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消えた一族(226) 勧請 [消えた一族]

2017-03-04 03:15:12のブログです
更新中











かん‐じょう〔クワンジヤウ〕【勧▽請】

[名](スル)
1 神仏の来臨や神託を祈り願うこと。また、高僧などを懇請して迎えること。
2 神仏の分身・分霊を他の地に移して祭ること。「熊野権現(くまのごんげん)を勧請する」



神道では離れた土地より分霊を迎え遷座鎮祭すること

すなわち,本祀の社の祭神の分霊を迎えて新たに設けた分祀の社殿にまつること。

もともとは仏教より出た語で

仏に久住して法輪を転じ衆生を擁護することを請う,という意で用いられたが

のちに仏菩薩を他に請じて久住を願うことに転じて用いられるようになった。

日本では神仏習合の発展によって

八幡大菩薩や熊野権現などの垂迹神の神託を請うことを勧請といい

さらに神仏の霊を招いて奉安することをいうようになり

そこに勧請された神を勧請神と呼ぶようになった。




分霊(ぶんれい、わけみたま)とは、

神道の用語で、本社の祭神を他所で祀る際、その神の神霊を分けたものを指す。

分霊を他の神社に移すことを勧請(かんじょう)という。

神道では、神霊は無限に分けることができ、

分霊しても元の神霊に影響はなく、

分霊も本社の神霊と同じ働きをするとされる。

他の神社より祭神を勧請した神社を

分祠(ぶんし)、分社(ぶんしゃ)、今宮(いまみや)などという。

勧請はその神の根源とされる神社(総本社・総本宮)から行われることが多い。

分霊された神社(系列社)の社名は、勧請された神に因むことが多い。

例えば稲荷神社の総本社は伏見稲荷大社であり、

ほとんどの稲荷神社は伏見稲荷大社から神霊の勧請を受けている。

勧請は、本来は仏教で仏に教えを請い、いつまでも衆生を救ってくれるよう請願することを指した。

日本では、神仏習合により、神仏の霊を迎えての祈願を指すようになり、後に現在の意味に変化した。

なお、分祀は、神社に複数の祭神が祀られる場合に、

一部の祭神のみを他所に移して祀る分遷の意味[要出典]でも使われる
(例:伊太祁曽神社)。


神札や御守に祭神の加護を加える降神も分霊の1つである。

その逆は昇神で、それらや御神体から祭神の神霊にお帰り頂く事をいい、

昇神によりそれらの物を左義長でお焚き上げが可能となる。

仏教では降神を開眼(かいげん)、昇神を撥遣(はっけん)などという。


:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


巫女舞

古代日本において、

祭祀を司る巫女自身の上に神が舞い降りるという神がかりの儀式のために行われた舞がもととなり、

それが様式化して祈祷や奉納の舞となった。


前者(「神がかり系」)においては

古来の神がかりや託宣の儀式の形式に則って回っては回り返すという動作を繰り返しながら舞うことなどでその身を清めてからその身に神を降すという、その古態を残すところもあるが、

現在では優雅な神楽歌にあわせた舞の優美さを重んじた後者(「八乙女系」)がほとんどである。

千早・水干・緋袴・白足袋の装いに身を包んだ巫女が太鼓や笛、銅拍子などの囃子にあわせて

鈴・扇・笹・榊・幣など依り代となる採物を手にした巫女が舞い踊る。

また、関東地方の一部などでは巫女が仮面を嵌める場合もある。

処女が巫女(八乙女)として舞を務める例が多いが、

近年では神職の妻女や老女が舞う場合もある[1]。





巫女舞の原点は、

降神巫(こうしんふ)による神がかりの儀式にあったといわれている。



採物を手にした巫女がまず身を清めるための舞を舞い、

続いて右回り左回りと順逆双方に交互に回りながら舞う。

やがてその旋回運動は激しくなり、

しだいに巫女は一種のトランス状態に突入して神がかり(憑依)、

跳躍するに至って、神託を下すことになる。


舞という言葉はこの旋舞の動きが語源であり、

跳躍を主とする踊りもここから生まれたとされる。

中国の巫覡の舞の基本を示した『八卦舞譜』には「陰陽を以て綱紀と為す」とあり、

舞踏の動作は陰陽を意味する左旋と右盤を必須とすることが記されている。

それは太極図が表現する天地がいまだ別れる以前の陰陽混然の姿を示しているとされる。




『古事記』・『日本書紀』において


天岩屋戸の前で舞ったとされる天鈿女命の故事にその原型が見られ、

その子孫とされた「猨女君」の女性達は

代々神祇官の女官として神楽を奉納したとされている。


平安時代の宮廷で舞われたとされる「猨女」・「御巫」(『貞観儀式』)は

いずれも巫女舞であったと推定されている。


『拾遺集』によれば、920年(延喜20年)に奈良の春日大社で

「八乙女」と呼ばれる巫女達による神楽が舞われたと記録されている。

平安時代末期の藤原明衡の著である『新猿楽記』には、


巫女に必要な4要素として「占い・神遊・寄絃・口寄」が挙げられており、

彼が実際に目撃したという巫女の神遊(神楽)は


まさしく神と舞い遊ぶ仙人のようだったと、記している。


また、少し後の時代に属する『梁塵秘抄』にある

「鈴はさや振る藤太巫女」にも鈴を持ちながら舞い踊る巫女が登場する。




中世以後各地の有力な神社では巫女舞が恒例となった。


当時の巫女舞は旧来の神がかり的要素に加えて

依頼者の現世利益を追求するための祈願を併せて目的としていたとされている。



また、地方では修験者と巫女が結びついて

祈祷や鎮魂を目的とする民間習俗の色彩が濃い巫女舞も行われるようになった。


現在でも、祈祷・祈願自体を神楽、あるいは「神楽を上げる」と称する例があるのも、

このことが基であると考えられる。



中世の巫女舞に関する多くの史料が残されている備前国(岡山県)一宮の吉備津彦神社の例では、


1342年(康永元年/興国3年)作成の『一宮社法』によれば、

12名の巫女からなる「神子座」があり、一宮の行事以外でも村々の招きに応じて神楽を舞い、

逆に村々の巫女が一宮で舞う事があった。

だが、1471年(文明3年)に作成された「総社家社僧中神前御祈念之事等注文」によれば、

巫女にも宮神子から選抜される一神子と一般の宮神子、村方の神子に分類され、

一神子のみが本社で神楽を無言で舞うことが許され(託宣などの禁止)、

宮神子は祈祷のみを許され、

占い・託宣・湯立は脇殿で宮神子以外の者が行うことなどが定められて、

神事に携わるものと託宣などを行うものが分離されるようになった。


ところが、江戸時代後期に勃興した国学の中には、


神霊の憑依などの霊的現象を淫祠邪教として否定的に捉える学説が現れるようになり、

そのような民間習俗と結びつきやすい巫女そのものに対しても否定的な動きが出始めた[2]。

後、明治維新を迎え、

国学的な神道観を基に神社祭祀制度の抜本的な見直しが為されたが、

1873年(明治6年)には

神霊の憑依などによって託宣を得る行為は

教部省によって全面的に禁止された。

これは巫女禁断令と通称される[3]。


禁止措置によって神社に常駐せずに民間祈祷を行っていた巫女は全面的に廃業となったが、

中には神社に留まることによって活動を続ける者もいた。

後、春日大社の富田光美らが、

巫女の神道における重要性を唱えて

巫女舞の存続を訴えると同時に同社ゆかりの「八乙女」による舞を

より洗練させて芸術性を高める事によって巫女及び巫女舞の復興に尽くしたのである。

これが今日見られるような巫女舞になっていくのであるが、

依然として「神がかり」の系統を受け継いだ古い形の巫女舞を残している神社も

僅かながら存在している[4]。

その一方で、


島根県松江市の佐太神社のように
男性神職が女装して姫面を付けて巫女舞を踊る神社も存在している。











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ちょっといろいろ出てきちゃって寄り道してた

関係ないやと、またこっちに戻そうにも


今日は何検索しても八幡ばっかり出てくる。

しかも、

比売大神か女祝、、、、、


ああ。。。最終は 


”阿部の祝のミコ” 

かい、、、、、?

だな。 


88の

阿部の祝の巫女


ちょっとお待ちを


夕べからまたずっと足が痛くてね


墓参りのその夜から次の日のお目覚め時も

そういう時って

こっちとあっちの中間にいるんだろうね

あっちからの干渉に気がつきやすい

気がつくと思ってやってるんだろうね


なので


わざと大きな声で、もう!とかいってみる

そうすると、しなくなる。


足が痛くて集中できませんよ

左足ね。。。



ちょっともう少し集中して調べてからまた。。。



なんでこんなことを調べてるかといったら

左足に激痛がおきるから


お墓参りに行く土地に行くとね

お墓ではなんともない


お墓を出て、ちょっとうろうろしようかなーなんて思うともう左足に激痛が走り出して

うろうろするどころじゃない


さぐめさんの神社では足は痛くない


でもなんとなく思うとこがあって調べてる





比売大神っていろいろいわれてる中のひとつに

八幡のシャーマン(巫女)を祭る時のご祭神名っていうのがあった


こんなことを書いていいのかわからないけど

ほら、、インドのクマリとかいるじゃない


あちこちに、たとえばククリヒメを持ってこようって時に

儀式として

神がかり、神を降ろす巫女がいて

その人に憑くわけでしょ

その巫女さんは、シャーマンはまあそこの専属のシャーマンみたいになるんだろうよね

歩き巫女なんて言葉も目にしたことがあるけど

もっとインドのクマリ的な感じで



まあ、、これを観てみましょうか、、






動物の頭部が並べられた暗い部屋に閉じ込められ、
泣き叫ばないかどうか試される試験もあるらしいよ・・


厳しい審査を通り抜け選ばれたクマリは、両親のもとから離され
神として生きなけれないけない。



クマリ様は


自分で歩いてはいけないよう。




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移動するときは、こうやってかつがれながら移動します。





http://ninjah.blog.fc2.com/blog-entry-307.html





ローカル・クマリの一人
クマリ(Kumari、Kumari Devi)は、ネパールに住む生きた女神である。密教女神ヴァジラ・デーヴィー、ヒンドゥー教の女神ドゥルガーが宿り、ネパール王国の守護神である女神タレージュやアルナプルナの生まれ変わりとされており、国内から選ばれた満月生まれの仏教徒の少女が初潮を迎えるまでクマリとして役割を果たす。中には初潮が来ず、50歳を過ぎてもクマリを務めているケースもある。

カトマンドゥのクマリの館に住む国王もひれ伏すロイヤル・クマリが最も有名であり、国の運命を占う予言者でもある。 クマリという場合、概ねロイヤル・クマリを表す(ネパール国内の村や町にも多数存在するクマリはローカル・クマリと呼ばれている)。

2001年7月10日に当時4歳で選ばれたPreeti Shakyaに替わり、2008年10月7日に当時3歳で選ばれたMatina Shakyaが現在のロイヤル・クマリである。

9月に行われるインドラ・ジャートラー(英語版)の大祭ではクマリが主役となり、王がクマリの元を訪ね跪き祝福のティラカ(Tilaka)を受ける。 顔は額から鼻筋にかけて赤い化粧が施されている。



クマリは初潮前の幼い少女から選ばれ、その中から多くの条件が課される。これはチベット仏教の活仏であるダライ・ラマやカルマパらが選定されるプロセスに似ている。 家柄は重要であり、ネワール族の仏教徒の僧侶・金細工師カーストのサキャ(Shakya)の生まれでなければならない。

以下は32もある条件の一部である。
健康である
すべての歯が欠けていない
菩提樹のような身体
牛のような睫毛
獅子のような胸
鹿のような脚
アヒルのように柔らかく透き通った声
黒い髪と目

また、身体的には怪我の跡や不自由な箇所がないことも条件である。 動物の頭部が並べられた暗い部屋に閉じ込められて耐えることも必要とされる。 国や国王との占星術における相性が良く、これらすべての条件をクリアした少女がクマリとなる。


社会から断絶されたクマリの状況は幼児虐待や軟禁状態にあたると人権擁護団体から非難の声もあがっている。2006年にはネパールの最高裁でクマリの伝統が人権侵害にあたるか政府に対し調査を命じた。2008年8月18日、最高裁がクマリの人権について判決を出した。判決は「クマリが,子供の権利条約の保障する子供の権利を否定されるべき根拠は,歴史的文書にも宗教的文書にもない」とし、クマリには教育、行動、食事の自由などが認められるべきであるとした。[4]

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%9E%E3%83%AA




このあたりの、


あれも八幡様だったかな

決められたお稚児さんがやっぱ、お祭り終わるまで自分で歩いちゃ行けない風習が

お祭りで残ってる



ヤツハチの稚児は、毎年2~3才の男児が1名選ばれ、
3年間の本役と、4年目の雇われ役を神の子として務める。

1年目の稚児は月の冠を、
2年目の稚児は日の冠を、
3年目を務める稚児は獅子の冠をつけて舞いを舞う。
4年目の稚児は、1年目の稚児が幼令で奉仕できない時、代役を務めるが、
この4年間は厳しい精進潔斉の日を過すのである。

http://wakayama-jinjacho.or.jp/jdb/sys/user/GetWjtTbl.php?JinjyaNo=7025

http://ameblo.jp/shiraranankurunaisa/entry-12095689383.html



クマリ
http://www.afpbb.com/articles/-/3055209
http://yaplog.jp/ar125/archive/5411





巫女信仰
https://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E4%BF%A1%E4%BB%B0&lr=lang_ja&rlz=1I7MORJ_jaJP511&gws_rd=ssl#q=%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E4%BF%A1%E4%BB%B0&lr=lang_ja&hl=ja&tbs=lr:lang_1ja&start=10&*




アメノサグメ


鳥の声を判断できる巫女



サグメ一族


このクマリじゃないけれど

クマリよりももうちょっとハードそうな

というか、ハードな状況にいた人がいたのかもしれない



私がその土地にまったく関係のない人間だったら

そこにいっただけで左足びっこ引くほど激痛になるってことはないかもしれない

ずーーーーーーっと座ってるのだって大変よ


10分だって正座もできないわ、、、


それだけではなく

うーーーん、、記録など探してみたけど見当たらずだからなんともいえないけど


あんだけ足を痛くさせちゃうんだから

これは


人柱系かなーとか思ったの。



そういう話もその周辺には実際残ってる










○慶長伏見地震、伏見城倒壊-歌舞伎狂言・地震加藤のテーマに(420年前)[改訂]
 1596年9月5日(文禄5年閏7月13日)
 京洛の巷も伏見の港も城も寝静まった子の刻(午前0時ごろ)、京都南部を中心とした畿内と近隣をマグニチュード7.5の大地震が襲った。
 被害は京都の三条から伏見にかけて多く、京都では東寺、天竜寺、大覚寺、二尊院といった大寺院が倒壊、民家の多くが倒潰し死傷者も多く出たという。特に東寺では寺の中枢をなす食堂、講堂、灌頂院、南大門が倒壊するなど大きな被害となった。
 伏見では太閤秀吉の居城、伏見城の天守閣が大破、石垣が崩れた。秀吉は庭に逃れ無事だったが、上﨟(高級女官)73人、仲居下女(下働きの女性)500余人が犠牲になったという。この時、秀吉の怒りに触れ謹慎中だった加藤清正が、手勢を引き連れて真っ先に登城し、城門を固めると同時に救助活動を行ったので、閉門を解かれたというエピソードがあり、後に歌舞伎狂言の「増補桃山譚(地震加藤)」のテーマになった。
 この大破した伏見城の普請は4年前の92年(天正20年)8月から始まったが、この時、その6年前の天正地震で越中から美濃、伊勢にかけて、多くの城が倒壊したのを知っている秀吉は、京都所司代にあてた書簡で“ふしみのふしん(普請)、なまつ(ナマズ)大事にて候まま”と、地震対策を指示していたが、不幸にも予感は当たり多くの犠牲者を出してしまった。
 そのほか畿内では、奈良の唐招提寺で戒壇、僧堂が倒壊、金堂、講堂、東塔などが損壊。法華寺の金堂、海竜王寺、興福寺などが損壊した。また、和泉、河内(現・大阪府)、摂津(現・大阪府、兵庫県)で民家の倒潰が多く、特に堺で600余人が死亡、大坂も倒潰した家多く、兵庫(現・神戸市)では1軒残らず倒潰し火災となったという。全体で1500人余が犠牲になったとされ、中央構造線に連なる有馬-高槻断層による震害と推定されている。
 (出典:宇佐美龍夫著「日本被害地震総覧>4 被害地震各論>082 畿内及び近隣 57頁~58頁」、小倉一德編、力武常次+竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歴史>2.近世の災害 79頁:伏見地震」、伊藤和明著・防災情報新聞連載「災害史は語る No140 慶長年間に相次いだ大地震」、伊藤和明著「地震と噴火の日本史>第5章 大都市直下の大地震>1 京都を襲った大地震 182頁~185頁:秀吉の城が潰れた大地震」。参照:2016年1月の周年災害「天正地震」)









サグメの神社は父の母の家系がとても関係深く

美濃からの移住者って言うのがおばあちゃんの家系なのかは不明だけど

この神社を建て直したりとかいしている。

頭屋(とうや)とは、
神社や講において行われる祭礼や神事などの行事の執行に関して
中心的な役割を果たす人もしくは家。
当屋・祷屋・当家などの表記が行われる場合もある。


古代から「頭」・「頭人」などと呼ばれる祭祀の主宰者があり、
宮座の仕組が確立された14世紀頃より頭人もしくは頭人自身が所属する家のことを頭屋と称して、
家単位で行事に関する職務・責任(頭役)を負うことが行われるようになった。

ただし、神事に対する宗教的・経済的な負担の大きさから後には1年交替などの交替制が取られ、
また専門の神職を設置して祭祀に関する行為を行わせて、
頭屋は世話人的な立場に立って
行事に必要な施設や神酒・神饌・神供などの物資の調達・確保の部分を担うようになった。

頭役は家順・くじ・名簿順などによって決められた。

頭役の交替の際には頭渡し・頭受けと呼ばれる厳格な儀式が行われ、
その任務の遂行のために厳しい潔斎を行って清浄性を保ち
門前に依代であるおはけを飾るなど様々な決まりごとがあった。



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部族の枠を超えて継がれる伝統



世界中を回って新しい生薬を探し回る生薬ハンターや民俗学者の話によると、

シャーマンも高齢化が進み、

若い世代のシャーマンは減っているようです。

その山麓シッキムにレプチャ族が暮らしています。

レプチャ族は顔も言語も風習も日本人との共通点が非常に多く、
自然界の八百万の神を信じる精神性の高い民族です。


そのレプチャ族最後の精神的指導者でありシャーマンであったサムダップ・タソが
最近亡くなり、

古来から受け継がれてきた部族伝統儀式と相伝がついに途絶えてしまいました。


タソの後を引き継ぐシャーマンがいなかったのです。

シャーマンは、
普通の職業のように誰もが引き継げるわけではなく、

高い精神性と天性の資質が必要です。



タソの死は、
レプチャ族だけでなく、
人類の遺産の喪失でもありました。



複数のシャーマンたちは、
部族の人口減少に危機感を抱き、
シャーマンの役割を継承していくには、
部族を超えて、
地球部族の中から新しいシャーマンたちを育てる必要がある
ことを実感していると語っています。






この話で、思い出すのが、
メキシコのシャーマンであるマリア・サビーナ。


彼女は、
部族の枠を超えて
自らの困難と引き換えに
次世代に大切な儀式を伝える活動に専念し、
静かに消えていったシャーマンの一人です。



今日は、マリア・サビーナ(1894年-1985年11月23日)のお話しです。




1950年代に
アメリカの幻覚性キノコ研究者R・ゴードン・ワッソンとフランスのキノコ分類学者ロジェ・エイムは、
メキシコのキノコの実地調査をおこないました。

その時に
先住民の村で体験したシャーマン儀式の記録が
1957年のアメリカのLIFE誌に発表されました。

lifecoverLIFE誌

儀式には
「ロス・ニーニョ・サントス(小さな聖者たち)」
と呼ばれる聖なるキノコで作られた薬草処方箋が用いられました。

この儀式に使われたキノコは、
「テオナナカトル」とも言われ、

モモエギタケ科のモモエギタケ属、シビレタケ属、オキナタケ科のキコガサタケ属、ヒトヨタケ科のワライタケ属などのキノコを混ぜたものであることがわかりました。

これらキノコの混合薬からは
幻覚作用の強いシロシビンとシロシンが含有されています。

シロシビン2シロシビン



次の写真は、約1700年ほど前の遺跡から出土されたものです。
キノコの像に神が彫られています。

この地域一帯の各部族にとって、
キノコは神と対話する聖なる植物なのです。

白人がこの地に侵入してから、
数百年間はキノコの儀式は禁止されていましたが、
途絶えることなく、
伝統は密かに守り続けられていました。


シロシビンは、

摂取後は速やかに加水分解されてシロシンとなり、
腎臓・肝臓・脳・血液に分布します。
agaricuscamのシロシンシロシン

摂取量にもよりますが、
摂取後にまず悪寒や吐気、眩暈、酩酊感、しびれなどが始まり、
その後
視覚異常が現れ始め、

さらに進むと、
幻覚、幻聴、精神錯乱、混迷状態などが顕著に現れて
時間や空間の認識さえ困難となります。



ベニテングタケやテングタケに代表されるイボテン酸は、
最終的に意識が消失していく傾向にあるのに対し、

シロシビンでは
LSD様の過覚醒が発現します。

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アメリカでは、
強迫性障害や心的外傷後ストレス障害(PTSD)といった神経性の病に対するシロシビン処方の治療臨床試験が行われています。

群発性頭痛に一定の効果を得たという報告もされています。

話は戻って

コロンブスのはるか以前からずっと続いてきた「聖なるキノコ」の儀式を
1955年、はじめて"白人"の部外者ゴードン・ワッソンに授けたシャーマンは、

メキシコのマサテカ族の女性シャーマンである

マリア・サビーナです。

本名ドニャ・マリア。

地元では尊敬の念をこめてサビナ(賢女)を入れて
マリア・サビナと呼ばれていました。


マリアは、
幼少期に父親を亡くし、
幼い頃から畑仕事をして暮らしていましたが、
とても貧しく、
食べるものが無いこともよくありました。

6歳になって、
初めて聖なるキノコの集会「ベラダ」に参加しましたが、
それも食べるものがなく、
飢えをしのぐためにキノコを食べに参加したのが最初の体験でした。

その後
思春期から40歳代で二番目の夫が亡くなるまでは、
キノコの儀式にはほとんど参加出来ませんでした。

キノコの儀式に参加する前の一定準備期間は、
性行為が禁止されているからです。



マリアが再び儀式に参加した時に、
キノコの力によって
病に伏している姉の横にいる死神と会話をして、
死神から姉の病気の治療法を教えてもらい、
(死神が来るのは、死ぬ時ではなく、死から蘇る役割を持っている時です)

さらに
高次元の霊的存在から
キノコの知恵と言葉を理解する力を授けてもらった
と言います。



その力によってマリアの名声は拡がっていき、
遠くの村からもマリアの儀式に参加しにやってくるようになりました。
こうして、
マリアは日常を霊的活動に費やしました。


ある時
マリアは聖なるキノコによるビジョンで、
キノコの儀式のことを調べに誰かが彼女の元を訪ねてくることを知りました。

そして、
そのビジョンの中で彼女は、
キノコの儀式を授けるように指示されました。

それからまもなくして
ゴードンたちがマリアの元へやってきたのです。

マリアは、役場に出向き、
部会者に部族の儀式を公開する許可を求めました。

役場で、許可を得たマリアは、
ゴードンたちを儀式に招き入れたのです。


マリアから聖なるキノコを与えられたゴードンは、

色とりどりの幾何学模様や宮殿、
飾り立てた馬車を神話に出てくるような動物が引く光景
などを次々と見て、

さらに幽体離脱して外の山を見下ろして、

はるか彼方の山道をすすむラクダのキャラバンまで見ることが出来た
と記述しています。


その時の体験は、
彼の魂を根幹から揺さぶるほどの
深遠で壮麗、聖なるものであったと記録しています。

sabinaevaLIFE誌

この「聖なるキノコ」の儀式を執り行うマリアの歌声をゴードンが録音したものは
CD化されて、

彼女の死後、
シロシビンを発見した化学者アルバート・ホフマンの100歳の誕生日を記念して
2006年に再び発売されています。


心や身体に病のある人の前でマリアが歌うと、
霊が現れて、
病気の治療法などを伝えてくれたり、
キリストの霊が現れることもあったといいます。



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マリアは、

シロシビンを含むキノコの儀式について次のように述べています。


「私たちの世界には、
それを越えた次元の世界があり、
それは遠くもあり身近でもある、目に見えない世界です。

そこは神のいる世界で、
亡くなった人たちや聖人、精霊たちが住んでいます。


その世界には、時間は無く、現在も過去も未来もあり、
あらゆることが既に在り、
あらゆる知恵と知識があります。

すべてのものが一つのものとして存在します。


その世界には、独自の言葉を持っており、
私はその世界の言葉を伝える役割があります。


私は、聖なるキノコの力によって、その世界へと導かれます。


私が尋ねたことを、彼らは答えてくれます。

この旅から戻ると、私は見聞きしたことを伝えます。」



sabinameditaLIFE誌


また、
聖なるキノコ「ロス・ニーニョ・サントス」については、こうも述べています。


「ロス・ニーニョ・サントス(小さな聖者たち)は、治療する力を持っています。

熱を下げて、風邪を治し、痛みから解放します。
体から邪悪な霊気を取り出し、病気を取り除きます。」







マリアのその後


ライフ誌では、エバ・メンデスという仮名での記事にしたにも関わらず、
写真が多数掲載されたため、
すぐに本名がしられてしまいました。


マリアの存在、
そして
テオナナカトルの幻覚作用が世界に知られたことで、
多くの欧米人たちがこの地に殺到しました。


ジョン・レノン、ミック・ジャガー、ボブ・ディランなど有名人も次々とマリアのもとを訪れています。
マリアのドキュメンタリーも作られました。



マリアは、
彼女のもとを訪れた外国人を受け入れ、

シャーマンの聖なるキノコの儀式を公開しました。

しかしながら、


この聖なる儀式に敬意を払わない興味本位の人々までも訪れるようになり、
部族の人々を怒らせてしまいました。


そして

マリアの家と店は焼かれ、
マリアは村のはずれに追放されてしまいます。


マリアは
息子が殺される前に、その死と殺す相手、凶器であるナイフもすべて見通しました。


彼女は、
「ビジョンの中で、すでに事は成就されてしまった、息子に忠告しても無駄であろう」
と語っていました。

そして
息子オレリオは殺されました。




長い歴史の中で部族内だけで執り行われてきた聖なる儀式を
外部に漏らした行為が原因と言われています。

マリアは、
外の世界に知らせる時期だとのビジョンに忠実に従いました。

その結果は、マリアにとってはつらいものとなりました。




マリアはその後も、
86歳の頃に三度目の結婚をして
1985年に91歳でこの世を去るまで、
聖なるキノコの儀式を次世代に伝える活動を行い、
キノコを用いた聖なる儀式を通した精霊との交流を実践し続けました。





すべての植物には、聖なる力が宿っており、
私たちは、植物の力を決して誤用してはなりません。

植物に敬意を払い、
正しい理性の元で崇高な目的を持って利用すれば、
力を与えてくれます。

マリアは、
部族を垣根を超えて、
それを
私たちに教えてくれた貴重なシャーマンの一人です。

shindenforest.blog.jp/archives/69294565.html



うーーーん。
なんともいえないね

私はこういう経験はあまりしたくないかな↑
しらふでもある程度は見れるでしょ

その世界と繋がったり垣間見る必要があるのかって話





















Sexy Sadie, what have you done?
You made a fool of everyone
You made a fool of everyone
Sexy Sadie, oh, what have you done?

Sexy Sadie, you broke the rules
You laid it down for all to see
You laid it down for all to see
Sexy Sadie, oh, you broke the rules

One sunny day the world was waiting for the lover
She came along to turn on everyone
Sexy Sadie, the greatest of them all

Sexy Sadie, how did you know?
The world was waiting just for you
The world was waiting just for you
Sexy Sadie, oh, how did you know?

Sexy Sadie, you'll get yours yet
However big you think you are
However big you think you are
Sexy Sadie, oh, you'll get yours yet

We gave her everything we owned just to sit at her table
Just a smile would lighten everything
Sexy Sadie, she's the latest and the greatest of them all

She made a fool of everyone
Sexy Sadie

However big you think you are
Sexy Sadie







何が言いたいんだかさっぱりわかんないようなごちゃごちゃ感

でもわかる人はわかってくれるだろうなーと思う。



宗教の世界

精神世界なんてものは

実際に自分で入っていってみないとわかんないもので

でも、そんなものの本当の姿は

ちょっと瞑想してますぐらいの人にもわからず

山伏修行とか行きだしたって、すべてを教えてくれるはずもなく

どんどん先先に、奥に奥に

進んでいかないときっと何もわからない世界で

わかったときにはもう普通の人には戻れないような世界で

わかったことをぺらぺらと何にもしらない人に話してはならない世界で


知りたかったら進んでいきゃーいいけど



私はここら辺でもう十分

私の想像は書かないでおくことにする

でもそれじゃ足の痛いのが取れない気がするけど


次の墓参りの時には

いつも足痛くなり始める場所にお線香お供えするよ。

ココってとこがいまいちつかめてないけど


この話とかを住職さんにしてみてもいいかもしれないけど、

聞いてみてもいいかもしれないけど


それはやめておきましょ。



あのねーーーー



今日は久しぶりに


腐った魚の焼けたにおいがする

焼けた魚の腐ったのっていうのかどっちなのか


前にも何度かこのにおいが突然してきたことがあった


自分の部屋の中の空間から

こっちに来てははじめて。


いやーーーーー

はじめて検索してみた

やっぱそうなんだ。。。

https://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E8%85%90%E3%81%A3%E3%81%9F%E9%AD%9A%E3%81%AE%E7%84%BC%E3%81%91%E3%81%9F%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%84+%E9%9C%8A&lr=lang_ja&rlz=1I7MORJ_jaJP511&gws_rd=ssl




それとか、

部屋中が湯気だらけで煙ってるようになったときもあった


検索したことはなかったよ、、、、













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消えた一族(225)長阿比古存事代主荷の後商として居る。(仕切りなおし) [消えた一族]










長阿比古存事代主荷の後商として居る。(仕切りなおし)


長阿比古存事代主

事代主後商長阿比古


事代主(大国主ー阿部のコトシロヌシ)

長阿比古(ナガスネヒコ・アビヒコ)

蝦夷(東北・北海道はごく一部-アイヌはまた別)



信濃

列島全域(土蜘蛛、熊襲、隼人etc いわゆる朝敵)


いわゆる朝敵といわれ、鬼や蜘蛛や熊や、エタやヒニンにされたものが

先住縄文人=日本人



これを大きく分けて2期目としようか



1期目は

南方から琉球、沖縄へやってきた海(神)人族

神話的に言ったらこれがイザナギイザナミよりも前の古代王朝の人々

イザナギイザナミにこの日本を譲った
そしてアマテラスにその権利が移っていく

そのどの時にも”第六天魔王”は現れて
仏教は近づけるなと言うわけだ


第六天魔王はその古代王朝の長

魔王とかサタンとか、悪魔崇拝とかじゃなく


古代王朝の流れの一族

神話的に、神武が始めての”天皇”だとしたら

この時代にも、この古代王朝の地は婚姻と言う形で継がれていく


それは神話的に行ったらコノハナサクヤヒメのお話。


美しい姫と醜い姫

両方もらってくれたら、美しく咲き誇る花が永遠と続くように

天皇家も続くはずだったけど

美しい姫しかとらなかったので

命短く桜の花のようにはかなく散る天皇家になってしまった


この時に出てくるオオヤマツミノカミが、古代王朝の流れの一族

南方から沖永良部を経由して九州へ、そして列島に広がったんろう


神話の言う”国津神”はみな古代王朝の流れを汲む一族

出雲も熊襲も隼人も土蜘蛛も蝦夷も。


いろんなお姫様がいるけど

私が今まで=として書いてきたのは何も同一人物と言うことではなく

同一の一族が祭っていたお姫様

祭っていたお姫様って言うのが意味不明だったけど

このお姫様はみな、巫女なんだろうね

女版 事代主

神の代弁者

神話の中で、天探女が悪者扱いされてるのも

アマテラス一族を裏切って、オオクニヌシとともに彼の国を自分が治めようと
思っていたアメノワカヒコのところにアマテラス一族からの使者がやってきたわけでしょ

どういうつもりなのか問いただしにきたわけで

神話ではサグメがワカヒコをそそのかして、だまして雉を撃ち殺させたなんて書いてるけど

ワカヒコはオオクニヌシの娘を嫁にもらって国津神の国で幸せに暮らしていたし、
これからも暮らして行こうと思ってたんだから
サグメがそそのかしたりだましたりしていないわけ

返し矢は
もしワカヒコが天津を裏切って国津に着くなら、ワカヒコを射抜けといって
矢を投げ返してるんだから
キジが売れようが打たれまいが関係のない話なわけ
そもそもワカヒコは帰る気なんかなかったんだから

いちおワカヒコは天津のものだから
サグメを悪者にしたんだろう

サグメの立ち居地がいまいちよくわかんないけど

巫女一族って言うのがまた別にあるんだとすれば
”炎立つ”の中に出てきてた物部の吉次一族みたいな存在なんだね
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%82%8E%E7%AB%8B%E3%81%A4_(NHK%E5%A4%A7%E6%B2%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E)



さて、そのサグメを祭って移動したのが
うちの父方のお母さんの家系なのですよ。


昨日のお墓参りに行って、

あーやっぱりか、、って思ったのは


毎回バスを降りてしばらくするとすぐに左足がものすごく痛くなるの

こっちに引っ越してきてお墓参りにいくようになってから気がついたんだけどね

家からバスで30分かからないところ

家からバス停まで歩いて7分くらい

バスに乗ったら座るでしょ

で、バスを降りて数十秒のコンビニに行く頃にはもう足が痛み出してる

で、お墓まではそこから3分くらい

お墓に着くと足がいたいのは気になってない

草むしりをして回りを掃いて、お水をかけて、お花を上げて線香炊いて手を合わせて

周辺片付けて、さあ、帰ろう!

で、またさっきのコンビニのあたりにつく頃

時間をみると大体次のバスがくるまで1時間半~2時間くらいの

中途半端な時間が余るのね

なのでいつも、お墓参りの後には氏神様のところによるわけ

じゃ、さぐめさんのところにいきますかって歩き始めると、神社につく頃にはもう

特に左足の足首、かかとヒザ、足の付け根が痛くなってるのよ

ほんの15分くらい歩いただけで

私にとってこれは非常におかしなことなの

私は歩けば何時間でも歩いていられる人なのよ

この下の地図の赤い点線が全部徒歩移動
キックボードなし

時間にしたら5時間、もっと歩いてるかも

私のたびはいつもこんな感じだから
だからいつも一人で行くんだよ。

大体いやでしょ、こんなに歩くの。


13015463_699735650129574_243566473282526524_n.jpg



前回の墓参りのときも墓参り終わってコンビに来る頃にはもう激痛だったから

今回はキックボード持参だよ

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さぐめさんから徒歩15分位の距離のところにある河内さんにもいってみようと思っていたからね

キックボード少し乗ったけど

あまりにも静かなところで人っ子一人歩いてないし

悪いけど気持ち悪くなってきてしまって

静かに歩いた

そこらへんの人に出会いたくないなと思って

16865021_898999300203207_1207201075482013693_n.jpg


いってみたけど結局祭神もわからず

ただ川の内側にあった


川と山の間ね

反対側が道路と人家

水神さんであることは間違いないね

帰ってきてから再度調べても、はじめに調べた以上の事はわかんなかった


そこから戻る頃にはもうすごく気持ち悪くて

左足も激痛で

やっぱこれはおかしいわって思って

その時感じたもんでいろいろ調べて書いたのが

昨日の機織淵の記事


人柱の伝説はひとつあるんだけど

人柱とも違う気がして

でもそれはまだちょっとよくわかんない

でもでも、あの体の異常は異常で

もう帰ろうってバス停に行ってひょっとした瞬間に、
それまで激痛で足が抜けそうだったのがしゅっとなくなるの


それはありえない

それもいつもそうなの


もうーーーー痛い!!!だめだ、、もう帰るぞ!ってなると取れるの


私昨日はね、さぐめさんの場所があるところ的には人柱かなって思ったんだけど

川の氾濫洪水のための人柱かなって思ったんだけど

ちょっともうちょっと違う感じなのかも

でもそれは私にはわかんないし、

きっと調べるのもちょっと大変そう

もっと呪術的な

密教とか山伏のなんとかとか、もうーちょっと一般人にはわからない世界のもんかも



このブログかその前の頃からかな

わたし

この一族を


” 物部のサグメ ”

、、、とでもいいましょうかって書いたことがあるけど


ビンゴだったみたいだね、、、



ヌナカワヒメをお祭りしているところにもいる我が家の名前

ニュウツヒメをお祭りしているところにもある我が家の名前

そして

サグメとともに美濃からやってきた私の父のお母さん


この地図を見てもらって
https://www.google.co.jp/maps/place/%E6%96%B0%E6%BD%9F%E7%9C%8C%E7%B3%B8%E9%AD%9A%E5%B7%9D%E5%B8%82/@37.0492956,137.9132462,15z/data=!4m5!3m4!1s0x5ff64455a24e1d77:0xb78ccca35fe01e51!8m2!3d37.0390282!4d137.8626522?hl=ja



梶屋敷

金山<< 金山彦 吉次一族と同じ金山、
でもココでは主に、鉄、水銀だったと思う、金も出たか調べたことはナイ

西谷<<ニシタニ サイダニ サイダニは斎谷 祭谷 神の谷 神谷は”ミダニ” = ”三谷”


そしてココには 四ツ屋もあるのよね

父と母が出会うきっかけとなる、両家のつてがある四谷

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


ニュウツヒメ神社のあるところにも”三谷”


そしてさぐめさんのいるところには

才野 サイノ サイヤ 斎野 祭野 神の野 神野は”ミヤ”  =”三谷”


うちの父の語呂合わせ好きには呆れてたけど
こんなところで、役に立ってるのよ。。。




私にはおばあちゃんなんだけど、会ったことがないのだよ

私が生まれる前にはなくなってしまってるからね

父が19歳くらいの頃には両親ともになくなってる

父からおじいちゃんおばあちゃんの話を聞いたこともないのだよ


さて、このおばあちゃんの家の本家が

”中村”

だと思うんだよね。


中村

ナカムラ

ナカのムラ

確かに墓の同じエリアには

中 と言う地名があるよ

中村だよ。


血の繋がらないおじいちゃんは大阪難波からやってきてるんだけど

親戚関係でもなんでもないと思うんだけど

この墓周辺の地域には

なぜか血の繋がらないおじいさんと同じ名前が点在しているの

その中の一軒は裏山に八坂さんをお祭りしてる。

これと同じパターンは田辺にもあり


そうだよねーーーー、、、あの変墓はないよね

神社ってお線香たかないよね

寺はあるから風向きだったのかなーーー

それにしてものすごい線香の香りがして

その香りのする方面に歩いて行って

同じ名前の家を見つけ

線香の匂いがするから、もしや裏に八坂さんがあったりしてってその時は思ったんだけど

神社は線香たかないじゃん

で、とにかくその家の裏に当たるところへ歩いてみたらビンゴで八坂さんがあったの


それと同じような感覚で、

同じく田辺で


鳥居さんと言う家を見つけて

鳥居さんか、じゃなんかこの辺にもあるのか?

って思って反対側の曲がり角の先を見たら

大本教田辺分社があったの


なんで鳥居さんに反応したかと言うと

実家の私道の入り口にあるお家が鳥居さんなの


ただそんだけなんだけど

今思い出すと

大昔あそこに小さな神社があったのかもしれない

そんな気もしないでもない


だからなんか私ピンクがかった朱色の店にしたのかもしれない


古地図を調べてみよう


うちの父が戦後東京に出てきて不動産屋になって

いつもいつも古地図を眺めてた理由もそういうことかもしれない


ちょっといたっんUPします。


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藤原三代とは、

藤原清衡、基衡、秀衡の三代であり、

実は、大和朝廷の東北侵略に対して戦った、

先住日本人・縄文人(蝦夷)の酋長・アテルイ、

そして、その子孫の、

阿部氏の親族なのである。

つまり、京都朝廷・弥生人の藤原氏とは全く違う。



http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Forest/4179/texta35.html

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%86%E3%83%AB%E3%82%A4




「阿弖流爲」「阿弖利爲」



「阿弖 流爲」 「阿弖 利爲」



阿弖


弖>>>>>>「テ」と訓みテニヲハのテの義とす

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slow_1_good_2_byeさん

2014/3/2402:58:10
.

紀伊国阿氐河荘民の訴状の全文


阿テ河ノ上村百姓ラツゝシテ言上
ヲンサイモクノコト(御材木を納めることが遅れていることにつきましては)、アルイワ チトウ ノキヤウシヤウ、アルイワチカフトマウシ、カクノコトクノ人フヲ、チトウノカタエせメツカワレ候ヘハ、ヲ(テ)マヒマ候ワス候。ソノゝコリ、ワツカニモレノコリテ候人フヲ、サイモクノヤマイタシエ、イテタテ候エハ、テウマウ(逃亡)ノアト(跡)ノムキマケ(麦蒔)ト候テ、ヲイモトシ(追戻)候イヌ。ヲレラ(俺ら)カコノムキマカヌモノナラハ、メコトモ(妻子供)ヲヲイコメ(追込)、ミミヲキリ、ハナヲソキ、カミヲキリテ、アマニナシテ、ナワ・ホタシヲウチテ、サエナマント候ウテ、せメせンカウセラレ候アイタ、ヲンサイモクイヨイヨ、ヲソナワリ候イヌ。ソノウエ百姓ノサイケイチウ、チトウトノエコホチトリ候イヌ。



領主に納めるべき材木のことについて、地頭が様々な仕事を私たち農民にさせようとするので、材木を切り出しに行く時間がありません。私たちが、村に残ったわずかな人手で材木を切り出しに行こうとすると、地頭は『逃亡した百姓の畑に麦を蒔け。さもなければ、おまえらの妻や子どもたちを捕らえて牢に入れ、耳を切り、鼻を削ぎ、髪を切って尼のようにし、縄で縛って拷問するぞ』と脅すので、材木の納入はますます遅れてしまいます。





阿氐河荘 あてがわのしょう


紀伊国有田(ありだ)川の上流に位置する山間の荘園(しょうえん)(和歌山県有田郡有田川町)。阿弖川荘、阿瀬川荘とも書く。10世紀末には石垣上荘(いしがきかみのしょう)ともいわれた。中納言(ちゅうなごん)平惟仲(これなか)が1001年(長保3)に京都の白川寺喜多院(寂楽寺(じゃくらくじ))にこの荘園を寄進した。12世紀なかば以降、領有をめぐって寂楽寺と高野山(こうやさん)が争っている。1210年(承元4)御家人湯浅氏が地頭職(じとうしき)に補任され、以後、寂楽寺(本家職は円満院)、高野山、湯浅氏の三つどもえの争いが展開する。1275年(建治1)の有名なかたかな書きの百姓申状は、寂楽寺と地頭との争いのなかで、『貞永(じょうえい)式目』の注釈書『唯浄裏書(ゆいじょううらがき)』の作者で寂楽寺雑掌(ざっしょう)斎藤唯浄が書かせたものである。阿河荘は上、下からなり、12世紀には田地計100余町である。1304年(嘉元2)円満院は領主権を高野山に譲ったが、湯浅氏と高野山の争いはなお続いた。[仲村 研]
『仲村研編『紀伊国阿河荘史料 1、2』(1976、1978・吉川弘文館)』
[参照項目] | 百姓申状


湯浅一族のなかでは,保田,石垣,阿氐河氏などに分化した宗光の系統が有力で,惣領家に匹敵する勢力を有していた時期もある。なお〈ミミヲキリ,ハナヲソギ,カミヲキリテアマニナシテ……〉と百姓を威嚇した阿氐河荘上村の地頭は,宗光の孫の宗親である。文覚,行慈のもとで出家し,高山寺の開山となった明恵(みようえ)も母が宗重の娘で,幼少より湯浅一族に養育され,しばしば在田郡に下向し,郡内の各地で修行した。…




阿氐河氏


湯浅宗親(ゆあさ むねちか、生没年未詳)は、鎌倉時代後期の武士・御家人。

紀伊国阿氐河荘[1]の地頭となった人物で、

日本中世史研究において著名な『紀伊国阿弖河荘百姓訴状』上で

訴えられた当時の地頭その人である。

祖父の宗光、父の宗氏についても本項で触れる。



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E6%B5%85%E5%AE%97%E8%A6%AA



紀伊国 阿氐 河上荘



阿氐

阿氏




アテルイ

アテ ルイ

アテ

ate

ape

abe



keep searching



縄文人・阿部氏の棟梁
であった、阿部貞任の子孫は青森に逃げていた。
彼らは「安東(あんどう)氏」と名乗り、そこでまた、じゅうさんこ
見事な交易国家を築くのである。
 津軽半島に、十三湖(じゅうさんこ)というのがある。
そこは当時、まだ海と繋がっていて、その入り口に
港湾都市を築いたのである。名前を「十三湊(とさみなと)」
という。今となっては、伝説の港町である。
 さかんに船が出入りして、ずいぶん広範囲に貿易を
行なったらしい。ところが、台風と洪水で消失してしまった。
今でもかすかな遺構はあるが、確かな記録はほとんどない。
 現在、その十三湖は東北最大のしじみの産地である。
そこで取れるしじみは並みの大きさではない。
アサリくらいある。仙台のスーパーで、それを初めて
見た時、ビックリして、10分くらい眺めていた。

十三湊を失った縄文人・安東氏は、南北に別れる。
南へ土地を変えた安東氏は「秋田氏」と名乗る。
北の一派は北海道へ渡る。北海道にはアイヌがいた。
しばらくは、アイヌと協調して暮らしていたが、ある時、
アイヌとの間に戦争が起きる。「コシャマインの乱」である。
アイヌが負け、北・安東氏は江戸幕府から認められて、
「松前氏」となった。北海道・松前藩の誕生である。ねぶた

一方の秋田氏も江戸幕府の配下となり
大名として認められたが、すぐに千葉県に移封された。
 秋田氏は、大名として江戸時代を生き抜き、
明治維新により、子爵として貴族になった。
 ただ、おもしろいのは、江戸時代の大名は、
ほとんどが、先祖を天皇家の末裔として無理矢理、
家系を捏造するのが当たり前だったにかかわらず、
この秋田氏だけは、かたくなに、国津神のナガスネヒコ
を先祖としている。つまり、大和朝廷の天皇家に
敵対した縄文人(蝦夷)の血統であり、近くは
阿部貞任の子孫であると称しているのである。
そういう大名を貴族にしてもいいもんか、と
明治政府でも意見が出たが、まあ見逃しておけ
ということになったらしい。

日本の歴史は、弥生文化と、大和朝廷ばかりで
語られがちであり、ゆえに東北にはたいした歴史はない
と見られがちだが、どっこい、
先住民族・縄文人の歴史が色濃いのである。

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Forest/4179/index.html


蝦夷とアイヌは別物

北海道=蝦夷

、、、ではない。

http://heartland.geocities.jp/sekakumo/ronbun200702_02



北海道と呼ばれるようになったのは1869(明治2)年のことであり、それ以前は長らく「蝦夷地」と呼ばれていた。蝦夷地に和人が住みはじめたのは13世紀頃といわれており、鎌倉幕府によってこの地に流されてきた人々が住み着いたのが最初だといわれている。室町時代に入ると、渡島半島の南端に「館(たて)」と呼ばれる和人の砦がいくつか建設されており、15世紀になると1457年に起きたコシャマインの戦いのように、和人と先住民族であるアイヌの人びととの間で戦乱も起きている(1)。コシャマインの戦いは当初、アイヌ軍側が一方的に有利であったが、当時蠣崎(かきざき)氏の食客であった武田信広がこの戦いを制したことで、蠣崎氏は蝦夷地の和人勢力の中で抜きん出た立場となった。武田信広はこののち蠣崎氏に養子に入り、のちの松前氏の祖となっている。そして16世紀後半に入ると、蠣崎慶広は豊臣秀吉に接近しアイヌの人びととの交易権を独占するお墨付きを得た。慶広は1599(慶長4)年には徳川家康に接近して松前氏に姓を改め、ここに事実上松前藩が成立し幕藩大名の一員となっている(2)。

松前藩成立後も、長い間蝦夷地で和人が居住していたのは「松前地」または「和人地」と呼ばれる松前を中心とする道南のごく狭い地域のみであった。その他の大部分の地域は、「西蝦夷地」と「東蝦夷地」に分けられ(図2)、いずれもアイヌの人びとの住む大地であり、和人の居住は禁じられていた。

http://heartland.geocities.jp/sekakumo/ronbun200702_02





榊は語りかけてるー先住ナグサ・ニシキ(=ニウツヒメ)
http://escapejama.blog.so-net.ne.jp/2015-02-14



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消えた一族(224)長阿比古存事代主荷の後商として居る。 [消えた一族]

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長阿比古存事代主荷の後商として居る。




いやいや、、、そうじゃなくて。。。。

まあちょっと休憩ってことでね






本作に出てくる大蛇は現地のヘビ族という部族から「ナガ」と呼ばれる守り神で、
最初はドラゴンのような顔した巨大な蛇かと思わせといて、
それはいくつかあるうちの顔のひとつだったという、
ヤマタノオロチみたいな姿だったのが新鮮でした。

話の流れはこうゆう作品としては普通です

300年は生きていたであろう、原住民のミイラ(アマゾンマン)を発見

製薬会社はその秘密を探る為、

原住民のいるジャングル奥地へ探索隊を派遣船

必ず遅れて専門家チームが現地に到着

先発隊が見るも無残な姿になっていて・・

それは、原住民たちが神とあがめる大蛇、「ナガ」の仕業であった

そして専門家の中のセクシー美女博士が原住民にさらわれ

助けに行った男たちも捕まります

捕虜になった主人公たちは、ナガの洞窟に連れて行かれ

何故か、泉で洗礼を受けます

(この洗礼を受けると、ナガに襲われなくないます)

実は、この泉の水こそ不老不死の薬なのです

泉の水にナガの体液が混じって奇跡の水になったのです

原住民たちは、前代の長であるアマゾンマンを返せば、全員を解放すると約束

製薬会社役員たちは、その条件を飲むと言いながら

討伐チームを現地に送ります

さてここから、討伐チーム対ナガの一方的な戦いが始まります



http://ameblo.jp/hitomi-1981/entry-10611769175.html


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長阿比古存事代主荷の後商として居る。



続きは明日します。

今日はギブです、、、




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消えた一族(223) 機織淵 十九渕 九十九渕 葛渕 [消えた一族]






機織淵 十九渕 九十九渕 葛渕


はたおりはつづらおりのたぺすとりー


マイケルも言ってた



たぺすとりーのようにおりこむんだ



similar


印象的に使ってた。。。。。。


とっても印象に残っている


http://eow.alc.co.jp/search?q=similar+to

similar to
《be ~》~と似ている、~と同じようである、~と同類である

similar to ~ except that
《be ~》〔that以下〕という点[こと]を除けば~と似ている

similar to ~ in a number of ways
《be ~》多くの点で~に似て[類似して]いる、~と似た[類似した]点が多い

similar to ~ in appearance
《be ~》外観上~と類似している

similar to ~ in many respects
《be ~》多くの点で~に似ている[類似している]

similar to ~ in many ways
《be ~》多くの点で~に類似している

similar to ~ in morphology
《be ~》形態が[形態学的に]~に似ている[類似している]

similar to ~ in some way
《be ~》~とどこかしら似ている

similar to ~ in that
《be ~》〔that以下〕という点で~に似ている








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やっとお墓まいり

お墓の草むしりしてたら出て来たよ。
土蜘蛛って感じ




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ほら、足痛い。まだ30分くらいしか歩いてないのに、しかも、気持ち悪いし



あれかなー、御祭神と言いつつ、、


ビンゴかもな


そう。、いつも、左足だ


お、急に痛いの取れた



ビンゴってことだね。




サムッ


超グットタイミング?雨降って来たと同時にバス来た

朝まで雨マーク出てなかったから来たのに(´-`).。oO













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機織淵


【機織淵伝説】研究発表、機織淵の伝説
 関敬吾氏発表

水の神に処女を犠牲にする伝説は、アルタイ民族にもあつて、
水の主に犠牲にすることが見える。
ドイツでもワツサガイサといふ名で行はれ、やはり人間を犠牲にするのであるが、
日本のは、その内容が複雑である。
水の神に処女を犠牲にするのは何故か。
日本の水の信仰が他民族とどう違ふかを前提とし


【水の神の性格】


1
水の神の性格が何であるかといふことがこの問題の終局の目的である。
但日本は農耕国であり、稲作の国であるからだが、非稲作民族とどう違ふか

2
河童や蛇などが水の神そのものであるか、又は属性であるか。

3
龍宮の信仰と、陸上の水の神との関係

4
ハナタレ小僧など人間の形態をとつてくる水の信仰

5
水の神が何故祭の奉仕者として処女を必要としたか。
神の奉仕者に処女を必要とした事は勿論であるが、機織姫を何故必要としたのか。

6
水の神は人間にとつて一体敵対的な神か、好意を持つ神か、
更に人間の如何なる態度に於て好意であり悪意であるか。
かうした事を先づ本問題についての疑問として提出しておく。




【伝説ノモーチフ】さて、この伝説は次の内容による系統に分れる。



水底に機織る音を聞く話としての系統
遠野物語、秋田、北佐久、南佐久、岐阜、愛知、静岡、高知の諸例。
これは最初の発生的形態であつたか、又は信仰の失はれた残存形態か。


音のしてゐる水の中に入つていく話の系統
斧渕、斧を落して入つてゆくと水底で女が機を織つてゐた
岩手のまないた渕、下閉伊、福島石城のゴゼ渕、茨城斧渕
水の神は鉄分が嫌ひだといひ乍らこの話では斧を無事にとりかへしてくる。



入水シタ結果、水底デ機織ヲスル
宮城、若狭。
千葉県長生郡と長野の例では嫁が姑にいぢめられて入水し水底で機を織る話になつてゐる。


機を織つた女が沼の傍で小便をした為に陥ちる。


人柱となる系統。水害の為に困つて神意を伺ふと機のオサを持つた女を犠牲にせよといふ。
   
愛知、五月一日、滋賀の夜叉御前かうした各種系統によつて次の仮説が考へられる。


もと巫女の類で小屋で機織具(ヲサなど)を作つたものがあること。


座頭やゴゼなどが人柱に関係してゐる。


この伝説の伝播に巫女、座頭、ゴゼが介在したのではないか。
尼ヶ渕などの例があり、又三味線渕といつて三味線をもつて渕に飛込む伝説がある。
 
又音渕といつて座頭が渕に陥ちて池の中で琵琶を鳴らすといふ話もある。
【発生過程】この伝説の発生の過程として、

1 ?機織女を人柱にした形式↓
2 ?水の神に引込まれた、又は女自身より入水した↓
3 ?斧淵系↓
4 ?機の音をきく


【巫女の関与】

ここで問題になるのは、水の中に女を入れた媒介者に巫女があること、
堰神様に巫女の嫌はれた婿がなる話│遠野物語│などがある。
とにかくこの機織渕の伝説も日本の水の信仰の一つの話ではないか、と思ふ。
     

質疑、


犠牲といふものは殺されなければならなかつたか。


海岸にこの伝説の分布がないか、(少いやうだ)


水蜘蛛伝説との関係がないか。(水蜘蛛も水の神の具象だらう)
     

批評(○ハ柳田先生の発言)
【伝説分類の目的】○方法論の問題だが、何を知る為に分類するかをきめねばならない。
【機織は女房の仕事】○機織は女房の仕事ではないか。既に水の神に嫁してゐることだらう。
沖縄できいた話で、宮古島の例だが、
官人の妾になる女が家の前で機を織つて人目につくやうにしてゐる。

○食物も衣服も夫のものは女房が作ることであつた。

伊勢の忌服殿
イミハタドノは、祭の前に神の衣裳を織る。これは水との関係はないか。
【水の神は男】○この話の場合は水の神は男性である。蛇婿入も同様に
嫁ぐのは女である。海の龍宮は女であるが、これは日本の話の場合は主




人柱(ひとばしら)になった彦五郎

出典:上富田町史史料編下

発行:上富田町


昔はない、富田川(とんだがわ)はよう大水出て、そのたんびに田んぼや畑が流されてん。ほいでに村の人は、大雨にも崩れんしっかりした堤防ほしなあて思やってん。ある年もまた大水出てない、人も馬も流されて死ぬし、田んぼも畑も埋まってしまうような目におうたんで、もう、今度こそしっかりした堤防ほしいちゅうんで、氏神(うじがみ)さんにまいってお願いしてん。ほいたら夢枕(ゆめまくら)に神さんが現れて「堤防に人柱を立てよ。そいたら堤防は安全や」て言うてんとう。人柱ちゅうのは、神さんの心を慰(なぐさ)むるちゅうて、生けったある人を土の中に埋めることやぜ。

さあ、いったいだいを人柱にしようかて、村の人は何べんも寄り合いしてんけど、なかなか決まらなんでん。ほいたら、その場にいた彦五郎はんがさって立ち上がって「こんがに相談しても人がないんやったら、わしに考えあるんやけど、言うてもええか」て言うてんとう。村の人は、日ごろ無口な彦五郎が、急に大きな声でしゃべり出いたんでびっくりしてそっち見たら、不精(ぶしょう)ひげいっぱい生やいた顔を、赤茶けた手拭(てぬぐい)の端で拭きもて「わしが思うに、あがから人柱になりたいていう人らおらんやろ。ほいで、この場で、着物のつぎが横継ぎにあたったある人あったら、その人に人柱になってもらおやないか」て言うんや。

村の人ら、なっとうしょうかてよわりこんだあったもんやさか、そいはええ考えやちゅうて、みんなお互いの着物のつぎ見せおうてんとう。ほいたら、なんとまあ、言い出いた彦五郎はんの着物に大きな横継ぎのつぎが当たったあってんとう。ほいで、とうとう彦五郎はんが人柱になってん。

そいからこっち、富田川の堤防はどんがにえらい雨降っても切れんようになってんとう。
その堤防は今も彦五郎土手ちゅうんや。ほいから彦さんと五郎さんのおとついやったていう人もあら。





彦五郎堤と富田川土手普請

 富田川右岸の朝来、生馬、岩田の旧三村が接するあたりの堤防を「彦五郎提」(近年は彦五郎堤防)と呼び、町民はもちろん、町外の人々にもよく知られている。富田川は、このあたりで堤防がよく決壊して田畑の流失を繰りかえしたので、彦五郎という一人の農民(彦蔵と五郎の二人という説もある)が人柱となった。堤防に人柱を埋めてからは、どんな大水にも堤防は切れず、人々の安全を守ったという悲しい話が伝承されている。

人柱伝承の記念碑

人柱伝承の記念碑


 いつの頃からか語り伝えられてきた話であるが、史料的にこれを裏づけるものは残念ながら何も発見されていない。上田萬一は、『上富田文化財』第四号(昭和四一年刊)で元生馬村々長木村慎の文章を引用して、「当地方に伝わる彦五郎の伝説・・」と書き、史実ではなく伝説としている。とはいえ、人柱の恐しい風習がほんとうにあったのかどうかは、たいへん興味深い話であり、また、尊い命を犠牲にして洪水を守ったという話は人々の感動を呼び、民衆の心を強くうって伝承されていく可能性があることは十分に考えられる。

 ところで、各地に残っている人柱伝説の共通性は、人柱になる人物は人柱の人選のとき最初に発言した人であることと、着ている着物の柄が縞模様(たて縞であったり横縞であったりする)が関係しているといわれ、彦五郎堤の場合もその例外ではない。

 そうしたことから、彦五郎の話は忠実ではなく、伝説であると認めながらも、その伝説が生れてくるには、何か証拠になる話があるのではないかと考えたくなるのは当然のことである。

 彦五郎堤の築造についても、木村慎は、慶安四年(一六五一)の村の評議による修築としている。また、『明治以前日本土木史』は承応二年(一六五三)として、ともに一七世紀中ごろの築造を主張している。しかし、残念ながら両説ともその出典を明らかにしていない。

 一七世紀中ごろ、徳川幕府の奨励によって、未墾地の開発が全国的に盛んにおこなわれた。そのため、流路が変わったり、遊水地がなくなったりして、河川の氾濫が各地で発生し、被害が続出しているが、治水工事が盛んにおこなわれたことに関連づけた年代推定と考えられる。

 廣本満(上富田町史専門委員)の分析によると、たしかに田辺領全体の新田の傾向は、元禄期までほとんど開発し尽され、それ以後は停滞状態にあった。大規模な新田開発は、田辺組の湊村や新庄村にみられるが、岩田村、鮎川村、市ノ瀬村、生馬村もこれについで新田開発の面積の多い村である。したがって、富田川の河川敷や川沿いの荒地の開墾がおこなわれたことは事実であろう。しかしながら、これをもってしても、彦五郎堤の築造年次を解くための証拠にしては少し薄弱であるといわなければならない。

 以上のように、彦五郎堤について、文献史料で裏づけることはできないが、毎年のごとく襲ってくる富田川の洪水に苦しんでいるだけに、身を投げ出して村を守った話は、たいへん身近に感じる話であり、修築工事中に発生した事故などによって命を落した人の話なども付け加えられながら語り継がれてきたのかも知れない。


http://www.town.kamitonda.wakayama.jp/kami50y/kami50y09002.html

http://www.town.kamitonda.wakayama.jp/kami50y/kami50y.html



水神の池や淵に牛馬の首など不浄のものを投げ込む、あるいは汚物を洗う。
http://jtsuruki.blogspot.jp/2015_11_23_archive.html

http://www.diycc.info/taki/n/n121_129.htm




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若一王子(にゃくいちおうじ)は、神仏習合の神である。若王子(にゃくおうじ)ともいう。

熊野三山に祀られる熊野十二所権現は三所権現・五所王子・四所明神に分けられ、若一王子は五所王子の第一位である。若一王子の本地仏は十一面観音で、天照大神あるいは瓊々杵尊と同一視された。熊野本宮大社・熊野速玉大社では第4殿、熊野那智大社では第5殿に祀られる(いずれも、現在は「若宮」と称し、天照大神のこととしている)。

熊野信仰が日本各地に広まるにつれ、熊野権現が各地に勧請されたが、若一王子のみを勧請する場合も多かった。神仏分離に伴い、「若一王子」を天照大神や瓊々杵尊に変えた所も多いが、
従前のまま「若一王子」として祀っている神社もある。
東京都北区の王子神社。
長野県大町市の若一王子神社。紀伊国より勧請。
和歌山県田辺市の神社。現存せず、若一王子権現碑が跡地にある。
和歌山県西牟婁郡すさみ町の周参見王子神社の古名「若一王子権現社」。
静岡県藤枝市若王子若一王子神社の社叢


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行きたくないなと感じるのもそういうことか。
で、仮にビンゴだとして、
私はそれを受け入れられるかな、、
そんなような内容を昨日か一昨日
ブログに書いたばかりではあるのだけれど、、、、、
夕べ河内に気がついてちょっと調べてみた結果も痕跡ありだし
私はそれを受け入れられるかな




ちょっと今日はもうギブです、、、


FBにいろいろどんどん投稿したけど

なにがなにやら、、、、


だけど、確実に刷り込み洗脳が解け始め

だんだん、整理はついていくんだろうな、、、


さっきまで体中痛かったけど、いま少し楽


ちょっといったんスイッチオフだ。



なーんもおかしなことじゃないのに

それとそれ?

そんなわけないじゃーんっておもいこまされてる




でも今日


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だよね、、、、って思ったよね。。



左足がすぐにものすごく痛くなる理由はわからないけど

なんとなくそれかな?っていうのは見えてきたけど


まだ未確認段階

それもすごいスパイラル階段だし

もうひとつ気づいた方も

とんでもないスパイラル階段だし



ま、またあとで。。。



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血とDNAのスクランブル交差点だ。 [調べなさいアプローチ]

Tamikrest @ Afro-Pfingsten Festival 2013

血の交差点

血とDNAのスクランブル交差点だ。





マリは様々な言語と文化と民族と伝統とが合わさった大きな国で、オープンな耳を持った音楽ファンはマリを無視してはいけない、とまで言われています。

2ndでもフレッシュさを失っていない、サハラ砂漠から届いたこのロック・アルバムは彼らがアフリカでもっとも「ネクスト・ビッグ・シング」と呼ぶにふさわしいバンドであることを証明する、反骨精神をもった強い意志に溢れています。

アフリカン・ブルースとダブ、サイケデリック・ファンクの間を埋める彼らのオリジナル・ロック・サウンドはさらに強力に、ポジティヴになっており、ワールド・ミュージックの枠を越えて、より広い層に受け入れられることでしょう。


TAMIKREST タミクレスト

グリオ・カルチャーとロックとの融合に成功した

マリのオルタナ・バンド:タミクレスト

マリ共和国 キダル

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%B3


ティナリウェン(Tinariwen)
サハラ砂漠遊牧の民トゥアレグ人の バンド。
1979年よりマリ共和国北東部のキダルを拠点に活動している。


1979年に、
リビアの革命戦士キャンプで知り合ったメンバーを中心に結成


トゥアレグ人が自治権を求めて、マリ共和国政府と武装闘争を繰り広げる中、
マリ北東部のキダルを拠点に活動し、カセット・テープでアルバムを発表。

2001年に初めてのCDにして、
アフリカ以外でリリースされる初作品『ザ・レイディオ・ティスダス・セッションズ』を発表。


フランス語とトゥアレグ語による歌詞を用い、
“砂漠のブルース”とも称されるサウンドは、ブルースのみならず、
民俗的な要素も多分に反映した独自のものであり、
その目新しさから称賛を浴び、
2012年には第54回グラミー賞ベストワールドミュージックアルバム賞を受賞した





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アザワド(トゥアレグ語: ⴰⵣⴰⵓⴰⴷ, アラビア語: أزواد‎, Azawad)は、

マリ共和国北部の地域。

反政府勢力アザワド解放民族運動(英語版)(Azawad National Liberation Movement、MNLA)をはじめとしたグループが2012年初頭からの紛争でマリ軍をトゥアレグ族が主張する領土から駆逐した後に、一方的に独立宣言を行った地域である。


ただし国際的な国家の承認は得られていない。

MNLAはマリの地方行政区画のうち

トンブクトゥ州、キダル州、ガオ州、モプティ州の一部から成っていると主張している[4]。

南西をマリ、南をブルキナファソ、

北西から西にかけてをモーリタニア、

北をアルジェリア、

東から南東にかけてをニジェールに囲まれている。


サハラ砂漠とサヘルをまたがった地域に位置する。ガオが最大の都市であり暫定首都である[5]。

2012年4月6日にMNLAがウェブサイトで、アザワドがマリから

「取り消すことのできない」独立を行ったとの声明を出した。

独立運動事務局長のビラル・アグ・アチェリフ(英語版)は同日、ガオにて独立宣言に署名した[6]。

しかし、この宣言は未だ外国による承認を得ておらず[2]、またMNLAが主張するアザワドにおける事実上の統治でさえ、マリ政府やMNLAとかつて共同戦線を組んでいたイスラム軍事組織アンサル・ディーンとは議論がある[7]。


2012年5月26日にはMNLAとアンサル・ディーンが合同し、

マリ北部にイスラム国家を建国することで合意した[8][9]が後に両者の対立が鮮明となり、

アンサル・ディーンはMNLAによるアザワド独立を却下[10]。

2012年6月27日のガオにおけるMNLAとアンサル・ディーン間の戦闘の結果、
MNLAはガオより駆逐され、

アンサル・ディーンはマリ共和国北部を支配下においたと宣言[11]。

アザワドは事実上崩壊した。



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B6%E3%83%AF%E3%83%89




公用語
トゥアレグ語、アラビア語、ソンガイ語(英語版)、フラニ語、バンバラ語、フランス語

首都
ガオ(暫定)
トンブクトゥ(正式)



ガオ帝国、マリ帝国とソンガイ帝国

ガオ帝国は都市ガオに由来する。

9世紀の時点で西アフリカ最強の国家と考えられている。

1324年にマンサ・ムーサがメッカ巡礼から戻り(この巡礼は有名なものとなった)、

トンブクトゥを平和的に併合するなどして、

14世紀初期には地域の南部がマリ帝国の支配下となる[14]。



15世紀前半にはマリ帝国の勢力が徐々に衰えていき、

トンブクトゥ周辺は相対的に自立していくことになるが、依然としてトゥアレグが支配的地位にあった[15]。


しかし30年後、ソンガイ帝国がガオにその勢力を拡大し、

1468年から1469年にかけてトンブクトゥとその周辺地域を吸収した。

以降、スンニ・アリ (1468年-1492年)、スンニ・バル (1492年-1493年)、アスキア・ムハンマド1世 (1493年-1528年)によって統治された。

スンニ・アリ・バーは征服後、トンブクトゥを非情に扱い対立するが、

アスキア・ムハンマド1世は効率的な中央・地方行政を確立し、

商業中心地が繁栄するために十分な行動の自由を与えたことで、

ソンガイ帝国とトンブクトゥ両方にとっての黄金時代を築いた[15][16]。



帝国はガオを首都とし、トンブクトゥは比較的自立した立場を享受する。

ガダミス、アウジラ、その他北アフリカの非常に多くの都市から、

タガザのサハラの塩、北アフリカの服や馬を金や奴隷と交換するために商人が集まった[17]。

アスキア王朝は次第に内部の争いにより衰えていき、王朝による統治は1591年まで続いた[18]。



モロッコの遠征

ガオのすぐ北の村において発生したトンディビの会戦(英語版)でソンガイ帝国は敗北を喫し、

都市は1591年5月30日にモロッコを統治していたサアド朝のアフマド・アル=マンスールによって派遣され、


金鉱を探し求めていた

ジュダ・パシャに率いられた傭兵と奴隷によって占領された。

彼らはアルマ人と呼ばれた。


ガオが奪われたことは地域大国としてのソンガイ帝国の終わりを象徴する出来事となった[19][20]。

続く時代では経済的にも知的にも衰退していく[21]。

増加しつつあった大西洋貿易のルートを使って

トンブクトゥのアフリカ人奴隷、指導者や学者たちが移動していったことにより、

ガオやトンブクトゥの貿易、学術的な中心としての役割が薄れていったのである[22]。

モロッコは最初のうちこそトンブクトゥとの間の交易ルートを統制していたが、

やがてアルマ人との結びつきを断ち、

このため多くのトンブクトゥのパシャたちによる支配は弱まっていった。

トゥアレグは1737年より一時的に統治を行なう。

以降、18世紀中はバンバラ族やコウンタ族など、トゥアレグのいくつかの種族が
短い期間、統治もしくは占領を行った。

この期間、ソンガイと混血したパシャたちの影響力は完全に消えることはなかった。




フランス統治下

ヨーロッパ列強がベルリン会議においてアフリカ分割の原則を確認し合い、
その結果、西経14度とチャド南西ミルトーの間、かつニジェールのセイ(英語版)からバロウラを結んだラインを南の限界とした部分がフランスの領土となった。

アザワドは名目上フランスの領土となったが、ベルリン会議においては「有効性の原理」(principle of effectivity) が確認され、フランスに対しては割り当てられた地域において実際に権力を保持するよう要求された。


例えば、植民地の地元の首長と協定を結び、政権を樹立してこの地域を経済的に活用することによって、
前掲の領有権主張は決定的なものとなるのである。

1893年12月15日、既に最盛期から長い時間が経っていたトンブクトゥはガストン・ボワトー中尉率いるフランス人兵士グループによって併合された[24]。

これによりフランスの植民地であるフランス領スーダン(1890年-1902年)の一部となる。

フランス統治下で植民地は再編され、何度か名前が変わった。

1899年にはフランス領スーダンは更に細かく分割され、アザワドはオート・セネガル・モエ・ニジェール(Haut-Sénégal et Moyen Niger - 『セネガル上部と中部ニジェール』、

1899年-1902年)の一部となった。

1902年にはセネガンビア・ニジェール(英語版)(仏: Sénégambie et Niger、1902年-1904年)となり、

1904年にはオート・セネガル・ニジェール(フランス語版)(仏: Haut-Sénégal et Niger、1904年-1920年)と再改称。

この名前は1920年に再びフランス領スーダン(1920年-1958年)の名前に戻るまで使われた[25]。



マリ統治下

1958年、フランス領スーダンはフランス共同体の中で自治国スーダン(フランス語版)(1958年-1959年)となり、マリ連邦(1959年-1960年)を経て、1960年にフランスよりマリ共和国として独立した。

しかし、アザワド地域ではマリ統治に対する抵抗運動がたびたび起こっており、
主要なものとしては次の4つが挙げられる。


第1次トゥアレグ抵抗運動(1962年-1964年)、

1990年から1995年にかけての抵抗運動

2007年から2009年にかけての抵抗運動

そして2012年にアザワド解放民族運動
(MNLA)とアンサル・ディーンによって起こった抵抗運動である。



21世紀初頭、この地域は略奪や麻薬の密輸によって悪評が高くなる[26]。

この地域には石油やウランを含む鉱物資源を潜在的に存在していると報告された[27]。

2012年1月17日、MNLAはマリ政府に対する反乱の開始を宣言、

「バマコ(マリの首都)がこの地域を別個の存在と認めない限り継続する」とした。

2012年3月、MNLAとアンサル・ディーンはキダルやガオの州都を政府軍の軍事基地も含めて占領。

4月1日、トンブクトゥは占領された[30]。

4月1日のトンブクトゥの奪取後、

MNLAはアザワド独立を主張する領土のほとんどを実行支配した[31]。

この時、MNLAは声明で、外国にいる全てのアザワド人に対し、

故郷に戻り新国家建設に参加するよう招聘した。



一方的な独立宣言

「アザワド独立宣言」も参照

2012年4月6日にMNLAはアザワドの独立を宣言し、これを民主主義国家とするための憲法案を作成することを誓約した。

声明の中で国際連合憲章を受け入れ、新国家はその原理原則を支持すると述べている[2][32]。

MNLAのスポークスマンはFrance 24のインタビューに応じ、その中でアザワドの独立を宣言した。

“ マリ共和国は無政府状態の国家である。

ゆえに我々は、我々の領土を守ることができる軍隊、

並びに民主主義制度を形作ることのできる事務組織に参加させるために、

民族解放運動を集めた。

我々は本日、この日からアザワドの独立を宣言する。 ”

—Moussa Ag Assarid、MNLAスポークスマン(2012年4月6日[33]より)


またこのインタビューでは、
アザワドが「アザワドと隣人を分割する、植民地的な国境をすべて尊重する」と約束し、
またアザワド独立宣言は「国際法的にも正当なものだ」としつこく主張した[33]。


いかなる国家、また国際機関も未だアザワドを国家として承認していない。


アフリカ連合はMNLAによる独立宣言を「どんなものであれ、空っぽであり、何の価値もない」として即時に拒絶した。

フランス外務大臣はマリからの一方的な分離を認めないものの、「長い間、十分かつ必要な返答を得られてこなかった北トゥアレグの人たちの要求」に対処するようバマコとガオとの間の交渉を促した。

アメリカ合衆国も独立宣言を拒絶している[34]。


日本国外務省は独立宣言を非難し、アフリカ連合を支持する立場をとっている[35]。


MNLAは最大で3000人程度の兵士を有していると推測されている。

西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)はマリ南部の治安回復、また反政府勢力の封じ込めを目的として3000人の兵士を用意し介入する準備を行なった。フランス政府はこの後方支援の準備を命じた[34]。


2012年5月26日にはMNLAとアンサル・ディーンが合同し、マリ北部にイスラム国家を建国することで合意した[8][9]。

しかし、後にMNLAはこの合意協定を取り下げ、アンサル・ディーンからも距離を置くことを決定したとされている[36][37]。

アンサル・ディーンは後にMNLAによるアザワド独立を却下した[10]。

MNLAとアンサル・ディーンは衝突し[38]、6月27日のガオにおける戦闘で対立は最高潮に達した。

この戦闘の結果、MNLAの司令官を含む兵士22人が死亡し、アンサル・ディーンとイスラム武装勢力西アフリカ統一聖戦運動(英語版)(MOJWA)はガオを陥落させ、MNLAは駆逐された。


後日、アンサル・ディーンはトンブクトゥ、キダルも支配下においたと宣言し、
これによりマリ北部3大都市全てを手中に収めた[11]。

アンサル・ディーンはその後もMNLAの陣地に対する攻撃を継続し、
2012年7月12日までにMNLA最後の拠点アンソンゴ(英語版)が陥落[39]。


アザワドは事実上崩壊した。


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難しいなこの辺もほんとに。

ただ日本と違うのは見た目がはっきりごちゃ混ぜだよってこと。

でもそれで悲しい思いをする人も多いんだろうな。

アメリカじゃ黒人の肌の色の濃い薄いだけでもいろいろあるからな。







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