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2016年までの観た!読んだ!お勧めの映画や本でーす!





消えた一族(224)長阿比古存事代主荷の後商として居る。 [消えた一族]

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長阿比古存事代主荷の後商として居る。




いやいや、、、そうじゃなくて。。。。

まあちょっと休憩ってことでね






本作に出てくる大蛇は現地のヘビ族という部族から「ナガ」と呼ばれる守り神で、
最初はドラゴンのような顔した巨大な蛇かと思わせといて、
それはいくつかあるうちの顔のひとつだったという、
ヤマタノオロチみたいな姿だったのが新鮮でした。

話の流れはこうゆう作品としては普通です

300年は生きていたであろう、原住民のミイラ(アマゾンマン)を発見

製薬会社はその秘密を探る為、

原住民のいるジャングル奥地へ探索隊を派遣

必ず遅れて専門家チームが現地に到着

先発隊が見るも無残な姿になっていて・・

それは、原住民たちが神とあがめる大蛇、「ナガ」の仕業であった

そして専門家の中のセクシー美女博士が原住民にさらわれ

助けに行った男たちも捕まります

捕虜になった主人公たちは、ナガの洞窟に連れて行かれ

何故か、泉で洗礼を受けます

(この洗礼を受けると、ナガに襲われなくないます)

実は、この泉の水こそ不老不死の薬なのです

泉の水にナガの体液が混じって奇跡の水になったのです

原住民たちは、前代の長であるアマゾンマンを返せば、全員を解放すると約束

製薬会社役員たちは、その条件を飲むと言いながら

討伐チームを現地に送ります

さてここから、討伐チーム対ナガの一方的な戦いが始まります



http://ameblo.jp/hitomi-1981/entry-10611769175.html


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長阿比古存事代主荷の後商として居る。



続きは明日します。

今日はギブです、、、




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消えた一族(223) 機織淵 十九渕 九十九渕 葛渕 [消えた一族]






機織淵 十九渕 九十九渕 葛渕


はたおりはつづらおりのたぺすとりー


マイケルも言ってた



たぺすとりーのようにおりこむんだ



similar


印象的に使ってた。。。。。。


とっても印象に残っている


http://eow.alc.co.jp/search?q=similar+to

similar to
《be ~》~と似ている、~と同じようである、~と同類である

similar to ~ except that
《be ~》〔that以下〕という点[こと]を除けば~と似ている

similar to ~ in a number of ways
《be ~》多くの点で~に似て[類似して]いる、~と似た[類似した]点が多い

similar to ~ in appearance
《be ~》外観上~と類似している

similar to ~ in many respects
《be ~》多くの点で~に似ている[類似している]

similar to ~ in many ways
《be ~》多くの点で~に類似している

similar to ~ in morphology
《be ~》形態が[形態学的に]~に似ている[類似している]

similar to ~ in some way
《be ~》~とどこかしら似ている

similar to ~ in that
《be ~》〔that以下〕という点で~に似ている








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やっとお墓まいり

お墓の草むしりしてたら出て来たよ。
土蜘蛛って感じ




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ほら、足痛い。まだ30分くらいしか歩いてないのに、しかも、気持ち悪いし



あれかなー、御祭神と言いつつ、、


ビンゴかもな


そう。、いつも、左足だ


お、急に痛いの取れた



ビンゴってことだね。




サムッ


超グットタイミング?雨降って来たと同時にバス来た

朝まで雨マーク出てなかったから来たのに(´-`).。oO













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機織淵


【機織淵伝説】研究発表、機織淵の伝説
 関敬吾氏発表

水の神に処女を犠牲にする伝説は、アルタイ民族にもあつて、
水の主に犠牲にすることが見える。
ドイツでもワツサガイサといふ名で行はれ、やはり人間を犠牲にするのであるが、
日本のは、その内容が複雑である。
水の神に処女を犠牲にするのは何故か。
日本の水の信仰が他民族とどう違ふかを前提とし


【水の神の性格】


1
水の神の性格が何であるかといふことがこの問題の終局の目的である。
但日本は農耕国であり、稲作の国であるからだが、非稲作民族とどう違ふか

2
河童や蛇などが水の神そのものであるか、又は属性であるか。

3
龍宮の信仰と、陸上の水の神との関係

4
ハナタレ小僧など人間の形態をとつてくる水の信仰

5
水の神が何故祭の奉仕者として処女を必要としたか。
神の奉仕者に処女を必要とした事は勿論であるが、機織姫を何故必要としたのか。

6
水の神は人間にとつて一体敵対的な神か、好意を持つ神か、
更に人間の如何なる態度に於て好意であり悪意であるか。
かうした事を先づ本問題についての疑問として提出しておく。




【伝説ノモーチフ】さて、この伝説は次の内容による系統に分れる。



水底に機織る音を聞く話としての系統
遠野物語、秋田、北佐久、南佐久、岐阜、愛知、静岡高知の諸例。
これは最初の発生的形態であつたか、又は信仰の失はれた残存形態か。


音のしてゐる水の中に入つていく話の系統
斧渕、斧を落して入つてゆくと水底で女が機を織つてゐた
岩手のまないた渕、下閉伊、福島石城のゴゼ渕、茨城斧渕
水の神は鉄分が嫌ひだといひ乍らこの話では斧を無事にとりかへしてくる。



入水シタ結果、水底デ機織ヲスル
宮城、若狭。
千葉県長生郡と長野の例では嫁が姑にいぢめられて入水し水底で機を織る話になつてゐる。


機を織つた女が沼の傍で小便をした為に陥ちる。


人柱となる系統。水害の為に困つて神意を伺ふと機のオサを持つた女を犠牲にせよといふ。
   
愛知、五月一日、滋賀の夜叉御前かうした各種系統によつて次の仮説が考へられる。


もと巫女の類で小屋で機織具(ヲサなど)を作つたものがあること。


座頭やゴゼなどが人柱に関係してゐる。


この伝説の伝播に巫女、座頭、ゴゼが介在したのではないか。
尼ヶ渕などの例があり、又三味線渕といつて三味線をもつて渕に飛込む伝説がある。
 
又音渕といつて座頭が渕に陥ちて池の中で琵琶を鳴らすといふ話もある。
【発生過程】この伝説の発生の過程として、

1 ?機織女を人柱にした形式↓
2 ?水の神に引込まれた、又は女自身より入水した↓
3 ?斧淵系↓
4 ?機の音をきく


【巫女の関与】

ここで問題になるのは、水の中に女を入れた媒介者に巫女があること、
堰神様に巫女の嫌はれた婿がなる話│遠野物語│などがある。
とにかくこの機織渕の伝説も日本の水の信仰の一つの話ではないか、と思ふ。
     

質疑、


犠牲といふものは殺されなければならなかつたか。


海岸にこの伝説の分布がないか、(少いやうだ)


水蜘蛛伝説との関係がないか。(水蜘蛛も水の神の具象だらう)
     

批評(○ハ柳田先生の発言)
【伝説分類の目的】○方法論の問題だが、何を知る為に分類するかをきめねばならない。
【機織は女房の仕事】○機織は女房の仕事ではないか。既に水の神に嫁してゐることだらう。
沖縄できいた話で、宮古島の例だが、
官人の妾になる女が家の前で機を織つて人目につくやうにしてゐる。

○食物も衣服も夫のものは女房が作ることであつた。

伊勢の忌服殿
イミハタドノは、祭の前に神の衣裳を織る。これは水との関係はないか。
【水の神は男】○この話の場合は水の神は男性である。蛇婿入も同様に
嫁ぐのは女である。海の龍宮は女であるが、これは日本の話の場合は主




人柱(ひとばしら)になった彦五郎

出典:上富田町史史料編下

発行:上富田町


昔はない、富田川(とんだがわ)はよう大水出て、そのたんびに田んぼや畑が流されてん。ほいでに村の人は、大雨にも崩れんしっかりした堤防ほしなあて思やってん。ある年もまた大水出てない、人も馬も流されて死ぬし、田んぼも畑も埋まってしまうような目におうたんで、もう、今度こそしっかりした堤防ほしいちゅうんで、氏神(うじがみ)さんにまいってお願いしてん。ほいたら夢枕(ゆめまくら)に神さんが現れて「堤防に人柱を立てよ。そいたら堤防は安全や」て言うてんとう。人柱ちゅうのは、神さんの心を慰(なぐさ)むるちゅうて、生けったある人を土の中に埋めることやぜ。

さあ、いったいだいを人柱にしようかて、村の人は何べんも寄り合いしてんけど、なかなか決まらなんでん。ほいたら、その場にいた彦五郎はんがさって立ち上がって「こんがに相談しても人がないんやったら、わしに考えあるんやけど、言うてもええか」て言うてんとう。村の人は、日ごろ無口な彦五郎が、急に大きな声でしゃべり出いたんでびっくりしてそっち見たら、不精(ぶしょう)ひげいっぱい生やいた顔を、赤茶けた手拭(てぬぐい)の端で拭きもて「わしが思うに、あがから人柱になりたいていう人らおらんやろ。ほいで、この場で、着物のつぎが横継ぎにあたったある人あったら、その人に人柱になってもらおやないか」て言うんや。

村の人ら、なっとうしょうかてよわりこんだあったもんやさか、そいはええ考えやちゅうて、みんなお互いの着物のつぎ見せおうてんとう。ほいたら、なんとまあ、言い出いた彦五郎はんの着物に大きな横継ぎのつぎが当たったあってんとう。ほいで、とうとう彦五郎はんが人柱になってん。

そいからこっち、富田川の堤防はどんがにえらい雨降っても切れんようになってんとう。
その堤防は今も彦五郎土手ちゅうんや。ほいから彦さんと五郎さんのおとついやったていう人もあら。





彦五郎堤と富田川土手普請

 富田川右岸の朝来、生馬、岩田の旧三村が接するあたりの堤防を「彦五郎提」(近年は彦五郎堤防)と呼び、町民はもちろん、町外の人々にもよく知られている。富田川は、このあたりで堤防がよく決壊して田畑の流失を繰りかえしたので、彦五郎という一人の農民(彦蔵と五郎の二人という説もある)が人柱となった。堤防に人柱を埋めてからは、どんな大水にも堤防は切れず、人々の安全を守ったという悲しい話が伝承されている。

人柱伝承の記念碑

人柱伝承の記念碑


 いつの頃からか語り伝えられてきた話であるが、史料的にこれを裏づけるものは残念ながら何も発見されていない。上田萬一は、『上富田文化財』第四号(昭和四一年刊)で元生馬村々長木村慎の文章を引用して、「当地方に伝わる彦五郎の伝説・・」と書き、史実ではなく伝説としている。とはいえ、人柱の恐しい風習がほんとうにあったのかどうかは、たいへん興味深い話であり、また、尊い命を犠牲にして洪水を守ったという話は人々の感動を呼び、民衆の心を強くうって伝承されていく可能性があることは十分に考えられる。

 ところで、各地に残っている人柱伝説の共通性は、人柱になる人物は人柱の人選のとき最初に発言した人であることと、着ている着物の柄が縞模様(たて縞であったり横縞であったりする)が関係しているといわれ、彦五郎堤の場合もその例外ではない。

 そうしたことから、彦五郎の話は忠実ではなく、伝説であると認めながらも、その伝説が生れてくるには、何か証拠になる話があるのではないかと考えたくなるのは当然のことである。

 彦五郎堤の築造についても、木村慎は、慶安四年(一六五一)の村の評議による修築としている。また、『明治以前日本土木史』は承応二年(一六五三)として、ともに一七世紀中ごろの築造を主張している。しかし、残念ながら両説ともその出典を明らかにしていない。

 一七世紀中ごろ、徳川幕府の奨励によって、未墾地の開発が全国的に盛んにおこなわれた。そのため、流路が変わったり、遊水地がなくなったりして、河川の氾濫が各地で発生し、被害が続出しているが、治水工事が盛んにおこなわれたことに関連づけた年代推定と考えられる。

 廣本満(上富田町史専門委員)の分析によると、たしかに田辺領全体の新田の傾向は、元禄期までほとんど開発し尽され、それ以後は停滞状態にあった。大規模な新田開発は、田辺組の湊村や新庄村にみられるが、岩田村、鮎川村、市ノ瀬村、生馬村もこれについで新田開発の面積の多い村である。したがって、富田川の河川敷や川沿いの荒地の開墾がおこなわれたことは事実であろう。しかしながら、これをもってしても、彦五郎堤の築造年次を解くための証拠にしては少し薄弱であるといわなければならない。

 以上のように、彦五郎堤について、文献史料で裏づけることはできないが、毎年のごとく襲ってくる富田川の洪水に苦しんでいるだけに、身を投げ出して村を守った話は、たいへん身近に感じる話であり、修築工事中に発生した事故などによって命を落した人の話なども付け加えられながら語り継がれてきたのかも知れない。


http://www.town.kamitonda.wakayama.jp/kami50y/kami50y09002.html

http://www.town.kamitonda.wakayama.jp/kami50y/kami50y.html



水神の池や淵に牛馬の首など不浄のものを投げ込む、あるいは汚物を洗う。
http://jtsuruki.blogspot.jp/2015_11_23_archive.html

http://www.diycc.info/taki/n/n121_129.htm




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若一王子(にゃくいちおうじ)は、神仏習合の神である。若王子(にゃくおうじ)ともいう。

熊野三山に祀られる熊野十二所権現は三所権現・五所王子・四所明神に分けられ、若一王子は五所王子の第一位である。若一王子の本地仏は十一面観音で、天照大神あるいは瓊々杵尊と同一視された。熊野本宮大社・熊野速玉大社では第4殿、熊野那智大社では第5殿に祀られる(いずれも、現在は「若宮」と称し、天照大神のこととしている)。

熊野信仰が日本各地に広まるにつれ、熊野権現が各地に勧請されたが、若一王子のみを勧請する場合も多かった。神仏分離に伴い、「若一王子」を天照大神や瓊々杵尊に変えた所も多いが、
従前のまま「若一王子」として祀っている神社もある。
東京都北区の王子神社。
長野県大町市の若一王子神社。紀伊国より勧請。
和歌山県田辺市の神社。現存せず、若一王子権現碑が跡地にある。
和歌山県西牟婁郡すさみ町の周参見王子神社の古名「若一王子権現社」。
静岡県藤枝市若王子若一王子神社の社叢


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行きたくないなと感じるのもそういうことか。
で、仮にビンゴだとして、
私はそれを受け入れられるかな、、
そんなような内容を昨日か一昨日
ブログに書いたばかりではあるのだけれど、、、、、
夕べ河内に気がついてちょっと調べてみた結果も痕跡ありだし
私はそれを受け入れられるかな




ちょっと今日はもうギブです、、、


FBにいろいろどんどん投稿したけど

なにがなにやら、、、、


だけど、確実に刷り込み洗脳が解け始め

だんだん、整理はついていくんだろうな、、、


さっきまで体中痛かったけど、いま少し楽


ちょっといったんスイッチオフだ。



なーんもおかしなことじゃないのに

それとそれ?

そんなわけないじゃーんっておもいこまされてる




でも今日


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だよね、、、、って思ったよね。。



左足がすぐにものすごく痛くなる理由はわからないけど

なんとなくそれかな?っていうのは見えてきたけど


まだ未確認段階

それもすごいスパイラル階段だし

もうひとつ気づいた方も

とんでもないスパイラル階段だし



ま、またあとで。。。



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血とDNAのスクランブル交差点だ。 [調べなさいアプローチ]

Tamikrest @ Afro-Pfingsten Festival 2013

血の交差点

血とDNAのスクランブル交差点だ。





マリは様々な言語と文化と民族と伝統とが合わさった大きな国で、オープンな耳を持った音楽ファンはマリを無視してはいけない、とまで言われています。

2ndでもフレッシュさを失っていない、サハラ砂漠から届いたこのロック・アルバムは彼らがアフリカでもっとも「ネクスト・ビッグ・シング」と呼ぶにふさわしいバンドであることを証明する、反骨精神をもった強い意志に溢れています。

アフリカン・ブルースとダブ、サイケデリック・ファンクの間を埋める彼らのオリジナル・ロック・サウンドはさらに強力に、ポジティヴになっており、ワールド・ミュージックの枠を越えて、より広い層に受け入れられることでしょう。


TAMIKREST タミクレスト

グリオ・カルチャーとロックとの融合に成功した

マリのオルタナ・バンド:タミクレスト

マリ共和国 キダル

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%B3


ティナリウェン(Tinariwen)
サハラ砂漠遊牧の民トゥアレグ人の バンド。
1979年よりマリ共和国北東部のキダルを拠点に活動している。


1979年に、
リビアの革命戦士キャンプで知り合ったメンバーを中心に結成


トゥアレグ人が自治権を求めて、マリ共和国政府と武装闘争を繰り広げる中、
マリ北東部のキダルを拠点に活動し、カセット・テープでアルバムを発表。

2001年に初めてのCDにして、
アフリカ以外でリリースされる初作品『ザ・レイディオ・ティスダス・セッションズ』を発表。


フランス語とトゥアレグ語による歌詞を用い、
“砂漠のブルース”とも称されるサウンドは、ブルースのみならず、
民俗的な要素も多分に反映した独自のものであり、
その目新しさから称賛を浴び、
2012年には第54回グラミー賞ベストワールドミュージックアルバム賞を受賞した





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アザワド(トゥアレグ語: ⴰⵣⴰⵓⴰⴷ, アラビア語: أزواد‎, Azawad)は、

マリ共和国北部の地域。

反政府勢力アザワド解放民族運動(英語版)(Azawad National Liberation Movement、MNLA)をはじめとしたグループが2012年初頭からの紛争でマリ軍をトゥアレグ族が主張する領土から駆逐した後に、一方的に独立宣言を行った地域である。


ただし国際的な国家の承認は得られていない。

MNLAはマリの地方行政区画のうち

トンブクトゥ州、キダル州、ガオ州、モプティ州の一部から成っていると主張している[4]。

南西をマリ、南をブルキナファソ、

北西から西にかけてをモーリタニア、

北をアルジェリア、

東から南東にかけてをニジェールに囲まれている。


サハラ砂漠とサヘルをまたがった地域に位置する。ガオが最大の都市であり暫定首都である[5]。

2012年4月6日にMNLAがウェブサイトで、アザワドがマリから

「取り消すことのできない」独立を行ったとの声明を出した。

独立運動事務局長のビラル・アグ・アチェリフ(英語版)は同日、ガオにて独立宣言に署名した[6]。

しかし、この宣言は未だ外国による承認を得ておらず[2]、またMNLAが主張するアザワドにおける事実上の統治でさえ、マリ政府やMNLAとかつて共同戦線を組んでいたイスラム軍事組織アンサル・ディーンとは議論がある[7]。


2012年5月26日にはMNLAとアンサル・ディーンが合同し、

マリ北部にイスラム国家を建国することで合意した[8][9]が後に両者の対立が鮮明となり、

アンサル・ディーンはMNLAによるアザワド独立を却下[10]。

2012年6月27日のガオにおけるMNLAとアンサル・ディーン間の戦闘の結果、
MNLAはガオより駆逐され、

アンサル・ディーンはマリ共和国北部を支配下においたと宣言[11]。

アザワドは事実上崩壊した。



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B6%E3%83%AF%E3%83%89




公用語
トゥアレグ語、アラビア語、ソンガイ語(英語版)、フラニ語、バンバラ語、フランス語

首都
ガオ(暫定)
トンブクトゥ(正式)



ガオ帝国、マリ帝国とソンガイ帝国

ガオ帝国は都市ガオに由来する。

9世紀の時点で西アフリカ最強の国家と考えられている。

1324年にマンサ・ムーサがメッカ巡礼から戻り(この巡礼は有名なものとなった)、

トンブクトゥを平和的に併合するなどして、

14世紀初期には地域の南部がマリ帝国の支配下となる[14]。



15世紀前半にはマリ帝国の勢力が徐々に衰えていき、

トンブクトゥ周辺は相対的に自立していくことになるが、依然としてトゥアレグが支配的地位にあった[15]。


しかし30年後、ソンガイ帝国がガオにその勢力を拡大し、

1468年から1469年にかけてトンブクトゥとその周辺地域を吸収した。

以降、スンニ・アリ (1468年-1492年)、スンニ・バル (1492年-1493年)、アスキア・ムハンマド1世 (1493年-1528年)によって統治された。

スンニ・アリ・バーは征服後、トンブクトゥを非情に扱い対立するが、

アスキア・ムハンマド1世は効率的な中央・地方行政を確立し、

商業中心地が繁栄するために十分な行動の自由を与えたことで、

ソンガイ帝国とトンブクトゥ両方にとっての黄金時代を築いた[15][16]。



帝国はガオを首都とし、トンブクトゥは比較的自立した立場を享受する。

ガダミス、アウジラ、その他北アフリカの非常に多くの都市から、

タガザのサハラの塩、北アフリカの服や馬を金や奴隷と交換するために商人が集まった[17]。

アスキア王朝は次第に内部の争いにより衰えていき、王朝による統治は1591年まで続いた[18]。



モロッコの遠征

ガオのすぐ北の村において発生したトンディビの会戦(英語版)でソンガイ帝国は敗北を喫し、

都市は1591年5月30日にモロッコを統治していたサアド朝のアフマド・アル=マンスールによって派遣され、


金鉱を探し求めていた

ジュダ・パシャに率いられた傭兵と奴隷によって占領された。

彼らはアルマ人と呼ばれた。


ガオが奪われたことは地域大国としてのソンガイ帝国の終わりを象徴する出来事となった[19][20]。

続く時代では経済的にも知的にも衰退していく[21]。

増加しつつあった大西洋貿易のルートを使って

トンブクトゥのアフリカ人奴隷、指導者や学者たちが移動していったことにより、

ガオやトンブクトゥの貿易、学術的な中心としての役割が薄れていったのである[22]。

モロッコは最初のうちこそトンブクトゥとの間の交易ルートを統制していたが、

やがてアルマ人との結びつきを断ち、

このため多くのトンブクトゥのパシャたちによる支配は弱まっていった。

トゥアレグは1737年より一時的に統治を行なう。

以降、18世紀中はバンバラ族やコウンタ族など、トゥアレグのいくつかの種族が
短い期間、統治もしくは占領を行った。

この期間、ソンガイと混血したパシャたちの影響力は完全に消えることはなかった。




フランス統治下

ヨーロッパ列強がベルリン会議においてアフリカ分割の原則を確認し合い、
その結果、西経14度とチャド南西ミルトーの間、かつニジェールのセイ(英語版)からバロウラを結んだラインを南の限界とした部分がフランスの領土となった。

アザワドは名目上フランスの領土となったが、ベルリン会議においては「有効性の原理」(principle of effectivity) が確認され、フランスに対しては割り当てられた地域において実際に権力を保持するよう要求された。


例えば、植民地の地元の首長と協定を結び、政権を樹立してこの地域を経済的に活用することによって、
前掲の領有権主張は決定的なものとなるのである。

1893年12月15日、既に最盛期から長い時間が経っていたトンブクトゥはガストン・ボワトー中尉率いるフランス人兵士グループによって併合された[24]。

これによりフランスの植民地であるフランス領スーダン(1890年-1902年)の一部となる。

フランス統治下で植民地は再編され、何度か名前が変わった。

1899年にはフランス領スーダンは更に細かく分割され、アザワドはオート・セネガル・モエ・ニジェール(Haut-Sénégal et Moyen Niger - 『セネガル上部と中部ニジェール』、

1899年-1902年)の一部となった。

1902年にはセネガンビア・ニジェール(英語版)(仏: Sénégambie et Niger、1902年-1904年)となり、

1904年にはオート・セネガル・ニジェール(フランス語版)(仏: Haut-Sénégal et Niger、1904年-1920年)と再改称。

この名前は1920年に再びフランス領スーダン(1920年-1958年)の名前に戻るまで使われた[25]。



マリ統治下

1958年、フランス領スーダンはフランス共同体の中で自治国スーダン(フランス語版)(1958年-1959年)となり、マリ連邦(1959年-1960年)を経て、1960年にフランスよりマリ共和国として独立した。

しかし、アザワド地域ではマリ統治に対する抵抗運動がたびたび起こっており、
主要なものとしては次の4つが挙げられる。


第1次トゥアレグ抵抗運動(1962年-1964年)、

1990年から1995年にかけての抵抗運動

2007年から2009年にかけての抵抗運動

そして2012年にアザワド解放民族運動
(MNLA)とアンサル・ディーンによって起こった抵抗運動である。



21世紀初頭、この地域は略奪や麻薬の密輸によって悪評が高くなる[26]。

この地域には石油やウランを含む鉱物資源を潜在的に存在していると報告された[27]。

2012年1月17日、MNLAはマリ政府に対する反乱の開始を宣言、

「バマコ(マリの首都)がこの地域を別個の存在と認めない限り継続する」とした。

2012年3月、MNLAとアンサル・ディーンはキダルやガオの州都を政府軍の軍事基地も含めて占領。

4月1日、トンブクトゥは占領された[30]。

4月1日のトンブクトゥの奪取後、

MNLAはアザワド独立を主張する領土のほとんどを実行支配した[31]。

この時、MNLAは声明で、外国にいる全てのアザワド人に対し、

故郷に戻り新国家建設に参加するよう招聘した。



一方的な独立宣言

「アザワド独立宣言」も参照

2012年4月6日にMNLAはアザワドの独立を宣言し、これを民主主義国家とするための憲法案を作成することを誓約した。

声明の中で国際連合憲章を受け入れ、新国家はその原理原則を支持すると述べている[2][32]。

MNLAのスポークスマンはFrance 24のインタビューに応じ、その中でアザワドの独立を宣言した。

“ マリ共和国は無政府状態の国家である。

ゆえに我々は、我々の領土を守ることができる軍隊、

並びに民主主義制度を形作ることのできる事務組織に参加させるために、

民族解放運動を集めた。

我々は本日、この日からアザワドの独立を宣言する。 ”

—Moussa Ag Assarid、MNLAスポークスマン(2012年4月6日[33]より)


またこのインタビューでは、
アザワドが「アザワドと隣人を分割する、植民地的な国境をすべて尊重する」と約束し、
またアザワド独立宣言は「国際法的にも正当なものだ」としつこく主張した[33]。


いかなる国家、また国際機関も未だアザワドを国家として承認していない。


アフリカ連合はMNLAによる独立宣言を「どんなものであれ、空っぽであり、何の価値もない」として即時に拒絶した。

フランス外務大臣はマリからの一方的な分離を認めないものの、「長い間、十分かつ必要な返答を得られてこなかった北トゥアレグの人たちの要求」に対処するようバマコとガオとの間の交渉を促した。

アメリカ合衆国も独立宣言を拒絶している[34]。


日本国外務省は独立宣言を非難し、アフリカ連合を支持する立場をとっている[35]。


MNLAは最大で3000人程度の兵士を有していると推測されている。

西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)はマリ南部の治安回復、また反政府勢力の封じ込めを目的として3000人の兵士を用意し介入する準備を行なった。フランス政府はこの後方支援の準備を命じた[34]。


2012年5月26日にはMNLAとアンサル・ディーンが合同し、マリ北部にイスラム国家を建国することで合意した[8][9]。

しかし、後にMNLAはこの合意協定を取り下げ、アンサル・ディーンからも距離を置くことを決定したとされている[36][37]。

アンサル・ディーンは後にMNLAによるアザワド独立を却下した[10]。

MNLAとアンサル・ディーンは衝突し[38]、6月27日のガオにおける戦闘で対立は最高潮に達した。

この戦闘の結果、MNLAの司令官を含む兵士22人が死亡し、アンサル・ディーンとイスラム武装勢力西アフリカ統一聖戦運動(英語版)(MOJWA)はガオを陥落させ、MNLAは駆逐された。


後日、アンサル・ディーンはトンブクトゥ、キダルも支配下においたと宣言し、
これによりマリ北部3大都市全てを手中に収めた[11]。

アンサル・ディーンはその後もMNLAの陣地に対する攻撃を継続し、
2012年7月12日までにMNLA最後の拠点アンソンゴ(英語版)が陥落[39]。


アザワドは事実上崩壊した。


:::::::::::::::::::::::::::



難しいなこの辺もほんとに。

ただ日本と違うのは見た目がはっきりごちゃ混ぜだよってこと。

でもそれで悲しい思いをする人も多いんだろうな。

アメリカじゃ黒人の肌の色の濃い薄いだけでもいろいろあるからな。







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