So-net無料ブログ作成


2016年までの観た!読んだ!お勧めの映画や本でーす!





消えた一族(225)長阿比古存事代主荷の後商として居る。(仕切りなおし) [消えた一族]










長阿比古存事代主荷の後商として居る。(仕切りなおし)


長阿比古存事代主

事代主後商長阿比古


事代主(大国主ー阿部のコトシロヌシ)

長阿比古(ナガスネヒコ・アビヒコ)

蝦夷(東北・北海道はごく一部-アイヌはまた別)



信濃

列島全域(土蜘蛛、熊襲、隼人etc いわゆる朝敵)


いわゆる朝敵といわれ、鬼や蜘蛛や熊や、エタやヒニンにされたものが

先住縄文人=日本人



これを大きく分けて2期目としようか



1期目は

南方から琉球、沖縄へやってきた海(神)人族

神話的に言ったらこれがイザナギイザナミよりも前の古代王朝の人々

イザナギイザナミにこの日本を譲った
そしてアマテラスにその権利が移っていく

そのどの時にも”第六天魔王”は現れて
仏教は近づけるなと言うわけだ


第六天魔王はその古代王朝の長

魔王とかサタンとか、悪魔崇拝とかじゃなく


古代王朝の流れの一族

神話的に、神武が始めての”天皇”だとしたら

この時代にも、この古代王朝の地は婚姻と言う形で継がれていく


それは神話的に行ったらコノハナサクヤヒメのお話。


美しい姫と醜い姫

両方もらってくれたら、美しく咲き誇る花が永遠と続くように

天皇家も続くはずだったけど

美しい姫しかとらなかったので

命短く桜の花のようにはかなく散る天皇家になってしまった


この時に出てくるオオヤマツミノカミが、古代王朝の流れの一族

南方から沖永良部を経由して九州へ、そして列島に広がったんろう


神話の言う”国津神”はみな古代王朝の流れを汲む一族

出雲も熊襲も隼人も土蜘蛛も蝦夷も。


いろんなお姫様がいるけど

私が今まで=として書いてきたのは何も同一人物と言うことではなく

同一の一族が祭っていたお姫様

祭っていたお姫様って言うのが意味不明だったけど

このお姫様はみな、巫女なんだろうね

女版 事代主

神の代弁者

神話の中で、天探女が悪者扱いされてるのも

アマテラス一族を裏切って、オオクニヌシとともに彼の国を自分が治めようと
思っていたアメノワカヒコのところにアマテラス一族からの使者がやってきたわけでしょ

どういうつもりなのか問いただしにきたわけで

神話ではサグメがワカヒコをそそのかして、だまして雉を撃ち殺させたなんて書いてるけど

ワカヒコはオオクニヌシの娘を嫁にもらって国津神の国で幸せに暮らしていたし、
これからも暮らして行こうと思ってたんだから
サグメがそそのかしたりだましたりしていないわけ

返し矢は
もしワカヒコが天津を裏切って国津に着くなら、ワカヒコを射抜けといって
矢を投げ返してるんだから
キジが売れようが打たれまいが関係のない話なわけ
そもそもワカヒコは帰る気なんかなかったんだから

いちおワカヒコは天津のものだから
サグメを悪者にしたんだろう

サグメの立ち居地がいまいちよくわかんないけど

巫女一族って言うのがまた別にあるんだとすれば
”炎立つ”の中に出てきてた物部の吉次一族みたいな存在なんだね
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%82%8E%E7%AB%8B%E3%81%A4_(NHK%E5%A4%A7%E6%B2%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E)



さて、そのサグメを祭って移動したのが
うちの父方のお母さんの家系なのですよ。


昨日のお墓参りに行って、

あーやっぱりか、、って思ったのは


毎回バスを降りてしばらくするとすぐに左足がものすごく痛くなるの

こっちに引っ越してきてお墓参りにいくようになってから気がついたんだけどね

家からバスで30分かからないところ

家からバス停まで歩いて7分くらい

バスに乗ったら座るでしょ

で、バスを降りて数十秒のコンビニに行く頃にはもう足が痛み出してる

で、お墓まではそこから3分くらい

お墓に着くと足がいたいのは気になってない

草むしりをして回りを掃いて、お水をかけて、お花を上げて線香炊いて手を合わせて

周辺片付けて、さあ、帰ろう!

で、またさっきのコンビニのあたりにつく頃

時間をみると大体次のバスがくるまで1時間半~2時間くらいの

中途半端な時間が余るのね

なのでいつも、お墓参りの後には氏神様のところによるわけ

じゃ、さぐめさんのところにいきますかって歩き始めると、神社につく頃にはもう

特に左足の足首、かかとヒザ、足の付け根が痛くなってるのよ

ほんの15分くらい歩いただけで

私にとってこれは非常におかしなことなの

私は歩けば何時間でも歩いていられる人なのよ

この下の地図の赤い点線が全部徒歩移動
キックボードなし

時間にしたら5時間、もっと歩いてるかも

私のたびはいつもこんな感じだから
だからいつも一人で行くんだよ。

大体いやでしょ、こんなに歩くの。


13015463_699735650129574_243566473282526524_n.jpg



前回の墓参りのときも墓参り終わってコンビに来る頃にはもう激痛だったから

今回はキックボード持参だよ

17021731_898999286869875_1447856992115945135_n.jpg


さぐめさんから徒歩15分位の距離のところにある河内さんにもいってみようと思っていたからね

キックボード少し乗ったけど

あまりにも静かなところで人っ子一人歩いてないし

悪いけど気持ち悪くなってきてしまって

静かに歩いた

そこらへんの人に出会いたくないなと思って

16865021_898999300203207_1207201075482013693_n.jpg


いってみたけど結局祭神もわからず

ただ川の内側にあった


川と山の間ね

反対側が道路と人家

水神さんであることは間違いないね

帰ってきてから再度調べても、はじめに調べた以上の事はわかんなかった


そこから戻る頃にはもうすごく気持ち悪くて

左足も激痛で

やっぱこれはおかしいわって思って

その時感じたもんでいろいろ調べて書いたのが

昨日の機織淵の記事


人柱の伝説はひとつあるんだけど

人柱とも違う気がして

でもそれはまだちょっとよくわかんない

でもでも、あの体の異常は異常で

もう帰ろうってバス停に行ってひょっとした瞬間に、
それまで激痛で足が抜けそうだったのがしゅっとなくなるの


それはありえない

それもいつもそうなの


もうーーーー痛い!!!だめだ、、もう帰るぞ!ってなると取れるの


私昨日はね、さぐめさんの場所があるところ的には人柱かなって思ったんだけど

川の氾濫洪水のための人柱かなって思ったんだけど

ちょっともうちょっと違う感じなのかも

でもそれは私にはわかんないし、

きっと調べるのもちょっと大変そう

もっと呪術的な

密教とか山伏のなんとかとか、もうーちょっと一般人にはわからない世界のもんかも



このブログかその前の頃からかな

わたし

この一族を


” 物部のサグメ ”

、、、とでもいいましょうかって書いたことがあるけど


ビンゴだったみたいだね、、、



ヌナカワヒメをお祭りしているところにもいる我が家の名前

ニュウツヒメをお祭りしているところにもある我が家の名前

そして

サグメとともに美濃からやってきた私の父のお母さん


この地図を見てもらって
https://www.google.co.jp/maps/place/%E6%96%B0%E6%BD%9F%E7%9C%8C%E7%B3%B8%E9%AD%9A%E5%B7%9D%E5%B8%82/@37.0492956,137.9132462,15z/data=!4m5!3m4!1s0x5ff64455a24e1d77:0xb78ccca35fe01e51!8m2!3d37.0390282!4d137.8626522?hl=ja



梶屋敷

金山<< 金山彦 吉次一族と同じ金山、
でもココでは主に、鉄、水銀だったと思う、金も出たか調べたことはナイ

西谷<<ニシタニ サイダニ サイダニは斎谷 祭谷 神の谷 神谷は”ミダニ” = ”三谷”


そしてココには 四ツ屋もあるのよね

父と母が出会うきっかけとなる、両家のつてがある四谷

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


ニュウツヒメ神社のあるところにも”三谷”


そしてさぐめさんのいるところには

才野 サイノ サイヤ 斎野 祭野 神の野 神野は”ミヤ”  =”三谷”


うちの父の語呂合わせ好きには呆れてたけど
こんなところで、役に立ってるのよ。。。




私にはおばあちゃんなんだけど、会ったことがないのだよ

私が生まれる前にはなくなってしまってるからね

父が19歳くらいの頃には両親ともになくなってる

父からおじいちゃんおばあちゃんの話を聞いたこともないのだよ


さて、このおばあちゃんの家の本家が

”中村”

だと思うんだよね。


中村

ナカムラ

ナカのムラ

確かに墓の同じエリアには

中 と言う地名があるよ

中村だよ。


血の繋がらないおじいちゃんは大阪難波からやってきてるんだけど

親戚関係でもなんでもないと思うんだけど

この墓周辺の地域には

なぜか血の繋がらないおじいさんと同じ名前が点在しているの

その中の一軒は裏山に八坂さんをお祭りしてる。

これと同じパターンは田辺にもあり


そうだよねーーーー、、、あの変墓はないよね

神社ってお線香たかないよね

寺はあるから風向きだったのかなーーー

それにしてものすごい線香の香りがして

その香りのする方面に歩いて行って

同じ名前の家を見つけ

線香の匂いがするから、もしや裏に八坂さんがあったりしてってその時は思ったんだけど

神社は線香たかないじゃん

で、とにかくその家の裏に当たるところへ歩いてみたらビンゴで八坂さんがあったの


それと同じような感覚で、

同じく田辺で


鳥居さんと言う家を見つけて

鳥居さんか、じゃなんかこの辺にもあるのか?

って思って反対側の曲がり角の先を見たら

大本教田辺分社があったの


なんで鳥居さんに反応したかと言うと

実家の私道の入り口にあるお家が鳥居さんなの


ただそんだけなんだけど

今思い出すと

大昔あそこに小さな神社があったのかもしれない

そんな気もしないでもない


だからなんか私ピンクがかった朱色の店にしたのかもしれない


古地図を調べてみよう


うちの父が戦後東京に出てきて不動産屋になって

いつもいつも古地図を眺めてた理由もそういうことかもしれない


ちょっといたっんUPします。


16999145_898999180203219_1262565222716939261_n.jpg



5YSFfkri.jpg


164046.jpg


16938867_1416900378349390_2651520277228176876_n.jpg



















藤原三代とは、

藤原清衡、基衡、秀衡の三代であり、

実は、大和朝廷の東北侵略に対して戦った、

先住日本人・縄文人(蝦夷)の酋長・アテルイ、

そして、その子孫の、

阿部氏の親族なのである。

つまり、京都朝廷・弥生人の藤原氏とは全く違う。



http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Forest/4179/texta35.html

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%86%E3%83%AB%E3%82%A4




「阿弖流爲」「阿弖利爲」



「阿弖 流爲」 「阿弖 利爲」



阿弖


弖>>>>>>「テ」と訓みテニヲハのテの義とす

ans-78474317.png











slow_1_good_2_byeさん

2014/3/2402:58:10
.

紀伊国阿氐河荘民の訴状の全文


阿テ河ノ上村百姓ラツゝシテ言上
ヲンサイモクノコト(御材木を納めることが遅れていることにつきましては)、アルイワ チトウ ノキヤウシヤウ、アルイワチカフトマウシ、カクノコトクノ人フヲ、チトウノカタエせメツカワレ候ヘハ、ヲ(テ)マヒマ候ワス候。ソノゝコリ、ワツカニモレノコリテ候人フヲ、サイモクノヤマイタシエ、イテタテ候エハ、テウマウ(逃亡)ノアト(跡)ノムキマケ(麦蒔)ト候テ、ヲイモトシ(追戻)候イヌ。ヲレラ(俺ら)カコノムキマカヌモノナラハ、メコトモ(妻子供)ヲヲイコメ(追込)、ミミヲキリ、ハナヲソキ、カミヲキリテ、アマニナシテ、ナワ・ホタシヲウチテ、サエナマント候ウテ、せメせンカウセラレ候アイタ、ヲンサイモクイヨイヨ、ヲソナワリ候イヌ。ソノウエ百姓ノサイケイチウ、チトウトノエコホチトリ候イヌ。



領主に納めるべき材木のことについて、地頭が様々な仕事を私たち農民にさせようとするので、材木を切り出しに行く時間がありません。私たちが、村に残ったわずかな人手で材木を切り出しに行こうとすると、地頭は『逃亡した百姓の畑に麦を蒔け。さもなければ、おまえらの妻や子どもたちを捕らえて牢に入れ、耳を切り、鼻を削ぎ、髪を切って尼のようにし、縄で縛って拷問するぞ』と脅すので、材木の納入はますます遅れてしまいます。





阿氐河荘 あてがわのしょう


紀伊国有田(ありだ)川の上流に位置する山間の荘園(しょうえん)(和歌山県有田郡有田川町)。阿弖川荘、阿瀬川荘とも書く。10世紀末には石垣上荘(いしがきかみのしょう)ともいわれた。中納言(ちゅうなごん)平惟仲(これなか)が1001年(長保3)に京都の白川寺喜多院(寂楽寺(じゃくらくじ))にこの荘園を寄進した。12世紀なかば以降、領有をめぐって寂楽寺と高野山(こうやさん)が争っている。1210年(承元4)御家人湯浅氏が地頭職(じとうしき)に補任され、以後、寂楽寺(本家職は円満院)、高野山、湯浅氏の三つどもえの争いが展開する。1275年(建治1)の有名なかたかな書きの百姓申状は、寂楽寺と地頭との争いのなかで、『貞永(じょうえい)式目』の注釈書『唯浄裏書(ゆいじょううらがき)』の作者で寂楽寺雑掌(ざっしょう)斎藤唯浄が書かせたものである。阿河荘は上、下からなり、12世紀には田地計100余町である。1304年(嘉元2)円満院は領主権を高野山に譲ったが、湯浅氏と高野山の争いはなお続いた。[仲村 研]
『仲村研編『紀伊国阿河荘史料 1、2』(1976、1978・吉川弘文館)』
[参照項目] | 百姓申状


湯浅一族のなかでは,保田,石垣,阿氐河氏などに分化した宗光の系統が有力で,惣領家に匹敵する勢力を有していた時期もある。なお〈ミミヲキリ,ハナヲソギ,カミヲキリテアマニナシテ……〉と百姓を威嚇した阿氐河荘上村の地頭は,宗光の孫の宗親である。文覚,行慈のもとで出家し,高山寺の開山となった明恵(みようえ)も母が宗重の娘で,幼少より湯浅一族に養育され,しばしば在田郡に下向し,郡内の各地で修行した。…




阿氐河氏


湯浅宗親(ゆあさ むねちか、生没年未詳)は、鎌倉時代後期の武士・御家人。

紀伊国阿氐河荘[1]の地頭となった人物で、

日本中世史研究において著名な『紀伊国阿弖河荘百姓訴状』上で

訴えられた当時の地頭その人である。

祖父の宗光、父の宗氏についても本項で触れる。



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E6%B5%85%E5%AE%97%E8%A6%AA



紀伊国 阿氐 河上荘



阿氐

阿氏




アテルイ

アテ ルイ

アテ

ate

ape

abe



keep searching



縄文人・阿部氏の棟梁
であった、阿部貞任の子孫は青森に逃げていた。
彼らは「安東(あんどう)氏」と名乗り、そこでまた、じゅうさんこ
見事な交易国家を築くのである。
 津軽半島に、十三湖(じゅうさんこ)というのがある。
そこは当時、まだ海と繋がっていて、その入り口に
港湾都市を築いたのである。名前を「十三湊(とさみなと)」
という。今となっては、伝説の港町である。
 さかんに船が出入りして、ずいぶん広範囲に貿易を
行なったらしい。ところが、台風と洪水で消失してしまった。
今でもかすかな遺構はあるが、確かな記録はほとんどない。
 現在、その十三湖は東北最大のしじみの産地である。
そこで取れるしじみは並みの大きさではない。
アサリくらいある。仙台のスーパーで、それを初めて
見た時、ビックリして、10分くらい眺めていた。

十三湊を失った縄文人・安東氏は、南北に別れる。
南へ土地を変えた安東氏は「秋田氏」と名乗る。
北の一派は北海道へ渡る。北海道にはアイヌがいた。
しばらくは、アイヌと協調して暮らしていたが、ある時、
アイヌとの間に戦争が起きる。「コシャマインの乱」である。
アイヌが負け、北・安東氏は江戸幕府から認められて、
「松前氏」となった。北海道・松前藩の誕生である。ねぶた

一方の秋田氏も江戸幕府の配下となり
大名として認められたが、すぐに千葉県に移封された。
 秋田氏は、大名として江戸時代を生き抜き、
明治維新により、子爵として貴族になった。
 ただ、おもしろいのは、江戸時代の大名は、
ほとんどが、先祖を天皇家の末裔として無理矢理、
家系を捏造するのが当たり前だったにかかわらず、
この秋田氏だけは、かたくなに、国津神のナガスネヒコ
を先祖としている。つまり、大和朝廷の天皇家に
敵対した縄文人(蝦夷)の血統であり、近くは
阿部貞任の子孫であると称しているのである。
そういう大名を貴族にしてもいいもんか、と
明治政府でも意見が出たが、まあ見逃しておけ
ということになったらしい。

日本の歴史は、弥生文化と、大和朝廷ばかりで
語られがちであり、ゆえに東北にはたいした歴史はない
と見られがちだが、どっこい、
先住民族・縄文人の歴史が色濃いのである。

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Forest/4179/index.html


蝦夷とアイヌは別物

北海道=蝦夷

、、、ではない。

http://heartland.geocities.jp/sekakumo/ronbun200702_02



北海道と呼ばれるようになったのは1869(明治2)年のことであり、それ以前は長らく「蝦夷地」と呼ばれていた。蝦夷地に和人が住みはじめたのは13世紀頃といわれており、鎌倉幕府によってこの地に流されてきた人々が住み着いたのが最初だといわれている。室町時代に入ると、渡島半島の南端に「館(たて)」と呼ばれる和人の砦がいくつか建設されており、15世紀になると1457年に起きたコシャマインの戦いのように、和人と先住民族であるアイヌの人びととの間で戦乱も起きている(1)。コシャマインの戦いは当初、アイヌ軍側が一方的に有利であったが、当時蠣崎(かきざき)氏の食客であった武田信広がこの戦いを制したことで、蠣崎氏は蝦夷地の和人勢力の中で抜きん出た立場となった。武田信広はこののち蠣崎氏に養子に入り、のちの松前氏の祖となっている。そして16世紀後半に入ると、蠣崎慶広は豊臣秀吉に接近しアイヌの人びととの交易権を独占するお墨付きを得た。慶広は1599(慶長4)年には徳川家康に接近して松前氏に姓を改め、ここに事実上松前藩が成立し幕藩大名の一員となっている(2)。

松前藩成立後も、長い間蝦夷地で和人が居住していたのは「松前地」または「和人地」と呼ばれる松前を中心とする道南のごく狭い地域のみであった。その他の大部分の地域は、「西蝦夷地」と「東蝦夷地」に分けられ(図2)、いずれもアイヌの人びとの住む大地であり、和人の居住は禁じられていた。

http://heartland.geocities.jp/sekakumo/ronbun200702_02





榊は語りかけてるー先住ナグサ・ニシキ(=ニウツヒメ)
http://escapejama.blog.so-net.ne.jp/2015-02-14



16999145_898999180203219_1262565222716939261_n.jpg

コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog


2016年までの観た!読んだ!お勧めの映画や本でーす!