿彦は、富山湾の海上に強大な勢力を張っていた
布勢の神「倉稲魂命(うげのみたま)」の子孫である
「布勢比古」なる人物の子供か孫だと伝えられています。

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

”彦太郎” は『布彦』と呼ばれ

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

”阿彦”の一族は、

以前から日本海の対岸、支那大陸の事情に精通していたようで、
特に阿彦の代になってからは大陸の勝れた物質文明を積極的に取り入れた他に、
大陸的な専政君主政治を採用していました。
阿彦は、ツングース人である鄭鶴(ていかく)、徐章(じょしょう)という2人の人物を重く用いて、
それらの政治を行っていました。

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


” 彦太郎 ” は

室町姉小路に唐金巾(とうかなきん、キャラコ)・唐木綿・唐糸・唐縞・唐紅・唐桟に加え
ラシャ・ケット・モヘール・シャッポン・洋紙・インキ・鉛筆・靴・蝙蝠傘・シャツ・メリヤス・
石鹸・洋酒類等の洋物を取り扱う

『唐物店』を開いた

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

続きは明日だ









さて、、、つづきだ。。。









そういえばうちのむすこっち、

ジャスティンビーバーが来る撮影で現場がぴりぴりしてるって言ってたな




阿部市郎兵衛(あべ いちろべえ)家は近江国能登川の近江商人、屋号は『紅屋』。

江戸時代後期、麻布問屋として『能登川の阿部』家は、

『五個荘の山中』家と『高宮の堤』家と共に、『近江三福』の一つと言われた。

また、阿部家は本家と分家が乗合店として出店(共同経営)しており、

明治維新期も阿部一族として乗合事業を展開した。

本家・分家が乗合で事業を展開することは近江商人としては珍しく、


これが故に他の近江商人家と異なり、一族それぞれが経済界に重きを置くことができた。



麻織物の産地

能登川町(のとがわちょう)は、滋賀県神崎郡にあった町。

麻織物の産地として知られ、近代には紡績で栄えた。

近江商人発祥の地の一つとしても知られる。

2006年(平成18年)1月1日、東近江市に編入合併し廃止された[1]。



愛宕神社
http://www.atago-jinja.com/

【主祭神】
火産霊命(ほむすびのみこと)〈火の神〉

【配祀】
罔象女命(みずはのめのみこと)〈水の神〉
大山祇命(おおやまづみのみこと)〈山の神〉
日本武尊(やまとたけるのみこと)〈武徳の神〉
将軍地蔵尊・普賢大菩薩

【境内末社】
太郎坊神社、福寿稲荷神社、弁財天舎、恵比寿大黒社



あ・た・ご!

ずーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっと気にはしていたけど

調べずにいたのよ。

めんどくさそうだったからね




あたご=蝦夷

でもココに太郎坊神社ってあるから、天狗、山伏系も関連してるんだね


で、



蝦夷の賊首や嶋津神・国津神
http://escapejama.blog.so-net.ne.jp/2017-02-25-2


日本武尊(ヤマトタケルノミコト)はすぐに上総(カミツフサ)から移動して、
陸奥国(ミチノクノクニ=東北地方の東)に入りました。

そのときに大きな鏡を王船に掛けて、海路(ウミツヂ)から葦浦(アシノウラ=千葉県?)を回りました。
玉浦(タマノウラ)の横を通って、蝦夷(エミシ)との境に到着しました。



蝦夷の賊首(アタゴノカミ=首領)

嶋津神(シマツカミ)

国津神(クニツカミ)たちは


竹水門(タケノミナト)に居て、(入港を)防ごうとしました。





土蜘蛛 蝦夷 




1. 「能登川」の語源に就いての諸説

◎『能登川町史』
のど(咽喉)と同じ狭い通路の意味か、ぬと(沼地)の意か、何れにしても昔此の地に能登の名が先に生まれ、次に川があるから能登川と名付けられた。

◎『近江神崎郡志稿』
アイヌ語のノット(岬角)からきたという説は、適当で無く地勢上からきたもと思われるが不明である。

◎能登国(石川県)との関連説
大化年間(645~649)の租庸調制度が敷かれた時、遠方から麻布を納入させることが不経済として、能登部(石川県)の民をこの地方に移住させて、「庸」(年間十人の力役の代替として、麻布二丈六尺を物納する)に役立てたことが、能登川の地名由来と言われている。

http://ohmikairou.org/col19.html


って言うか、滋賀県なんて今まであんまり調べたことナイなー
琵琶湖しか思いつかないし
地理的なことも想像すらできない

https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92521-1231+%E6%BB%8B%E8%B3%80%E7%9C%8C%E6%9D%B1%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%B8%82%E8%83%BD%E7%99%BB%E5%B7%9D%E7%94%BA/@35.1709027,136.1528665,15z/data=!4m12!1m6!3m5!1s0x0:0x9342fd940374656b!2z5oSb5a6V56We56S-!8m2!3d35.1724139!4d136.155332!3m4!1s0x60017e99f97a1067:0xf59e38fb26c93a22!8m2!3d35.1746031!4d136.1586459?hl=ja




北向十一面岩屋観音(きたむきじゅういちめんいわやかんのん)は、
滋賀県東近江市猪子町にある石仏とそれを祭る岩窟である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%90%91%E5%8D%81%E4%B8%80%E9%9D%A2%E5%B2%A9%E5%B1%8B%E8%A6%B3%E9%9F%B3


ええとね

能登川って言うのみただけで、

もうわかる




わかるよ。。。。





地図あちこち眺めれば


わかるよ



え?



ほら


え?


瓢箪山古墳


瓢箪山古墳
滋賀県近江八幡市安土町宮津


夕べだかその前にひょうたんやま出て来たばっかりじゃんね


別の場所ですよ


すぐそばに
大己貴神社



やべーやべーーーーー

なんだなんだ


https://www.google.co.jp/maps/place/%E7%93%A2%E7%AE%AA%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3/@35.1434188,136.1466602,17z/data=!4m12!1m6!3m5!1s0x0:0x9342fd940374656b!2z5oSb5a6V56We56S-!8m2!3d35.1724139!4d136.155332!3m4!1s0x0:0xe9fbfd88e8b1b1!8m2!3d35.14191!4d136.1490101!6m1!1e1?hl=ja



呪術がきいてんのくゎーーーーー!!!!!

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100_new3.jpg




しか~~~~も


沙沙貴神社
http://sasakijinja.or.jp/



あーーーこあいこあい


佐佐木源氏 発祥の地

沙沙貴神社・佐佐木大明神


全国の佐佐木源氏ゆかりの人たちがお参りされます。

宇多源氏・佐佐木源氏・近江源氏のご先祖をお祀りしています。

丸亀藩・京極家が再建された・本殿・権殿・拝殿など指定文化財八棟の大型神社建築です。

年間を通して全国の佐々木さんが参拝されています。

ぜひ、佐佐木源氏発祥の地へおかえりください。

佐々木氏は、宇多(うだ)天皇(869〜931)の皇子、敦実(あつみ)親王(892〜966)の玄孫(やしゃご)である、源成頼(みなもと なりより)が近江國・佐々木庄に下り、成頼の孫の、経方(つねかた)が佐々木姓を名乗ったことに始まります。
 佐々木氏は、佐々木氏の氏神である沙沙貴(ささき)神社が建つ近江八幡市安土町常楽寺周辺から、佐々木氏の館(やかた)があった小脇(現在の東近江市小脇町)辺りまで広範な候補地がありますが定かではありません。ただ、蒲生郡内であったことは間違いないようです。
 佐々木氏が近江に確固たる基盤を得るきっかけとなったのは源平の合戦でした。
 経方の孫の秀義(ひでよし)(〜1184)は、平治の乱(平治元年1159)で源義朝(みなもと よしとも)にくみして敗れたため近江を追われ、相模國(現在の神奈川県)まで逃れます。
 しかし1180年、源頼朝が平氏打倒へ挙兵した時、長男の定綱(さだつな)ら息子たちを引き連れて参戦し、目覚しい功績をあげました。


 秀義自身はこの戦いで戦死しますが、定綱は戦功により近江國 惣追捕使(そうついおし ※後の近江守護職)に任ぜられます。
 守護職に就いた定綱は、頼朝の自筆と伝えられる「佐佐木大明神」の神号額面を文治二年(1186)七月二十八日に物部清貞氏の調整で、表参道 大鳥居に掲額しています。(現在も古額を保存して、その同じ形式の写を表参道 大鳥居に掲げてあります。)
 兄弟たちも多くの恩賞を与えられ、一族全体で述べ十七カ國の守護職を得ていた時期もありました。
 しかし、鎌倉幕府と後鳥羽上皇が争った承久の乱(1221)で一族の多くが上皇方に付いて破れ、守護職のほとんどを失いました。

 定綱の跡を継いだ信綱の息子の代に佐々木氏は四家に分かれ、

長男 重綱―大原氏、
次男 高信―高嶋氏、
四男 氏信―京極氏、
そして三男の泰綱に始まる六角氏が惣領(そうりょう)家(本家)として近江守護職を継承しています。

主な佐佐木源氏 

佐佐木 佐々木 六角 京極 黒田 三井 大原 高嶋 篠笥 笹木 佐々城 沙沙貴 

尼子 伊庭 椙山 岳 朽木 和泉 山脇 田中 種村 鯰江 乃木 松下 和邇 

など220余の姓が継承されています。


220もあるんだ、、、、

すごいな。。


http://sasakijinja.or.jp/index.html


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く ほほほほほ
く ほほほほほ









沙沙貴(ささき)神社は、

神話の頃からご鎮座でご祭神の

少彦名神(すくなひこなのかみ)
大毘古神(おおひこのかみ)
仁徳天皇(おおさきのすめらみこと)
宇多天皇(うだのすめらみこと)
敦實親王(あつみのみこ)
四座五柱(よんざいつはしら)の神々をおまつりしています。


 まず、ササゲの豆の鞘に乗って海を渡って来られた伝説のある少彦名神さまより、

子宝・安産・育児・蚕を飼育して絹の整糸・健康の良薬・酒類 味噌醤油の醸造・
農工業の諸道具の作成などに=恩頼・みたまのふゆ=ご神徳の大きな力をいただいていて
みんな幸せに暮らして来ました。


恩頼(みたまのふゆ)神さまからさずかるめぐみや深いたまものまたその恩恵【筆書】


大毘古神さまは
古代 都からの北陸道・東海道・西海道・丹波堂を守護した四道将軍の御一人で
北陸道を守護され、旅の安全・交通安全を守護されています。

ご子孫は古代の沙沙貴山君は、ササキの庄の地名につながります。

仁徳天皇鷦鷯尊(おおさきのみこと)さま
難波の宮から国民の生活を眺められ
「自らが富めるのは国民が富みて自ら富める」と申され家庭の円満を望みになりました。


 また、宇多天皇・敦實親王さまの子孫 佐佐木源氏は

平安末期源氏の時代から
近江國を始め全国十七余州の守護職にあり広く全国に居住することになりました。

沙沙貴神社 神主家に継承されている系図では、

佐々木姓が全国に壱百七拾万余家、
さらに枝分かれした、

京極家
(讃岐 丸亀藩 京極家は、現在の本殿・権殿・拝殿を再建・指定有形文化財)

黒田家
三井家
(楼門の沙沙貴神社の墨書と大型額を掲額)

朽木家、佐佐木家、大原家、高嶋家、六角家、乃木家など一族は、
弐百弐拾余の姓名となり、参百五拾万余家に統計されています。

その佐佐木源氏一族の子孫が守護神として広く敬拝されています。
この四座五柱の神々を「佐佐木大明神」と申し上げます。




沙沙貴神社


古代から祖神として奉斎してきた式内社・沙沙貴神社には、鷦鷯神伝があったと系図に見える。

『神道大辞典』の記事によると、

同社の祭神は大彦命・少彦名命・仁徳天皇・宇多天皇・敦実親王とされるが、

それは、「少彦名命は鷦鷯羽を以て衣とせられた故事に因み、

仁徳天皇は大鷦鷯尊と奉称したに因み、

敦実親王は宇多天皇の皇子で佐々木源氏の祖であらせられるに因んで、

主神大彦命に配祀したものといふ」と同書に記される。





『秀真政伝』によれば  「佐々木の神社ありて、元祖笹気の神祭後の神代に、少彦名神此宮にて和礼を教」とある。

沙沙貴山氏の後裔

これを近江の沙沙貴山神社の由緒では

沙沙貴山君の4世は、阿閉臣伊賀彦命、5世は、筑紫国造日道命でした。

そして、645年の安倍倉橋麻呂、平安時代の安倍晴明と子孫がつながっていました。

筑紫国造 日道命(成務天皇期) 筑紫氏(君・公) 筑前国・筑後国

国造本紀(先代旧事本紀)によると成務天皇(13代)の時代、

阿部臣(あべのおみ)と同祖の大彦命(おおひこのみこと、大毘古命)の5世孫にあたる
田道命(たみちのみこと)を国造に定めたことに始まるとされる




はい。


気絶していいですか~~~?




夕べからココものすごい勢いで入ってくる


夕べ無理矢理終わらせて寝たんだけど

ざけんな

こつんこつんってさ、、

やんじゃないよ


それも朝の4時だよ

ぜんぜん寝た気がしない


もうーーやだーーー

出てこなくていいよーーー

いいさ、出てきたらまた前みたいに

ヽ(゚Д゚)ノゴルァァア!! って

キレてやるからな

凸(・`ε・´o从ムキッ



ピコ太郎からかなり広がったな。。。

http://6247.teacup.com/toshifjjp/bbs/5997





近江白浜

勝野榊


近江国
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%9B%BD



安土城(あづちじょう)は、
琵琶湖東岸の安土山(現在の滋賀県近江八幡市安土町下豊浦)にあった日本の城(山城)。
城址は国の特別史跡で、琵琶湖国定公園第1種特別地域になっている。

安土城建設前の安土山(目賀田山)には、当時明智光秀の配下で、近江守護佐々木氏(六角氏)に仕えた御家人格の目加田(目賀田)氏の居城であり、観音寺城の支城であった目加田(目賀田)城があった。 信長に安土城建設のための用地提供を要請された42代目賀田摂津守貞政は代わりの領地と、現在の目賀田城とを引き換えに目賀田山を信長に明け渡した。

安土城は、織田信長によって、現在の安土山に建造され、大型の天守(現地では「天主」と表記)を初めて持つなど威容を誇った。建造当時は郭が琵琶湖に接していた[1]。地下1階地上6階建てで、天主の高さが約32メートル。それまでの城にはない独創的な意匠で絢爛豪華な城であったと推測されている。総奉行は丹羽長秀、普請奉行に木村高重、大工棟梁には岡部又右衛門、縄張奉行には羽柴秀吉、石奉行には西尾吉次、小沢六郎三郎、吉田平内、大西某、瓦奉行には小川祐忠、堀部佐内、青山助一があたった。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%9C%9F%E5%9F%8E



織田信長といえば


第六天魔王



それよりも能登川調べのときから

安土と言う文字が、音が、文字かな気にはなっているんですけどね




あ、、、ちょっとお出かけのお誘いで、、中断します。




あああああ


今宵も寝かせてもらえなさそう


第六天魔王に~~~~~~~~~~












ちょっとココから先は

かなりの集中力が必要なかんじ


能登川

安土

瓢箪山

琵琶湖(びわ)




これはひょうたんに皮を張って作ったアフリカのびわの様なもんだ

100_new3.jpg


あづちをあずみの転訛と考えるものである。

あずみとは安曇・安積などと記し、漁業や航海にすぐれ、

時には製塩なども行ったとされる海神族のことで、

この安土町も、かつては琵琶湖最大の内湖をかかえ、

漁港や貿易港として栄えていたことを考えれば、

海神族が居住していたことは十分考えられる。

これらの説のどれが妥当なのか明確にしがたいが、

現在のところ、あずみ転訛説が有力であるといわれている。


https://www.google.com/maps/@35.1823218,136.1534469,8z?hl=ja-JP



勝手につながっていってる部分があるが、それはまだ保留



そうだよね、、

琵琶湖 淡路島



ちょっとアンテナ張り巡らせよう。。。。。



続きは明日になるかも。。。。



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Dr. Conrad Murray' Dies at 88 [hoax~from the other side]

Elvis Presley

His 'Dr. Conrad Murray' Dies


at 88


Elvis Presley's longtime doctor
-- who stood trial for over-prescribing Presley --
died in Memphis on Wednesday at the age of 88.

Dr. George Nichopoulos was infamously known to Elvis fans as "Dr. Nick" and

much like Conrad Murray after Michael Jackson's death
-- he came under heavy scrutiny when the king of rock 'n' roll died.

Dr. Nick traveled with Elvis as part of his entourage, but after Presley died in 1977
... the doc faced criminal charges for negligently dishing drugs to Elvis.
Unlike Murray, he was acquitted in 1981.

He did eventually lose his medical license for over-prescribing addictive drugs to several patients, including Presley and Jerry Lee Lewis
-- but remained adamant all the meds he gave Elvis "were necessities."

http://www.tmz.com/2016/02/25/elvis-presley-doctor-george-nichopoulos-dies/

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時折書いとく注意事項 [Jama]


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呪術だね~~~~

限りなく原始に近い生活の中

シティー派平和ボケ人間には

理解できない世界だけど

私たちの太古の昔の先祖も同じようなことはしていたんだろうよね


それはさ


食べ物が今のように簡単に手にはいらない

病気になった時にそれがどんな病気なのかもわからないし

どうやって治したらいいのかもわからない

毎日毎日雨が一滴も降らないでどんどん大地が枯れて行く

毎日毎日焼かれるような暑さの中

食べ物もなく水もなく

大地も体も乾いていく

それがいったいいつまで続くかわからない

弱いものからどんどん死んでいく


枯れた時代を生き抜く

氷の時代を生き抜く

いろんな苦難の時代を生き抜く


そういうこと一生懸命一生懸命想像しないと

現代を生きてる私たちって

なかなかその人たちと同じ気持ちにはなれない



差別を受けてるものに対しても



なぜ?


どうして?


って、思って欲しい


で、考えてみたり調べてみたりしたらいいと思う


あのね、、、


でもわざわざ聞きもしないのに

話もしたこともないのに

わざわざ言ってくる人もいる


”わし、住んどんのあそこやねん、あの、あそこの橋のな。

あそこの出やねん”


なんでわざわざ誰も聞いてもいないことを言ってくるのか

そういう人もいる

いろんな人がいる


差別をするなというよりは

理解をしようというかな

そのためにはいろいろ知らないとでしょ。




知っていくとショックなこともあるけど

知らないといけないことたくさなんると思うんだ。


みんなそういうこと関係なしに

自分の、

自分が生きていくだけのさ


そういう人間ばかりになってしまった世の中だからさ


自分に直接関係のない物はすべてもう関係なくてさ


でもいろんなことに心を痛めてる人もどんどんどんどん増えてきていてさ


痛くて痛くてどうしょうもなくて

壊れちゃう人もいたりしてさ


痛いだけじゃだめだもんね


痛かったら痛いところ治していかなくちゃいけないんだけど

これがなかなか治せない

SNSで毎日食いもんの写真UPしている人多いけど

何の為?

四六時中食いもんの写真

食いもんばっかり載せてる人はフォローはしていないよ

見てるだけでおえっぷってなるよ

人それぞれだからSNSの使い方なんて

なので別にどうこう言わないけどさ

見ないのも勝手。


なんか

現実社会の経済サイクルが限界なのと同じように

インターネットの様子もう、さいきんもうなんかいろいろ限界じゃない?って思ってる

面白味がまったくなくなってきているというか

なんかさ、なんとうかさ


その気になってる素人さん天国っていうのかな

人間は誰しもみんな

いろんな人に尊敬されたり、もてはやされたりしてる

何者かになりたいものだと思うんだけどね

やっぱり見る方としたら


おおおおお~~うっとうなってしまうような

完成されたものも見たいと思うわけだ

でも今、YOUTUBERとかなんて、見たいとも思わない


なんかもっとすごい物が見たい!

”本物”っていうんですか

FAKEばっかでおもしろくない!

どこを見ても何を観ても

FAKEばっかりだ!

ねえ、、バターでさえ味が変わってきてる

こんなのバターじゃない!FAKEバターだ!

もうそんな感じの毎日。


だから少しでも


本物

本当

それを探したいんだ。。。。











昨日のアクセス

訪問者数 218人
ページビュー 1,108 pv

今週はずっとページビュー1000越

一人平均5ページ

おいらのブログなんか1日に5ページ

まともに読めないと思うわよん(゜o゜)

読んだあときっと頭ぐっちゃぐっちゃになるだろうな~~

私の脳内のぐっちゃぐちゃを伝染させてるようなもんだもんな

通りすがりでいつも300人弱が来てる訳じゃないと思うから

常連さんとマウンテンビューなんでしょうけど、

私がいつもコメントとか残すなとか仲間になろうとすんな!とかいってるから

誰一人としてコメント残さない

コメント残されると残すな!とかいうしね、、、

ほんとすいませんね、、、



私もそう思います

私もそう思ってました

これってああですよね?

それってこうですよね?

ってこういうやり取りは私の時間を奪うことになるからですね

ブログやSNS内のやり取りをしないんです。


それから

自分の感じたものをメインに探したりしているので

感じるものって人それぞれだから

他人の感じたことをあれやこれや言われると

自分が感じるアンテナが鈍るんです。

これが一番イヤなことで、

だからマイケル生きてるブログメインだったときも

みんなが、あーじゃないかこーじゃないか言ってくるので、

だったりみんな自分でブログ書きなよって、みんなを突き放したの

思うことがあれば私に言ってこないで自分で書けばいい

そういって突き放した

今当時の人でマイケル生きてるブログを続けている人はいるんだかいないんだかわからない


見るのは勝手だからね

見るなというならオンラインに書くなと言う話なのだ。



見て

えええええ?って思って

うそうそ!!!!って思って


自分で調べ始めて欲しいんですよ。

時折書いとく注意事項でした。

今日も引き続き河内サーチと

TMZネタをリンクしておきますよ







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消えた一族(218)河内サーチ [消えた一族]

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消えた一族(217)マリはとっても引っかかるのよ
http://escapejama.blog.so-net.ne.jp/2017-02-26





河内サーチはこっちで別に。








河内(かわち、かわうち、こうち、かだい、ハノイ


ベトナム(越南)の首都ハノイの漢字表記河内

高知


河内氏

1 西漢氏支族河内氏
2 河内源氏(信濃河内氏)
3 河内源氏(武蔵河内氏)
4 甲斐源氏河内氏
5 越後河内氏
6 楠木流河内氏
7 千葉流河内氏


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%86%85%E6%B0%8F



西漢氏の支族で朝鮮半島の伽耶地方から河内国に渡来してきた氏族。

『百済本紀』に安羅日本府の倭臣として「加不至費直」という人物を記している。

河内氏は5世紀末ごろに帰化/渡来し、ヤマト王権に軍事・外交面で仕えたと考えられている。



飛鳥時代後期(7世紀後半)には河内国に河内寺(現在の東大阪市)を建立。

伽藍(がらん)配置については

北から南に一直線に講堂、金堂、塔、中門が並ぶ「四天王寺式」だったと推測されている。

本拠地は河内国河内郡。




河内国

河州

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%86%85%E5%9B%BD


古代

7世紀に成立した。

『古事記』には川内の表記も見え、7世紀末・8世紀初めの木簡2例にも川内と書かれている[1]。

河内の名が確定したのは、おそらく大宝4年(704年)の国印鋳造時である[2]。

河内の名を持つ国造には凡河内国造がある。

また古代の大豪族の物部氏の勢力があり、東大阪市衣摺は、その本拠地のひとつであった。


霊亀2年(716年)4月16日に、大鳥郡・和泉郡・日根郡を割いて和泉監を分立させた。
天平12年(740年)8月20日に和泉監を併合するが、

天平宝字元年(757年)5月8日に、今度は和泉国として再び分立させた。

称徳朝の神護景雲3年(769年)に由義宮(八尾市)が建設されるとこれを西京と称し、

それに伴って河内国が廃止され、

かわって特別行政組織河内職が設置されたが、翌年元に戻された。

羽曳野市壺井は、武家の棟梁となった河内源氏が本拠地とした地で、

その祖・源頼信や子の頼義、孫の義家の三代の墓が、

河内源氏の菩提寺通法寺跡の近くに残っている。

鎌倉幕府を開いた源頼朝は、彼らの後裔である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%86%85%E5%9B%BD


大国 (令制国)
大国(たいこく、たいごく)とは、律令国の等級区分の一つである。

古代の日本で律令制が布かれた時代に定められた。

朝廷は中央集権体制を確立することを目的とし、
地方行政区画の一環として国力(課丁、管田、貢賦等の規模)により
諸国を四等級に分け、行政上の決裁を行った。


延喜式が策定された10世紀頃の等級分類では、以下の13ヶ国が大国とされていた。
大和国
河内国
伊勢国
武蔵国
上総国(親王任国)
下総国
常陸国(親王任国)
近江国
上野国(親王任国)
陸奥国
越前国
播磨国
肥後国


:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::










ってことはやっぱ、

河内=物部ということだよね

初めからいたのは物部で

そこへ河内がやってきた



物部氏(もののべうじ)は、

「物部」を氏の名とする氏族。

姓(かばね)は、始め物部連、後に物部朝臣。

大和国山辺郡・河内国渋川郡あたりを本拠地とした有力な豪族で、

神武天皇よりも前に大和入りをした饒速日命が祖先と伝わる神別氏族。

穂積氏や采女氏とは同族の関係にある。

饒速日命は登美夜須毘売を妻とし物部氏の初代の宇摩志麻遅命(可美真手命)をもうけた。

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


河内寺廃寺跡

河内寺廃寺跡は、

大阪府東大阪市の東部、生駒山地の西麓部標高20mの緩傾斜地上に立地する
7世紀中頃に創建された古代寺院跡である。

遺跡のすぐ北西側に隣接して河内郡衙に比定される皿池遺跡がある。

発掘調査の結果、塔、金堂が南北に並ぶ四天王寺式伽藍配置が復元され、
各堂宇についてもその基壇規模・建物規模が確定した。

特に遺存状態が良好な塔跡は、

創建当初は乱石積で一辺10.7m、高さは1.4mの基壇規模をもち、

初重は等間の3間で、柱間寸法は1.95mであることが分かっている。

その創建時期については、出土瓦の分析から、金堂と回廊は7世紀中葉、塔はやや遅れて7世紀後葉になることがわかっている。

また廃絶時期は、遺跡を被覆する土石流状の堆積土中に、
14世紀初頭の瓦器椀を含むことから鎌倉時代末期に求められる。

文献資料の記載から、

河内寺廃寺は有力な渡来系氏族「河内直」により氏寺として建立され、

のちに律令制度の発達とともに河内郡衙に付随した郡寺として発展していったと考えられる。

このことから河内寺廃寺跡は、

古代河内国における在地豪族の政治的・経済的伸張、
そしてその庇護のもと行われた仏教文化の受容と発展を考えるうえで重要である。

大阪府東大阪市 河内町
https://www.google.com/maps/place/%E6%97%A5%E6%9C%AC,+%E3%80%92579-8044+%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%BA%9C%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%B8%82%E6%B2%B3%E5%86%85%E7%94%BA/@34.6644606,135.6454196,3a,75y,90t/data=!3m8!1e2!3m6!1s-NK8shNm23uk%2FV9AGcM4wcoI%2FAAAAAAACr1s%2F9PbVFFeRqGg0qC1C-5m8y9Tw8EG3dBuzACJkC!2e4!3e12!6s%2F%2Flh6.googleusercontent.com%2F-NK8shNm23uk%2FV9AGcM4wcoI%2FAAAAAAACr1s%2F9PbVFFeRqGg0qC1C-5m8y9Tw8EG3dBuzACJkC%2Fs156-k-no%2F!7i4032!8i3024!4m5!3m4!1s0x600121197732ca83:0xd3b17907f8f16067!8m2!3d34.6651627!4d135.6450478!6m1!1e1?hl=ja




瓢箪山駅近くの山すそに、かって大きな古代寺院があったというのです。
土地の人は、「昔、ここにお寺があった」と言い伝えてきました。
近年の発掘の結果、確認された遺跡の重要性が認められて2008年(H20)に国史跡に指定されました。
いまだ知る人の少ない幻の寺の実像に迫ります。

http://www.do-natteruno.com/con_c/c155/c155.html" target="_blank">http://www.do-natteruno.com/con_c/c155/c155.html


かわちでら じゃなくて

こんでら だって


古くから、このあたりの水田や畑から古い瓦が出てきて、
土地の人は、「こんでら」とい うお寺があったといい伝えてきました。

今日、「こんでら」とは、『河 内寺』のことだと考えられています。
しかし、文献からも、発 掘からも寺の名の手がかりは出てきません。
そこで、研究者は、この遺跡を河内寺跡とせずに、『河内寺廃寺跡』と名づけることにしました。

 乙巳(いっし)の変(蘇我入鹿が中大兄皇子と中臣鎌足に討たれる)や白村江の大敗、壬申の乱など、まさに大乱の時代でした。しかし、隋や唐にならって律令制を整え、一流の文化国家をめざそうとする悲願が底流にありました。『河内寺』が建てられたのは、大陸から伝来した仏教が興隆していく時代でした。


河内の中の河内

古代の畿内は、大和、山城、摂津、河内の四カ国と定められていました。

古代河内國は、かなり広い範囲です。

今の市域でいうと、
北は交野市から、南は羽曳野市あたりまでで、14郡ほどに分かれていました。

河内郡はその中の一つです。




渡来氏族 河内直(かわちのあたい)の氏寺か?

 そのころの大和政権は、地方を従えようと策を練っていました。

その一つが氏姓制度(しせいせいど)で、
血縁関係にあるものを中心に、それに従うものを含めた氏(うじ)と、
それをたばねる氏上(うじのかみ)を公けに認め、
その氏に、臣(おみ)・連(むらじ)・君(きみ)などの姓(かばね)を与えることで
中央に従わせようというのです。

朝鮮半島の百済からやってきたと思われる河内氏の祖先は、

河内湖の低湿地帯の開拓などで地方豪族としての力をたくわえていましたが、

河内の氏(うじ)と認められ、直(あたい)という地方豪族に与えられる姓(かばね)をもらい、

河内郡の大領(たいりょう=地方長官)に任命されたようです。
※河内直とは、個人名でなく、氏とその位をあらわす。

http://www.do-natteruno.com/con_c/c156/c156.html




吉備(きび)地方にあったエピソード


 河内寺の創建の経緯はわかっていませんが、当時の地方豪族と仏教のかかわりを示す吉備地方のエピソードを紹介しましょう。平安時代のはじめに書かれた仏教説話集『日本霊異記(にほんりょういき)』※に載せられた、備後(びんご)国三谷郡の、ある大領(地方長官)の話です。大領が活躍したころ、大和政権と親しかった百済が唐と新羅の連合軍に滅ぼされました。
             ※日本国現報善悪霊異記(にほんこくげんほうぜんあくりょういき)




遠山美都男著『白村江 古代東アジア大戦の謎』
   講談社現代新書 表紙 中川恵司氏作  斉明天皇と中大兄皇子が百済を助けようと救援軍を募っていて、三谷郡の大領はよびかけに応えて救援軍に加わります。そのとき、「もし無事に帰れたら、立派な寺を建てます」と仏に誓いました。
 結果、救援軍は白村江で大敗したのですが、大領は命びろいをしました。


 このあと大領は、百済の“弘済(こうさい・ホンジェ)禅師”をともなって無事に三谷郡に帰りました。おそらくこのとき、国を失った百済の技術者も連れかえったのではないでしょうか。大領は、仏への誓いを果たすため、弘済禅師の指導で寺の建物を完成させました。しかし、肝心の仏像がまだありません。
 
 そこで弘済禅師は、大領から『宝』を預かり、みずから大和の都へのぼります。そのころ栄えた市場といえば三輪山麓の海柘榴市(つばいち)でしょうか。


市場で仏像の材料となる金と丹(に=水銀)を買い求めます。

難波津から大きな船に荷を積み替え、備後国に帰ったというのです。

説話めいたエピソードですが、現実には、広島県三次市の『寺町廃寺』がそれにあたると考えられています。

この話から、当時、仏教が地方豪族に広まっていたことや地方豪族の豊かな財力がうかがえます。また、寺の建設や運営に渡来人が大きな役割を果たしていたことがわかります。
 660年に百済が滅び、ついで668年に高句麗が滅びます。その遺民が多く日本に渡ってきます。河内寺を建てたと思われる河内氏は、新しい技術を携えてきたこれらの人々を受け入れ、さらに大きくなっていったのではないでしょうか。河内寺の一番古い瓦が高句麗系といわれています。大陸の動乱を背景に、一大ドラマがあったことでしょう。




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100_new3.jpg



うわっ


瓢簞山駅
大阪府東大阪市昭和町4-1

瓢箪山

瓢簞山駅(ひょうたんやまえき)は、
大阪府東大阪市昭和町にある、近畿日本鉄道(近鉄)奈良線の駅。駅番号はA13。
当駅から石切駅までの区間は、最大35.7パーミルの上り勾配が連続している。



瓢箪山町

創建は天正11年(1584年)。豊臣秀吉が大坂城築城にあたり、巽の方(大坂城の南東)三里の地に鎮護神として伏見桃山城から「ふくべ稲荷」を勧請したことが由緒とされる。 現在の本殿は、慶応2年(1866年)に建てられたものである。



瓢箪山稲荷神社
日本三稲荷(諸説あり)の一つであり、辻占総本社である。

祭神は若宇迦乃賣命(保食神)ほか

戸川神社
本殿裏側の墳丘上にある境内社。
祭神は保食大神。

三柱神社
拝殿北側にある。
祭神は天照大神、月夜見命、素盞嗚尊

宮比神社
祭神は天宇受売命

菅原神社
祭神は菅原道真

水分神社
祭神は水分神


神社本殿の背後にある小丘は、通称「瓢箪山古墳」とよばれる、

古墳時代後期・6世紀末ごろに作られた双円墳で、山畑古墳群の中で最大・最古のもの。

そのヒョウタンに似た形状から、古墳および一帯の地名が「瓢箪山」と呼ばれるようになった。



ひょうたん

リアーナもつけてたな~~~~~







江州音頭 二代目 榊家 文若 尼崎で踊ろう 





江州音頭

仏教の御経の節である声明を源流とし、
山伏らによる民間布教手段として派生した祭文が一部で娯楽化し、
次第に宗教色を薄めて遊芸としての祭文語りが独立した。

浄瑠璃に近い説経節や、浪花節を生んだ浮かれ節などより下卑たものとされ、
語りの合間に法螺貝を拡声器として用いて、
一同で「♪ デロレン、デロレン」という合いの手を入れることから、デロレン祭文と総称された。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E5%B7%9E%E9%9F%B3%E9%A0%AD







河内音頭

江戸期から北河内交野地区、中河内八尾周辺、また南河内でもそれぞれ歌われていた土着の音頭・民謡、浄瑠璃、祭文といった庶民の芸能と仏教の声明が長い時間をかけて混ざり合い改良されて成立。

盂蘭盆会、地蔵盆の時期に盆踊り歌として歌われることになるが、

元来は亡くなった人々の魂の鎮魂歌であり現世に回帰した際の霊魂をもてなす意味が含まれ、
いずれにせよ仏教とは切っても切れない経緯がある。

尚、伝統的な祭文音頭と、今日一般的に知れ渡れるようになった、
現代の河内音頭と呼ばれる音頭は節回し(曲調)が大きく異なる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E5%86%85%E9%9F%B3%E9%A0%AD




うーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーん


まあね。。。




さきに進む


物部氏

饒速日命は瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の兄とされる天孫で、

ニニギが日向の高千穂峰に降臨する以前に、

アマテラスから10種の神宝をさずかり、

天磐船(あめのいわふね)で河内の哮峰(いかるがのみね)に天下った。

河内の哮峰は、北河内郡天の川の上流生駒山の北嶺とされている。

そして、付近一帯に勢力を張っていた長髄彦(ナガスネヒコ)を服従させて、その統治権を掌握した。

さらに、長髄彦の妹の登美夜須毘売(トミヤスビメ)を妻とし、

宇摩志麻遅命(ウマシマジのミコト)をもうけた。

瓊瓊杵尊の曾孫にあたる神武天皇(神倭伊波礼比古命カムヤマトイワレヒコ)が

日向から東征してきたとき、饒速日命は神武天皇がアマテラスの子孫であることを知り、

神武天皇に抵抗した長髄彦を切って帰順したという。

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長髄彦が後の蝦夷



▼『大阪アースダイバー』P054「四天王寺物語」(軍事と呪術の物部氏)の章、
P269「北河内」(宇宙船イワフネ号)の章から抜粋
d.hatena.ne.jp/heisai/20140531

・古代の河内は、物部氏の世界だった。

・もともと北九州の弥生系豪族であった物部氏は、
天皇一族よりもずっと古い時期に畿内へ入った人々である。

・彼らは『古事記』や『日本書紀』よりも古い由緒をもつ、一族の歴史を語る神話集を持っていた。

・「モノ」と呼ばれる霊力を扱う精神技術についても、物部氏は独特の伝統を保持しており、
天皇一族もこの点では物部氏に一目置かざるを得なかった。

・一族の政治的中心は、河内の八尾に置かれ、宗教上の聖地は、
生駒山系北端の渓谷地にある美しい景勝地に設けられた。

・「哮ヶ峰」と呼ばれる岩山に、巨大な「磐船」を着船させた物部氏の先祖は、
そこから広がって寝屋川沿いの交野の地に勢力を伸ばしていったと言われる。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%90%E8%88%B9%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E4%BA%A4%E9%87%8E%E5%B8%82)

(平斎注:この点は意義あり。寝屋川は天野川の誤りではないかと思われます)

・のちになると、物部氏の有力グループが狭い交野の土地を出て、
生駒山地沿いに南下して、いまの八尾のあたりに新しい開発の拠点を設けるようになった。
そこならば広大な水田開発が容易だったからである。

そのグループの勢力は物部守屋の時代に絶頂期を迎えた。


交野市の南端、天野川の渓谷沿いにあり、
「天の磐船」(あめのいわふね)とよばれる天野川を跨ぐように横たわる

高さ約12メートル・長さ約12メートルの舟形巨岩を御神体としている。




ここらで巨石





セネガンビアの環状列石

pickup03.jpg

セネガル、ガンビア両国に跨るセネガンビア地域で見られる環状列石群です。

39,000㎢に分布しており、

遺跡の総数は、1,965箇所で、16,790基の石碑及び石柱が発見されています。

立ち並ぶ巨石は8世紀頃に、より早い時期の墓の上に墓標として立てられたものであり、
12世紀頃まで続けられました。

10個から24個の石でそれぞれの環が形成され、
高さは1mから2.5m、重いものでは10トンにもなります。

これらの石は、一般的にはラテライトです。

1,000以上の環状列石群がありますが、

最大のものは1,000以上の石で52の環が作られているジャルンベレ (Djalloumbéré) のもので、

ワッス (Wassu)周辺にあります。

ワッスには、環状列石に関する博物館があります。

環状列石が立てられた理由自体も解明されていませんが、
2006年にナショナル・ジオグラフィックが報告した発掘調査によれば、

葬儀に関するものであった可能性が示唆されています。



セネガンビアの環状列石の驚くべき特徴は

1000以上もの石柱が幅100km、長さ350kmにわたって広がっていることです


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%8D%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%93%E3%82%A2%E3%81%AE%E7%92%B0%E7%8A%B6%E5%88%97%E7%9F%B3


環状列石
https://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%BB%E3%83%8D%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%93%E3%82%A2%E3%81%AE%E7%92%B0%E7%8A%B6%E5%88%97%E7%9F%B3&lr=lang_ja&hl=ja&rlz=1I7MORJ_jaJP511&tbs=lr:lang_1ja&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=0ahUKEwiridXBsq3SAhXGVLwKHX49BCcQ_AUICSgC&biw=1280&bih=826





ガンビア河に寄り添った「河の国」

ガンビアはアフリカ大陸でもっとも小さな国です。
国土の周り三方を隣国セネガルに囲まれ、
国の真ん中を流れるガンビア川の両岸が国土となっている珍しい地理をしていますが、
国の雰囲気は隣国セネガルともまた少し違います。

一つには、フランスが旧宗主国だった国が多い西アフリカにおいて、
ガンビアはイギリス領であったということが大きいでしょう。

セネガルとは、ほとんど人種が同じでありながら街の雰囲気は異なります。

公用語は英語ですが、多くの人々はマンディンカ語、フラニ語、ウォロフ語といった
現地のエスニックグループの言葉を日常的に使っています。

アメリカの黒人奴隷を描いたアメリカのドラマ『ルーツ』に登場するクンタ・キンテも

ガンビア出身のマンディンカの人々がモデルになっています。


2003年の国勢調査によれば、ガンビア国民の内訳は、
マンディンカ人が42%、フラ人が18%、ウォロフ人が16%、ジョラ人が10%、セラフリ人が2%、
その他のアフリカ系民族が4%、非アフリカ人が1%となっている[2]。
アクと呼ばれる解放奴隷のクレオール人も少数だが存在する。

アレックス・ヘイリー著のアメリカの黒人奴隷を描いた小説、及びそれをもとにした
テレビドラマ『ルーツ』に登場するクンタ・キンテ(英語版)は、
このガンビア出身のマンディンカ人をモデルとしている。




https://www.dososhin.com/know/country/GMB/
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%93%E3%82%A2






はああああああ。。。。。つながりそう。。。。



ドルメンについて調べようと思うんだけど

ドルメンっていったら

あの

へろ~ひろしはやし、はままつしてーいんじゃぱあ~ん じゃん、、、、


しかも、穴あきドルメンに関しては
宇宙人の食料にするために人間を入れとくところっていう、、、


動画はね、実はまともに最後まで見たことがないんですけどね

あほらしくてあほらしくて、、、


あの点と点を線で結ぶっていうのもさ

よくよく考えたら阿保くさくない?

なんか、、だってさ


2点を繋ぐんでしょ


まっすぐに繋がりました!!!!!!!!!!!


って


そことそこを地図上で繋ぐんだから

まっすぐに繋がって当然じゃないの???


で、なんか3点、4点になってくるとどうしたって斜めってきたりするじゃない

そしたら

”平行”

という言葉を使う


まっすぐって言ったってさ、、、、、、、


まあ、いいや、あれは考えれば考えるほど頭おかしなる





とにかく、


Wassu_Stone_Cirles_shaunamullally_01.jpg


worldheritage220_2_20121004120602.jpg


LocMap_of_WH_Stone_Circles_of_Senegambia.png


300px-Sine_Ngayene,Cercle25,tumulus_interne.jpg


300px-Sine_Ngayene,Cercle25,Monolithes_Cercle,Monolithes_Frontales.jpg






巨石

環状列石

ドルメン
https://www.google.co.jp/search?q=%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%83%B3&hl=ja&rlz=1I7MORJ_jaJP511&biw=1280&bih=826&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=0ahUKEwiB84b1tK3SAhXpjlQKHamDAlEQ_AUIBigB

全国的に有名な大阪府八尾市の高安古墳群の中で「八尾ドルメン」(又は「河内ドルメン」)と呼ばれる古墳です。墳丘の盛土が失われ、石室が完全に露出した状態になっています。この「ドルメン」と言う言葉の意味ですが、これは支石墓(しせきぼ)のことで、新石器時代から初期金属器時代にかけて、世界各地で見られる巨石墓の一種のことです。基礎となる支石を数個、埋葬地を囲うように並べ、その上に巨大な天井石を載せる形態をとります。




河内ドルメンを探しに(大阪府八尾市)
ameblo.jp/jyushinwajindo10/entry-11456987812.html

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%AE%89%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4

環状列石なんかはもう

後の男根ーシヴァリンガムにも繋がりそうだし

アラハバキにも繋がるし

道祖神にも繋がるわね、、、、





何がいいたいかわかる?












河の国のマンディンカの血をひく者たちが


河内にやってきているかもしれない。。。。。。










セネガル=ガンビアにまたがる音楽領域の伝統を体現する若手女性歌手。

曰く”ウォロフとセレールのリズムをミックスし、

フラニ(フルベ)のメロディーを使って”曲作りがされているということです(by bunboni さん)。










フルベユラユラ、、、、、、、、、、、、


76243558030ef4f7552d0315e5e66a6b.jpg


アラハバキ大神の巨石
http://blog.goo.ne.jp/inehapo/e/9750dd2f60909b5d560021d1e07c8442/?img=76243558030ef4f7552d0315e5e66a6b







岩手県内の巨石の紹介- その2 ~ 何故か岩手に巨石が多いComments
http://d.hatena.ne.jp/msystem/20140726/1406307662


ちょっといったんUP 









いろいろいろいろ調べて、感じたり、目覚めたりして

なんとなくこうだろうなーーー的なお話は出来上がってるけど

ちょっとまとまらないけど


同じような流れのお話を書いている人を今見つけた。。。。。



でもまだ内緒



なんでかっていったら

そこに我が家の名前の人が絡まってくるからさ


血の繋がらない父方のおじいちゃんは

難波にいたんだけど

今の難波と古代の難波はちょっと違う

そして私、河内国って言うのがいまいちわかんない

そして、河内湖というのがあったらしい

なので地形は今とまったく違うんだ






古墳時代の河内湖
kawatiwanyamatokomiyakotuki.jpg

今の大阪あたりの地図と弥生・古墳時代の頃の推定の地形とを重ねあわせたものです。

古代の地形の研究結果では、
今の大阪市の西側半分は大阪湾で、東側は大きな河内湖と云われている湖が占めていたそうだ。

従って古代の遺跡はその頃の水辺である場所に赤丸で記したように分布していたらしい。
吹田市のあたりは、河内湖が大阪湾とつながっていた水道の北岸だったらしい。  

なぜ、古代の日本の古墳や都が奈良南東部から、大阪の南、
そして、今の大阪城へと移動していったかが、河内湖の存在を考えるとよく分かる。  

 古代史を考える時には、古代の地理を勉強して、地形を知って、初めて、解ける謎も多いように感じた。

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そんなわけで、この古代の土地から調べないとなんとも話が進められないの。


あのね、

どどーーーーんと答えを書いているようなサイトもあるんだけど

それを全部信じちゃうわけにもいかないでしょ

なので、それはあっちの方においといて、

自分が感じた言葉で、自分なりに探してみているの


河内国と難波の関係

なんと言ってもうちのとーさんは大正生まれだし

じーさんは明治生まれだし、そのまたじーさんは、、

慶応 江戸時代  1603年 – 1868年 265年
        (幕末 1853年 – 1868年 15年)
明治時代       1868年 – 1912年 44年
大正時代       1912年 – 1926年 14年


私から見て、血の繋がりのないひいじーさんの名前までしかわからず。


201210kyoto_008.jpg



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縄文時代の大阪と1700年頃の大阪の古地図を示します。
blog.livedoor.jp/ichiro6491/archives/40422859.html

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縄文時代、大阪平野は内海(河内湖)の一部で、その後気温が下がるにつれて、
海面が4~7m低下し、淀川と大和川から流れ出る土砂と相まって低地が形成されました。

この低地では、満潮になると海流が淀川や大和川の奥まで逆流し、
雨が降れば一面水浸しになる湿地帯でした。

浪速とか難波と言う地名は、波にさらされる土地の地名であり、

河内は正に「河の内」だったのでした。

当時の大坂、摂津地方で、唯一石山の上町台地だけが地盤のしっかりした高台でした。



河内国は生駒山脈に沿った大阪府の東半分で、
北は枚方市から南は河内長野市までの南北に細長い地域です
s.webry.info/sp/31814.at.webry.info/200803/article_5.html



http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho107/kai10701.html




いつまでどんな地形だったのかから調べないとだめなのです~~~~~

なので今日はココまで!!









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消えた一族(217)マリはとても引っかかるのよ [消えた一族]

この人カリスマ性あるな~~~

目力もすごいな~~~~


言葉がわかんない


でもなんか


伝わってくるものがあるよ









Arabani Sanogo
https://www.google.co.jp/search?q=Arabani+Sanogo&lr=lang_ja&hl=ja&rlz=1I7MORJ_jaJP511&biw=1280&bih=826&tbs=lr:lang_1ja&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=0ahUKEwj7g9DF3KzSAhXJe7wKHax_BjsQ_AUICCgD


もしかして: Arabaki Sanogo




!!!!!!!


Arabaki



hunter harrp

ドンソンゴニは、元々狩人が歌う時の伴奏楽器



100_new3.jpg












DABA you are the BIG DEVIL

The nobel man powerful person



The Hunting society of Weita
Daba Diarra and the Hunting Society of Weita, Segou, 2015"





Hamer woman , Weita , South Omo valley , Ethiopia

hamer-woman-weita-south-omo-valley-ethiopia-A8C5X4.jpg




Weita , South Omo valley , Ethiopia


https://www.google.co.jp/search?q=Weita+,+South+Omo+valley+,+Ethiopia&lr=lang_ja&hl=ja&rlz=1I7MORJ_jaJP511&tbs=lr:lang_1ja&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=0ahUKEwilz7fe4KzSAhULfbwKHUg4AgwQ_AUICigD&biw=1280&bih=826


Hamer woman


Hamer ??















なぜ引っかかるのか、これまでゲッツ下情報を掘り下げて探してみることにする




ナ~ム~~~~





伝統的にはマリの西南部ワスル地方の猟師が狩猟儀礼に用いている楽器で、

今でも職業音楽集団によってこの種の音楽が守られている。


 ある日の午後、ソティギ・コヤテに連れられて彼の親戚の家に行った。

私のためにすばらしい音楽家を招待してくれたという。

大勢の人が中庭に集まって雑談をしているなか、

宝貝の飾りをちりばめたインディゴの衣装をまとい、

大きなドンソ・ンゴニを抱えた楽士がやってくるなりソティギにひざまづいた。


すぐに、かけ声のようにバンバラ語の短い挨拶が二人の間でしばらく繰り返される。

やがて楽士はンゴニのリズミックで力強いビートに乗って

低く太い声で門付け者のように語り、歌う。


地を踏む足が砂煙をあげる。

このンゴニで歌う奏者に、もう一人の楽士がついている。

彼はンケレニェというスリットの入った鉄パイプのササラを擦りながら相づちを打つ。

ときに歌でソティギを讃え、集まった人たちを讃える。

私は彼らの語り、歌う意味こそ分からなかったが、

終わることのないペンタトニック旋律の短いフレーズに音楽の霊力を感じた。


http://d.hatena.ne.jp/tsuchino-oto/20081126/1227676212



ドンソとはマリ共和国の職業演奏家のことだそう。

彼らは呪術や薬草をあやつり、演奏の中で語り、掛け合いをします。


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ざーーーーーっと大雑把なこと言うと、

マリ王国の大昔、

クンタキンテの部族-マンディンカ族はこの辺の流れ。

マンディンカは部族の中でも高貴な部族で、このマンディンカの奴隷が一番人気だったとか。

奴隷ならマンディンカ!!!みたいな。。


私の父親は、小さい私にこんな流れで映画を何度も見せた

人類創生(アダムとイブ、ノアの箱舟、モーセ。で ”ルーツ” 
これは一連の流れ。

小さいながらに私は、
”ほんとは黒い人がすごいんだ”って思ってた。

で、この流れと別にギリシャ神話をいくつも。 

この数年いろいろ調べてて、

少なくても私は、このマンディンカの血も入ってるなって思ってる。

それを知らせるために、
父は小さい私にそれを何度も見せてたんだろうなと思う。










ちょっと書いとくと


父方の母の家はもともとは”社家”の家だったろうと思う

父方の本当の父は”中村”

育ての父の名は、これまた影や裏にはたくさんいる名前
名前の由来は特になく因幡由来


母方父は香山・母は松山
こちら長野なので最終的、、、と言うより古代には合流してる


で、たぶんそんな一族の流れは同じような感じで


父とは母は

四谷 を頼って東京に出てきて

三谷 で出会って結婚してるんだけど


父は和歌山生まれ

母は長野生まれ

戦後、母たちは家族揃って ”新宮の開拓団” で和歌山で数年過ごしている

その時には母は父と同じ名前の人が経営している映画館によく行っていた。

まだ父とは出会っていない


”あかさたなはまやらわ”


なんか昔調べてて見つけたのは

よく名字のこと調べてるっていうと

名字なんかみんな江戸とかそのあたりに勝手に好きにつけた名前だからあてにならないよ
、、、っていう人がいるけど

100%勝手に好きに作られたわけではないと思うのよ。

たとえば上に書いた



”あかさたなはまやらわ”


じゃ、江戸のこのあたりからこのあたりまでに住んでる人たちは

”あかさたなはまやらわ”

この文字が頭につくように。


江戸の近くの百姓は

”あかさたなはまやらわ” +田 とかな

で、見る人が見れば、どこの百姓か大体わかるとかさ

”あかさたなはまやらわ”

”いきしちにひみいりい”

”うくすつぬふむゆるう”

”えけせてねへめえれえ”

”おこそとのほもよろお”

ほらーーーなんかうまくできてると思わない?


百姓って字自体イミシンだよね

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E5%A7%93


直接把握の対象とした社会階層


日本においては当初は中国と同じ天下万民を指す語であった。

しかし、古代末期以降、多様な生業に従事する特定の身分の呼称となり、具体的には支配者層が在地社会において直接把握の対象とした社会階層が百姓とされた。

この階層は現実には農業経営に従事する者のみならず、商業や手工業、漁業などの経営者も包括していた。だが、中世以降次第に百姓の本分を農とすべきとする、実態とは必ずしも符合しない農本主義的理念が浸透・普及し、明治時代以降は、一般的に農民の事を指すと理解されるようになった。百姓を農民の意味とした初見は、現在のところ9世紀末に編纂された『三代実録』である。

なお、本来の意味で用いる漢文の読み下し及び日本の古代の用例には漢音と呉音の混交した「ひゃくせい」、日本の中世以降の用例には呉音の「ひゃくしょう」の読みを当てるのが慣例である。

純粋に漢音で発音した場合は「はくせい」となる。日本固有の大和言葉では、「天皇が慈しむべき天下の大いなる宝である万民」を意味する、「おおみたから」の和訓がふられている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E5%A7%93

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それました。













ROOTS
http://escapejama.blog.so-net.ne.jp/2016-08-16



買うの忘れてたから今、ゲッツしたよ~~~~~


クンタキンテが素敵だしね。。。












フーーーム。

こうして、シンクロ的衝撃を受けて、思い込み、自己洗脳が進んでゆくのよ。

注意しなければ。。。

your name is spirits

your name is shield

記紀で言う ”印を見せ合った” っていうのは、私は”名前”だと思っているのよ。

剣だけじゃだめ

鏡だけじゃだめ

勾玉だけじゃだめ

そこにはしっかり名前が彫られていると思うのよ





ROOTS
http://escapejama.blog.so-net.ne.jp/2016-08-16





マリ・セグー州
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%B0%E3%83%BC%E5%B7%9E

2004年には、この州の人口の半分は15歳未満だった。
人口増加率は年2.1%で、人口の79%は農村に住む。

住民はバンバラ人、ボゾ人(英語版)、ソニンケ人、マンディンゴ人とトゥクロール人が多い。

この地域の人口の半数はバンバラ人である。
バンバラ人はバンバラ語またはジュラ語を話す。

2番目に人口の多いのはボゾ人であり、彼らは漁業を中心とした生活を営む。
またニジェール川水運を担うのも彼らであり、周囲からは水に熟練した民族とみなされている。

ソモノ人(Somono)も漁民であり、厳密には民族ではなく、
ボゾ人やソニンケ人、バンバラ人の混血である。



マンディンゴ人はバンバラ人と密接な関係があり、

服装や信念、宗教的慣行をバンバラ人と共有する。

ソニンケ人は偉大な商人及び戦士として知られている





バンバラは口承の伝統によって知識を伝えていたため、芸術と文化の多くは不明です。

セグーの文化遺産には、伝統的な楽器、すばらしいグリフォート、民俗舞踊団 、
伝統的なマスクやマリオネットなどがあります。

バンバラ州の伝統的な宗教行為の歴史はあいまいです。

彼らはアニミズムとフェティシズムを文化的実践として、また、トーテムとモンストリズム(祖先の崇拝)として練習する。

最も有名なセゴウの手工芸品は、陶器、製織(毛布、ラッパー、カーペット)、
ボゴラン ( 泥布の特徴的なバリエーション)の製造、
絵画と彫刻に基づいています。

セゴーはまた、 左岸に位置するカラボウグーの大きな陶器の地区を持つマリアン・ティーアの首都とも言われています。
女性たちは、ニジェール川からの粘土で手作りの陶器を作り、
完成した作品を地元の月曜日の市場に持っていきます。




https://en.wikipedia.org/wiki/S%C3%A9gou#History



マンディンカの人々

Mandinka(Mandenka 、 Mandinko 、 Mandingo 、 MandingまたはMalinkeとも呼ばれる) [8]は、西アフリカの民族集団であり、推定世界人口1100万人である(この地域の他の3大民族グループは、 ハウサとソンファイの人々)。 MandinkaはMalinké/ Maninkaの王Sundiata Keitaの支配下で権力に上がったMali帝国の 子孫です。

マンディンカはマンデー族の大規模な言語族の一族であり、デュラ、 ボゾ 、 Bissa 、 バンバラを含めて2千万人以上を占めています。 もともとマリのマディンカは、13世紀に前の帝国から独立し、西アフリカにまたがる帝国を創設しました。 彼らはニジェール川からより良い農地とより多くの征服の機会を求めて西に移動しました。 一連の紛争を経て、 フラ・ジハード 、特にフタ・ジャロンのフラー・イマメート 、多くのマンディンカ族が先住民族の信念からイスラム教に変わった。 現代アフリカのマンディンカの99%以上がイスラム教徒です。 [9] [10]

Mandinkaの人々は、主に西アフリカ、特にガンビアとギニアで暮らしており、どちらも最大の民族集団です。 マンディンカ族の主要人口は、 マリ 、 シエラレオネ 、 アイボリーコースト 、 セネガル 、 ブルキナファソ 、 リベリア 、 ギニアビサウ 、 ニジェール 、 モーリタニアに住んでいる 。 広範囲に及んだが、ほとんどの国でマンディンゴは最大の民族集団ではない。 ほとんどのマンディンゴは伝統的な農村で家族関係の化合物に住んでおり、彼らの伝統的な社会は社会的に階層化された階級を特色にしている。 [8] [12] [13]マンディンカのコミュニティは、長老と長老のグループによって率いられ、かなり自律的で自己統治されている。 Mandingoは口語的な社会であり、神話、歴史、知識がある世代から次の世代に伝えられています。 [14]

16世紀から19世紀の間に、多くのイスラム教徒と非イスラム教徒のマンディンカ人が、他の多くのアフリカ系民族とともに、捕虜になり、 アメリカに奴隷化されました。 これらは混在し、マンダニカの人々がカリブ海 、 ブラジル 、および米国南部で現在発見されているアフリカの伝統的な人々に大きな影響を及ぼして、クレオール文化を創造しています

Mandinkaの文化は、伝統、音楽、精神的な儀式が豊富です。 Mandinkasは、物語、歌、諺を通じて、長い口頭の歴史の伝統を続けています。 農村地域では、西洋教育の影響はごくわずかです。 これらのマンディンカの中のラテン文字の識字率はかなり低い。 しかし、成人人口の半分以上がアラビア文字 (Mandinka Ajamiを含む)を読むことができます。 これが教えられている子どものための小さなクルアーンの学校はかなり一般的です。 マンディンカの子供たちは、出生後8日目に名前が付けられています。子供たちは、家族の中で非常に重要な人の名前をとっています。

マンディンカは口頭で豊かな歴史を持ち、 ギリシャ人に受け継がれています。 音楽を通じた口頭の歴史の流れは、音楽をマンディンカの最も特徴的な特質の1つにしました。 彼らは彼らのドラムと独自の楽器であるコラのために長い間知られてきました。 コラは、牛やヤギの皮で覆われた、半分の乾燥した中空のひょうたんから作られた21ストリングのギターのような楽器です。 弦は釣り糸で作られています(これらは伝統的に牛の腱から作られていました)。 それは、griotの歌に伴って演奏されるか、または単独で演奏されます。

世界遺産に登録されているマンディンカの宗教・文化遺産はギブレド/ハマナの ギニアにあります。


https://translate.google.co.jp/translate?sl=auto&tl=ja&u=https%3A//en.wikipedia.org/wiki/S%25C3%25A9gou%23History



シエラレオネのマンディンゴ人
https://translate.google.co.jp/translate?sl=auto&tl=ja&u=https%3A//en.wikipedia.org/wiki/S%25C3%25A9gou%23History



マンデー社会では、歴史家、顧問、仲裁者、称賛者(後援)、ストーリーテラーであった。
本質的に、これらのミュージシャンは、古代の伝説と伝統を歌を通じて保存して歴史の本を歩いていました。

彼らの伝承された伝統は世代を通して伝えられました。

彼らの名前、 jeliは、マニカ語の "血"を意味します。
彼らは、音楽がそのように関連付けられているように、精神的、社会的、または政治的な力に深く関わっていると言われました。


音声は、歴史と人間関係を再現することができるので、力を持っていると言われています。

ギリシャの権威と彼らの歌の感知された力にもかかわらず、ギリシャ人は私たちが想像しているように西アフリカでは積極的に扱われません。
実際、トーマス・A・ハイルは次のように述べています。「もう一つの理由は、ギリシャへのアンバイヴァレンスの理由です。」という古代の伝統は、
別名として「カルスト」のメンバーとしてあまりにも単純に分類されています最悪の場合、その違いは、地球を汚染するのを避けるために、地面ではなく樹木に餌を埋めることを意味していた(Conrad and Frank 1995:4-7)。

今日では、これらの伝統は変化していますが、グリオットやギリオ族の人々は、
彼らが所属する職人のグループの外で結婚することは非常に難しいと感じています。
[2]幸いにも、そのような差別は今や違法とみなされている。









グリオと呼ばれている世襲制の音楽家達です。文字のなかった時代(マリ帝国時代以降、イスラム教と共にアラビア語は入ってきましたし、多くのイスラムの学校があった事を考えると、文字によって書き記す事をしなかった、とも言えます)グリオは口承伝承人として、またコラ、ンゴニ、バラフォンなどの楽器を演奏する音楽家として、戦争や民族の移動、お抱えの主人である一族の歴史を語り継いできました。同時に彼らの即興の音楽や詩はニュースを伝える役割も担い、社会的に大きな影響力を持っていました。  

グリオは世襲制の職業的階層を形成し、グリオでない人が歌うことは恥ずかしい事とされています。


マリ共和国の最多数民族、マンデ緒族(マリンケ、バンバラ)の人々は、かつて繁栄したマリ共和国の子孫である事を今も誇りに思い、そんな彼らに最も愛されているのがグリオが語る初代マリ王スンジャータの叙事詩です。  私が聞いたのは2時間ほど(長い物語の一部)でしたが、満月の夜に奏でられた演奏、歌声はとても美しく、人々は物語に何度も頷きながら静かに耳をそばだてていました。おそらく、幾度となく聞いた物語のはずです。その度に先祖の功績と武勇に思いを馳せるのでしょう。

スンジャータ物語

マリ共和国ドンソ写真スンジャータ・ケイタはマリの南部カンガバ州(Kangaba)の王位継承者12人の末っ子として生まれました。彼は幼少のころ病弱で、7才で父が亡くなるまで話すも歩くことも出来ず、他の王族ファミリーから嘲られバカにされていました。  その頃、スマングル(Sumanguru)はガーナ帝国の広大な地域を支配し、極悪非道の支配者としてマリンケ人から大変嫌われていました。ある日、占い師が言いました。「カンガバ州の王族がいつかあなたを殺すでしょう」。スマングルはカンガバ州に攻め入り、スンジャータの兄弟と王侯貴族全員を殺してしまいます。しかしスマングルは、病弱なスンジャータはそのうち死ぬだろうと考え、殺しませんでした。

スンジャータは奴隷として国外に追放されましたが、一人の鍛冶屋の作った矯正器(副木、添木)を使って歩行を学び、狩りの名手として、指導者として成長していきます。  スマングルの悪政に悩まされていたマリンケ人は、いつの日か占い師の言った英雄が現れるのを待ちました。それが、立派に成長したスンジャータだったのです。1235年、Kirinaの戦いでスンジャータの軍はスマングルの兵をうち破り、スマングルを殺しました。その後スンジャータは金産出地域を支配下に置き、急速にその支配を拡大していきます。そして、誰もが幸せに暮らせる国、マリ帝国が出来たのです。


多民族国家マリ共和国では、それぞれの民族に職業的音楽集団が存在します。中でも、私が最も好きなのがドンソ(ドゾ)と呼ばれる演奏家(猟師)たちです。

 ドンソは主にマリ共和国西南部・ワスル地方に住む狩猟を生業とする人々です。サバンナに出て狩を行う彼らは、毒蛇やサソリなど命を脅かす動物、また、かつてはライオンなど恐ろしい動物と出会う機会も多い職業です。 狩に出かける勇気と危険から身を守る呪術(サソリを手に乗せたりできます)、狩猟や薬草の知識など猟師としてのすべての知識を伝授されたドンソ達が奏でるのがドンソ・ンゴニと言われる楽器であり音楽です。(右下の楽器。半割りひょうたんにヤギ皮、6弦ハープ)

マリ共和国ドンソ写真3何をも恐れぬ勇気を持ち呪術を使うドンソは、演奏の中で語り、掛け合いを行い、相手を鼓舞し奮い立たせる役目を担います。男の子が生まれた時も、ドンゾが雇われ空砲を撃ち鳴らしてその出生を祝い将来の願掛けが行われます。彼らは9時間位は歌い踊り続け、楽器をかき鳴らしながら踏むステップは土を巻き上げるほど激しく、護符の付いた泥染めの衣装と独特の風貌はすばらしいの一言です。

 ドンソは自生する薬草にも詳しい事から、薬を売るドンゾの姿を時々街で見かけます。生薬を扱い呪術(呪医)に通じる彼らは、社会的に独特の地位を築き、尊敬されると同時に恐れられている存在でもあります。今でも個人や社会的事件が起きるとドンソの仕業(呪い)だ、と言った噂が囁かれるのです。


http://www.malitour.com/culture/gliot.html




マンサ・ムサと黄金伝説


金がニンジンの様に採れる マリの支配者はマンサ(皇帝、主君)と呼ばれるようになリ、

金と塩を結ぶ交易ルート上に都を築きました。



アラブ商人には金鉱山の場所は知らされず、

またキャラバンを盗賊から守るためにも、商人はマリ帝国の保護を必要としました。

マリ帝国はマリを通過する人々に高い税金を課し、交易で巨大な富を得ます。





800年ごろから始まったマリ帝国は、14世紀マンサ・ムサの時代に最盛期を迎えます。

1324年、マンサ・ムサは第一夫人を伴ってメッカに巡礼しました。

その時、数千人の側近と軍隊、召使い、そして100頭のラクダと2トン以上の金を運んだとされています。

途中立ち寄ったカイロでは、彼がばら撒いた黄金のせいで数年間金が暴落、

12年間インフレが続いたそうです。

(諸説があり、はっきりとした数字は判りません)

この巡礼は、イブン・ハルドゥーンの著書を通してヨーロッパにも伝わり、

「黄金のマリ帝国」の名は一躍知られるようになりました。

この<黄金伝説>が
後ほどのヨーロッパの列強諸国によるアフリカ進出のきっかっけのひとつとなったのです。

http://www.malitour.com/culture/history.html


:::::::::::::::::::::::::::::::::


ふふふふふふふふふ


ふふふふふふふっふふふふ


同じですね。



道君や蝦夷や奥州藤原氏


思うに


一番初めはそれこそ

赤土・丹土

そして

水銀

砂鉄



さまざまな鉱石




だったんでしょう。。。。。。って思う。


これらを採っていた人はばらばらではなく

同じ血脈

同じ一族


数日前にリンクを貼った

ほむらたつ

炎立つ




物部一族と蝦夷安倍氏の関係ですね。。。




物部阿部氏


蝦夷安倍氏





私が思うにですよ


私の細胞が叫ぶにですよ




物部阿部氏


蝦夷安倍氏



で、これはまったくまだなんともいえないつぎはぎな話なんだけどね

ネットでちらちら見つけた話のつぎはぎ


石舞台を作ったのは、、、、、、ううううう、、、、


ちょっとまった、まだやめとこ

もう少し調べよう



でもね、、、


物部の本拠地 ”河内”


この

”河内”がね、、、、



ちょっとお待ちを。。。


ケイタでもどうぞ

大好きなんです。





裕福な貴族の家に生まれ、古代マリ帝国王家の直系の子孫に当たる。

しかしアルビノにより生まれ持った白い肌は、社会から迫害とも言える差別をもたらした。

一族からも追放同然の差別を受け、若き日の生活は貧しかったという。

幼少期より音楽の才能を示し、1967年にミュージシャンを志して首都バマコに移り住んだ。

いくつかのバンドに参加して音楽活動を続けると、次第に西アフリカ地域で人気を得るようになる。

1984年にはフランス・パリに拠点を移し、1987年にアルバム『ソロ』でソロデビュー。

このアルバムによってアフリカ以外での人気を獲得し、ヨーロッパ・ツアーも実現した。

以降も精力的に音楽活動を続け、その強靭な歌声とミステリアスな外見によって
カリスマ的な人気を得ている。

またアルビノの人々の支援する活動も積極的に行っている。





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蝦夷の賊首や嶋津神・国津神 [転載~]

日本武尊(ヤマトタケルノミコト)はすぐに上総(カミツフサ)から移動して、
陸奥国(ミチノクノクニ=東北地方の東)に入りました。

そのときに大きな鏡を王船に掛けて、海路(ウミツヂ)から葦浦(アシノウラ=千葉県?)を回りました。

玉浦(タマノウラ)の横を通って、蝦夷(エミシ)との境に到着しました。

蝦夷の賊首(アタゴノカミ=首領)、嶋津神(シマツカミ)、国津神(クニツカミ)たちは

竹水門(タケノミナト)に居て、(入港を)防ごうとしました。

しかし遥かに王船を見て、(戦闘の前に)その威勢(イキオイ)に恐れをなして、
心の中で勝てないであろうことを知り、皆、弓矢を捨てて、(天皇を見て)拝んで言いました。

「仰いで、君の容(ミカホ=姿)を煮ると、人倫(ヒト)に優れているとわかりました。
まるで神のよう。姓名(ミナ)を教えて下さい」

王は答えました。

「わたしは、現人神(アラヒトガミ)の子(ミコ)だ」

蝦夷たちは皆、かしこまりました。

そしてすぐに裳(キモノ)を脱いで、波をかき分けて、王船を助けて着岸させました。

面縛(ミズカラユワイ=両手を後ろにして顔を前に向けること=謝罪の動作)をして、

服罪(シタガ)いました。


ヤマトタケルは)その罪を許しました。

その首師(ヒトゴノカミ)を俘(トリコ=俘囚)にして従身(=従者)としました。

http://nihonsinwa.com/page/1148.html




蝦夷の賊首や嶋津神・国津神たちが集結した

「蝦夷の境」

http://japanknowledge.com/articles/blogjournal/interest_chimei/entry.html?entryid=97

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江戸、東京の誕生 [転載~]

江戸、東京の誕生




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2016年までの観た!読んだ!お勧めの映画や本でーす!



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