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消えた一族(226) 勧請 [消えた一族]

2017-03-04 03:15:12のブログです
更新中











かん‐じょう〔クワンジヤウ〕【勧▽請】

[名](スル)
1 神仏の来臨や神託を祈り願うこと。また、高僧などを懇請して迎えること。
2 神仏の分身・分霊を他の地に移して祭ること。「熊野権現(くまのごんげん)を勧請する」



神道では離れた土地より分霊を迎え遷座鎮祭すること

すなわち,本祀の社の祭神の分霊を迎えて新たに設けた分祀の社殿にまつること。

もともとは仏教より出た語で

仏に久住して法輪を転じ衆生を擁護することを請う,という意で用いられたが

のちに仏菩薩を他に請じて久住を願うことに転じて用いられるようになった。

日本では神仏習合の発展によって

八幡大菩薩や熊野権現などの垂迹神の神託を請うことを勧請といい

さらに神仏の霊を招いて奉安することをいうようになり

そこに勧請された神を勧請神と呼ぶようになった。




分霊(ぶんれい、わけみたま)とは、

神道の用語で、本社の祭神を他所で祀る際、その神の神霊を分けたものを指す。

分霊を他の神社に移すことを勧請(かんじょう)という。

神道では、神霊は無限に分けることができ、

分霊しても元の神霊に影響はなく、

分霊も本社の神霊と同じ働きをするとされる。

他の神社より祭神を勧請した神社を

分祠(ぶんし)、分社(ぶんしゃ)、今宮(いまみや)などという。

勧請はその神の根源とされる神社(総本社・総本宮)から行われることが多い。

分霊された神社(系列社)の社名は、勧請された神に因むことが多い。

例えば稲荷神社の総本社は伏見稲荷大社であり、

ほとんどの稲荷神社は伏見稲荷大社から神霊の勧請を受けている。

勧請は、本来は仏教で仏に教えを請い、いつまでも衆生を救ってくれるよう請願することを指した。

日本では、神仏習合により、神仏の霊を迎えての祈願を指すようになり、後に現在の意味に変化した。

なお、分祀は、神社に複数の祭神が祀られる場合に、

一部の祭神のみを他所に移して祀る分遷の意味[要出典]でも使われる
(例:伊太祁曽神社)。


神札や御守に祭神の加護を加える降神も分霊の1つである。

その逆は昇神で、それらや御神体から祭神の神霊にお帰り頂く事をいい、

昇神によりそれらの物を左義長でお焚き上げが可能となる。

仏教では降神を開眼(かいげん)、昇神を撥遣(はっけん)などという。


:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


巫女舞

古代日本において、

祭祀を司る巫女自身の上に神が舞い降りるという神がかりの儀式のために行われた舞がもととなり、

それが様式化して祈祷や奉納の舞となった。


前者(「神がかり系」)においては

古来の神がかりや託宣の儀式の形式に則って回っては回り返すという動作を繰り返しながら舞うことなどでその身を清めてからその身に神を降すという、その古態を残すところもあるが、

現在では優雅な神楽歌にあわせた舞の優美さを重んじた後者(「八乙女系」)がほとんどである。

千早・水干・緋袴・白足袋の装いに身を包んだ巫女が太鼓や笛、銅拍子などの囃子にあわせて

鈴・扇・笹・榊・幣など依り代となる採物を手にした巫女が舞い踊る。

また、関東地方の一部などでは巫女が仮面を嵌める場合もある。

処女が巫女(八乙女)として舞を務める例が多いが、

近年では神職の妻女や老女が舞う場合もある[1]。





巫女舞の原点は、

降神巫(こうしんふ)による神がかりの儀式にあったといわれている。



採物を手にした巫女がまず身を清めるための舞を舞い、

続いて右回り左回りと順逆双方に交互に回りながら舞う。

やがてその旋回運動は激しくなり、

しだいに巫女は一種のトランス状態に突入して神がかり(憑依)、

跳躍するに至って、神託を下すことになる。


舞という言葉はこの旋舞の動きが語源であり、

跳躍を主とする踊りもここから生まれたとされる。

中国の巫覡の舞の基本を示した『八卦舞譜』には「陰陽を以て綱紀と為す」とあり、

舞踏の動作は陰陽を意味する左旋と右盤を必須とすることが記されている。

それは太極図が表現する天地がいまだ別れる以前の陰陽混然の姿を示しているとされる。




『古事記』・『日本書紀』において


天岩屋戸の前で舞ったとされる天鈿女命の故事にその原型が見られ、

その子孫とされた「猨女君」の女性達は

代々神祇官の女官として神楽を奉納したとされている。


平安時代の宮廷で舞われたとされる「猨女」・「御巫」(『貞観儀式』)は

いずれも巫女舞であったと推定されている。


『拾遺集』によれば、920年(延喜20年)に奈良の春日大社で

「八乙女」と呼ばれる巫女達による神楽が舞われたと記録されている。

平安時代末期の藤原明衡の著である『新猿楽記』には、


巫女に必要な4要素として「占い・神遊・寄絃・口寄」が挙げられており、

彼が実際に目撃したという巫女の神遊(神楽)は


まさしく神と舞い遊ぶ仙人のようだったと、記している。


また、少し後の時代に属する『梁塵秘抄』にある

「鈴はさや振る藤太巫女」にも鈴を持ちながら舞い踊る巫女が登場する。




中世以後各地の有力な神社では巫女舞が恒例となった。


当時の巫女舞は旧来の神がかり的要素に加えて

依頼者の現世利益を追求するための祈願を併せて目的としていたとされている。



また、地方では修験者と巫女が結びついて

祈祷や鎮魂を目的とする民間習俗の色彩が濃い巫女舞も行われるようになった。


現在でも、祈祷・祈願自体を神楽、あるいは「神楽を上げる」と称する例があるのも、

このことが基であると考えられる。



中世の巫女舞に関する多くの史料が残されている備前国(岡山県)一宮の吉備津彦神社の例では、


1342年(康永元年/興国3年)作成の『一宮社法』によれば、

12名の巫女からなる「神子座」があり、一宮の行事以外でも村々の招きに応じて神楽を舞い、

逆に村々の巫女が一宮で舞う事があった。

だが、1471年(文明3年)に作成された「総社家社僧中神前御祈念之事等注文」によれば、

巫女にも宮神子から選抜される一神子と一般の宮神子、村方の神子に分類され、

一神子のみが本社で神楽を無言で舞うことが許され(託宣などの禁止)、

宮神子は祈祷のみを許され、

占い・託宣・湯立は脇殿で宮神子以外の者が行うことなどが定められて、

神事に携わるものと託宣などを行うものが分離されるようになった。


ところが、江戸時代後期に勃興した国学の中には、


神霊の憑依などの霊的現象を淫祠邪教として否定的に捉える学説が現れるようになり、

そのような民間習俗と結びつきやすい巫女そのものに対しても否定的な動きが出始めた[2]。

後、明治維新を迎え、

国学的な神道観を基に神社祭祀制度の抜本的な見直しが為されたが、

1873年(明治6年)には

神霊の憑依などによって託宣を得る行為は

教部省によって全面的に禁止された。

これは巫女禁断令と通称される[3]。


禁止措置によって神社に常駐せずに民間祈祷を行っていた巫女は全面的に廃業となったが、

中には神社に留まることによって活動を続ける者もいた。

後、春日大社の富田光美らが、

巫女の神道における重要性を唱えて

巫女舞の存続を訴えると同時に同社ゆかりの「八乙女」による舞を

より洗練させて芸術性を高める事によって巫女及び巫女舞の復興に尽くしたのである。

これが今日見られるような巫女舞になっていくのであるが、

依然として「神がかり」の系統を受け継いだ古い形の巫女舞を残している神社も

僅かながら存在している[4]。

その一方で、


島根県松江市の佐太神社のように
男性神職が女装して姫面を付けて巫女舞を踊る神社も存在している。











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ちょっといろいろ出てきちゃって寄り道してた

関係ないやと、またこっちに戻そうにも


今日は何検索しても八幡ばっかり出てくる。

しかも、

比売大神か女祝、、、、、


ああ。。。最終は 


”阿部の祝のミコ” 

かい、、、、、?

だな。 


88の

阿部の祝の巫女


ちょっとお待ちを


夕べからまたずっと足が痛くてね


墓参りのその夜から次の日のお目覚め時も

そういう時って

こっちとあっちの中間にいるんだろうね

あっちからの干渉に気がつきやすい

気がつくと思ってやってるんだろうね


なので


わざと大きな声で、もう!とかいってみる

そうすると、しなくなる。


足が痛くて集中できませんよ

左足ね。。。



ちょっともう少し集中して調べてからまた。。。



なんでこんなことを調べてるかといったら

左足に激痛がおきるから


お墓参りに行く土地に行くとね

お墓ではなんともない


お墓を出て、ちょっとうろうろしようかなーなんて思うともう左足に激痛が走り出して

うろうろするどころじゃない


さぐめさんの神社では足は痛くない


でもなんとなく思うとこがあって調べてる





比売大神っていろいろいわれてる中のひとつに

八幡のシャーマン(巫女)を祭る時のご祭神名っていうのがあった


こんなことを書いていいのかわからないけど

ほら、、インドのクマリとかいるじゃない


あちこちに、たとえばククリヒメを持ってこようって時に

儀式として

神がかり、神を降ろす巫女がいて

その人に憑くわけでしょ

その巫女さんは、シャーマンはまあそこの専属のシャーマンみたいになるんだろうよね

歩き巫女なんて言葉も目にしたことがあるけど

もっとインドのクマリ的な感じで



まあ、、これを観てみましょうか、、






動物の頭部が並べられた暗い部屋に閉じ込められ、
泣き叫ばないかどうか試される試験もあるらしいよ・・


厳しい審査を通り抜け選ばれたクマリは、両親のもとから離され
神として生きなけれないけない。



クマリ様は


自分で歩いてはいけないよう。




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移動するときは、こうやってかつがれながら移動します。





http://ninjah.blog.fc2.com/blog-entry-307.html





ローカル・クマリの一人
クマリ(Kumari、Kumari Devi)は、ネパールに住む生きた女神である。密教女神ヴァジラ・デーヴィー、ヒンドゥー教の女神ドゥルガーが宿り、ネパール王国の守護神である女神タレージュやアルナプルナの生まれ変わりとされており、国内から選ばれた満月生まれの仏教徒の少女が初潮を迎えるまでクマリとして役割を果たす。中には初潮が来ず、50歳を過ぎてもクマリを務めているケースもある。

カトマンドゥのクマリの館に住む国王もひれ伏すロイヤル・クマリが最も有名であり、国の運命を占う予言者でもある。 クマリという場合、概ねロイヤル・クマリを表す(ネパール国内の村や町にも多数存在するクマリはローカル・クマリと呼ばれている)。

2001年7月10日に当時4歳で選ばれたPreeti Shakyaに替わり、2008年10月7日に当時3歳で選ばれたMatina Shakyaが現在のロイヤル・クマリである。

9月に行われるインドラ・ジャートラー(英語版)の大祭ではクマリが主役となり、王がクマリの元を訪ね跪き祝福のティラカ(Tilaka)を受ける。 顔は額から鼻筋にかけて赤い化粧が施されている。



クマリは初潮前の幼い少女から選ばれ、その中から多くの条件が課される。これはチベット仏教の活仏であるダライ・ラマやカルマパらが選定されるプロセスに似ている。 家柄は重要であり、ネワール族の仏教徒の僧侶・金細工師カーストのサキャ(Shakya)の生まれでなければならない。

以下は32もある条件の一部である。
健康である
すべての歯が欠けていない
菩提樹のような身体
牛のような睫毛
獅子のような胸
鹿のような脚
アヒルのように柔らかく透き通った声
黒い髪と目

また、身体的には怪我の跡や不自由な箇所がないことも条件である。 動物の頭部が並べられた暗い部屋に閉じ込められて耐えることも必要とされる。 国や国王との占星術における相性が良く、これらすべての条件をクリアした少女がクマリとなる。


社会から断絶されたクマリの状況は幼児虐待や軟禁状態にあたると人権擁護団体から非難の声もあがっている。2006年にはネパールの最高裁でクマリの伝統が人権侵害にあたるか政府に対し調査を命じた。2008年8月18日、最高裁がクマリの人権について判決を出した。判決は「クマリが,子供の権利条約の保障する子供の権利を否定されるべき根拠は,歴史的文書にも宗教的文書にもない」とし、クマリには教育、行動、食事の自由などが認められるべきであるとした。[4]

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%9E%E3%83%AA




このあたりの、


あれも八幡様だったかな

決められたお稚児さんがやっぱ、お祭り終わるまで自分で歩いちゃ行けない風習が

お祭りで残ってる



ヤツハチの稚児は、毎年2~3才の男児が1名選ばれ、
3年間の本役と、4年目の雇われ役を神の子として務める。

1年目の稚児は月の冠を、
2年目の稚児は日の冠を、
3年目を務める稚児は獅子の冠をつけて舞いを舞う。
4年目の稚児は、1年目の稚児が幼令で奉仕できない時、代役を務めるが、
この4年間は厳しい精進潔斉の日を過すのである。

http://wakayama-jinjacho.or.jp/jdb/sys/user/GetWjtTbl.php?JinjyaNo=7025

http://ameblo.jp/shiraranankurunaisa/entry-12095689383.html



クマリ
http://www.afpbb.com/articles/-/3055209
http://yaplog.jp/ar125/archive/5411





巫女信仰
https://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E4%BF%A1%E4%BB%B0&lr=lang_ja&rlz=1I7MORJ_jaJP511&gws_rd=ssl#q=%E5%B7%AB%E5%A5%B3%E4%BF%A1%E4%BB%B0&lr=lang_ja&hl=ja&tbs=lr:lang_1ja&start=10&*




アメノサグメ


鳥の声を判断できる巫女



サグメ一族


このクマリじゃないけれど

クマリよりももうちょっとハードそうな

というか、ハードな状況にいた人がいたのかもしれない



私がその土地にまったく関係のない人間だったら

そこにいっただけで左足びっこ引くほど激痛になるってことはないかもしれない

ずーーーーーーっと座ってるのだって大変よ


10分だって正座もできないわ、、、


それだけではなく

うーーーん、、記録など探してみたけど見当たらずだからなんともいえないけど


あんだけ足を痛くさせちゃうんだから

これは


人柱系かなーとか思ったの。



そういう話もその周辺には実際残ってる










○慶長伏見地震、伏見城倒壊-歌舞伎狂言・地震加藤のテーマに(420年前)[改訂]
 1596年9月5日(文禄5年閏7月13日)
 京洛の巷も伏見の港も城も寝静まった子の刻(午前0時ごろ)、京都南部を中心とした畿内と近隣をマグニチュード7.5の大地震が襲った。
 被害は京都の三条から伏見にかけて多く、京都では東寺、天竜寺、大覚寺、二尊院といった大寺院が倒壊、民家の多くが倒潰し死傷者も多く出たという。特に東寺では寺の中枢をなす食堂、講堂、灌頂院、南大門が倒壊するなど大きな被害となった。
 伏見では太閤秀吉の居城、伏見城の天守閣が大破、石垣が崩れた。秀吉は庭に逃れ無事だったが、上﨟(高級女官)73人、仲居下女(下働きの女性)500余人が犠牲になったという。この時、秀吉の怒りに触れ謹慎中だった加藤清正が、手勢を引き連れて真っ先に登城し、城門を固めると同時に救助活動を行ったので、閉門を解かれたというエピソードがあり、後に歌舞伎狂言の「増補桃山譚(地震加藤)」のテーマになった。
 この大破した伏見城の普請は4年前の92年(天正20年)8月から始まったが、この時、その6年前の天正地震で越中から美濃、伊勢にかけて、多くの城が倒壊したのを知っている秀吉は、京都所司代にあてた書簡で“ふしみのふしん(普請)、なまつ(ナマズ)大事にて候まま”と、地震対策を指示していたが、不幸にも予感は当たり多くの犠牲者を出してしまった。
 そのほか畿内では、奈良の唐招提寺で戒壇、僧堂が倒壊、金堂、講堂、東塔などが損壊。法華寺の金堂、海竜王寺、興福寺などが損壊した。また、和泉、河内(現・大阪府)、摂津(現・大阪府、兵庫県)で民家の倒潰が多く、特に堺で600余人が死亡、大坂も倒潰した家多く、兵庫(現・神戸市)では1軒残らず倒潰し火災となったという。全体で1500人余が犠牲になったとされ、中央構造線に連なる有馬-高槻断層による震害と推定されている。
 (出典:宇佐美龍夫著「日本被害地震総覧>4 被害地震各論>082 畿内及び近隣 57頁~58頁」、小倉一德編、力武常次+竹田厚監修「日本の自然災害>第Ⅱ章 記録に見る自然災害の歴史>2.近世の災害 79頁:伏見地震」、伊藤和明著・防災情報新聞連載「災害史は語る No140 慶長年間に相次いだ大地震」、伊藤和明著「地震と噴火の日本史>第5章 大都市直下の大地震>1 京都を襲った大地震 182頁~185頁:秀吉の城が潰れた大地震」。参照:2016年1月の周年災害「天正地震」)









サグメの神社は父の母の家系がとても関係深く

美濃からの移住者って言うのがおばあちゃんの家系なのかは不明だけど

この神社を建て直したりとかいしている。

頭屋(とうや)とは、
神社や講において行われる祭礼や神事などの行事の執行に関して
中心的な役割を果たす人もしくは家。
当屋・祷屋・当家などの表記が行われる場合もある。


古代から「頭」・「頭人」などと呼ばれる祭祀の主宰者があり、
宮座の仕組が確立された14世紀頃より頭人もしくは頭人自身が所属する家のことを頭屋と称して、
家単位で行事に関する職務・責任(頭役)を負うことが行われるようになった。

ただし、神事に対する宗教的・経済的な負担の大きさから後には1年交替などの交替制が取られ、
また専門の神職を設置して祭祀に関する行為を行わせて、
頭屋は世話人的な立場に立って
行事に必要な施設や神酒・神饌・神供などの物資の調達・確保の部分を担うようになった。

頭役は家順・くじ・名簿順などによって決められた。

頭役の交替の際には頭渡し・頭受けと呼ばれる厳格な儀式が行われ、
その任務の遂行のために厳しい潔斎を行って清浄性を保ち
門前に依代であるおはけを飾るなど様々な決まりごとがあった。



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部族の枠を超えて継がれる伝統



世界中を回って新しい生薬を探し回る生薬ハンターや民俗学者の話によると、

シャーマンも高齢化が進み、

若い世代のシャーマンは減っているようです。

その山麓シッキムにレプチャ族が暮らしています。

レプチャ族は顔も言語も風習も日本人との共通点が非常に多く、
自然界の八百万の神を信じる精神性の高い民族です。


そのレプチャ族最後の精神的指導者でありシャーマンであったサムダップ・タソが
最近亡くなり、

古来から受け継がれてきた部族伝統儀式と相伝がついに途絶えてしまいました。


タソの後を引き継ぐシャーマンがいなかったのです。

シャーマンは、
普通の職業のように誰もが引き継げるわけではなく、

高い精神性と天性の資質が必要です。



タソの死は、
レプチャ族だけでなく、
人類の遺産の喪失でもありました。



複数のシャーマンたちは、
部族の人口減少に危機感を抱き、
シャーマンの役割を継承していくには、
部族を超えて、
地球部族の中から新しいシャーマンたちを育てる必要がある
ことを実感していると語っています。






この話で、思い出すのが、
メキシコのシャーマンであるマリア・サビーナ。


彼女は、
部族の枠を超えて
自らの困難と引き換えに
次世代に大切な儀式を伝える活動に専念し、
静かに消えていったシャーマンの一人です。



今日は、マリア・サビーナ(1894年-1985年11月23日)のお話しです。




1950年代に
アメリカの幻覚性キノコ研究者R・ゴードン・ワッソンとフランスのキノコ分類学者ロジェ・エイムは、
メキシコのキノコの実地調査をおこないました。

その時に
先住民の村で体験したシャーマン儀式の記録が
1957年のアメリカのLIFE誌に発表されました。

lifecoverLIFE誌

儀式には
「ロス・ニーニョ・サントス(小さな聖者たち)」
と呼ばれる聖なるキノコで作られた薬草処方箋が用いられました。

この儀式に使われたキノコは、
「テオナナカトル」とも言われ、

モモエギタケ科のモモエギタケ属、シビレタケ属、オキナタケ科のキコガサタケ属、ヒトヨタケ科のワライタケ属などのキノコを混ぜたものであることがわかりました。

これらキノコの混合薬からは
幻覚作用の強いシロシビンとシロシンが含有されています。

シロシビン2シロシビン



次の写真は、約1700年ほど前の遺跡から出土されたものです。
キノコの像に神が彫られています。

この地域一帯の各部族にとって、
キノコは神と対話する聖なる植物なのです。

白人がこの地に侵入してから、
数百年間はキノコの儀式は禁止されていましたが、
途絶えることなく、
伝統は密かに守り続けられていました。


シロシビンは、

摂取後は速やかに加水分解されてシロシンとなり、
腎臓・肝臓・脳・血液に分布します。
agaricuscamのシロシンシロシン

摂取量にもよりますが、
摂取後にまず悪寒や吐気、眩暈、酩酊感、しびれなどが始まり、
その後
視覚異常が現れ始め、

さらに進むと、
幻覚、幻聴、精神錯乱、混迷状態などが顕著に現れて
時間や空間の認識さえ困難となります。



ベニテングタケやテングタケに代表されるイボテン酸は、
最終的に意識が消失していく傾向にあるのに対し、

シロシビンでは
LSD様の過覚醒が発現します。

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アメリカでは、
強迫性障害や心的外傷後ストレス障害(PTSD)といった神経性の病に対するシロシビン処方の治療臨床試験が行われています。

群発性頭痛に一定の効果を得たという報告もされています。

話は戻って

コロンブスのはるか以前からずっと続いてきた「聖なるキノコ」の儀式を
1955年、はじめて"白人"の部外者ゴードン・ワッソンに授けたシャーマンは、

メキシコのマサテカ族の女性シャーマンである

マリア・サビーナです。

本名ドニャ・マリア。

地元では尊敬の念をこめてサビナ(賢女)を入れて
マリア・サビナと呼ばれていました。


マリアは、
幼少期に父親を亡くし、
幼い頃から畑仕事をして暮らしていましたが、
とても貧しく、
食べるものが無いこともよくありました。

6歳になって、
初めて聖なるキノコの集会「ベラダ」に参加しましたが、
それも食べるものがなく、
飢えをしのぐためにキノコを食べに参加したのが最初の体験でした。

その後
思春期から40歳代で二番目の夫が亡くなるまでは、
キノコの儀式にはほとんど参加出来ませんでした。

キノコの儀式に参加する前の一定準備期間は、
性行為が禁止されているからです。



マリアが再び儀式に参加した時に、
キノコの力によって
病に伏している姉の横にいる死神と会話をして、
死神から姉の病気の治療法を教えてもらい、
(死神が来るのは、死ぬ時ではなく、死から蘇る役割を持っている時です)

さらに
高次元の霊的存在から
キノコの知恵と言葉を理解する力を授けてもらった
と言います。



その力によってマリアの名声は拡がっていき、
遠くの村からもマリアの儀式に参加しにやってくるようになりました。
こうして、
マリアは日常を霊的活動に費やしました。


ある時
マリアは聖なるキノコによるビジョンで、
キノコの儀式のことを調べに誰かが彼女の元を訪ねてくることを知りました。

そして、
そのビジョンの中で彼女は、
キノコの儀式を授けるように指示されました。

それからまもなくして
ゴードンたちがマリアの元へやってきたのです。

マリアは、役場に出向き、
部会者に部族の儀式を公開する許可を求めました。

役場で、許可を得たマリアは、
ゴードンたちを儀式に招き入れたのです。


マリアから聖なるキノコを与えられたゴードンは、

色とりどりの幾何学模様や宮殿、
飾り立てた馬車を神話に出てくるような動物が引く光景
などを次々と見て、

さらに幽体離脱して外の山を見下ろして、

はるか彼方の山道をすすむラクダのキャラバンまで見ることが出来た
と記述しています。


その時の体験は、
彼の魂を根幹から揺さぶるほどの
深遠で壮麗、聖なるものであったと記録しています。

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この「聖なるキノコ」の儀式を執り行うマリアの歌声をゴードンが録音したものは
CD化されて、

彼女の死後、
シロシビンを発見した化学者アルバート・ホフマンの100歳の誕生日を記念して
2006年に再び発売されています。


心や身体に病のある人の前でマリアが歌うと、
霊が現れて、
病気の治療法などを伝えてくれたり、
キリストの霊が現れることもあったといいます。



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マリアは、

シロシビンを含むキノコの儀式について次のように述べています。


「私たちの世界には、
それを越えた次元の世界があり、
それは遠くもあり身近でもある、目に見えない世界です。

そこは神のいる世界で、
亡くなった人たちや聖人、精霊たちが住んでいます。


その世界には、時間は無く、現在も過去も未来もあり、
あらゆることが既に在り、
あらゆる知恵と知識があります。

すべてのものが一つのものとして存在します。


その世界には、独自の言葉を持っており、
私はその世界の言葉を伝える役割があります。


私は、聖なるキノコの力によって、その世界へと導かれます。


私が尋ねたことを、彼らは答えてくれます。

この旅から戻ると、私は見聞きしたことを伝えます。」



sabinameditaLIFE誌


また、
聖なるキノコ「ロス・ニーニョ・サントス」については、こうも述べています。


「ロス・ニーニョ・サントス(小さな聖者たち)は、治療する力を持っています。

熱を下げて、風邪を治し、痛みから解放します。
体から邪悪な霊気を取り出し、病気を取り除きます。」







マリアのその後


ライフ誌では、エバ・メンデスという仮名での記事にしたにも関わらず、
写真が多数掲載されたため、
すぐに本名がしられてしまいました。


マリアの存在、
そして
テオナナカトルの幻覚作用が世界に知られたことで、
多くの欧米人たちがこの地に殺到しました。


ジョン・レノン、ミック・ジャガー、ボブ・ディランなど有名人も次々とマリアのもとを訪れています。
マリアのドキュメンタリーも作られました。



マリアは、
彼女のもとを訪れた外国人を受け入れ、

シャーマンの聖なるキノコの儀式を公開しました。

しかしながら、


この聖なる儀式に敬意を払わない興味本位の人々までも訪れるようになり、
部族の人々を怒らせてしまいました。


そして

マリアの家と店は焼かれ、
マリアは村のはずれに追放されてしまいます。


マリアは
息子が殺される前に、その死と殺す相手、凶器であるナイフもすべて見通しました。


彼女は、
「ビジョンの中で、すでに事は成就されてしまった、息子に忠告しても無駄であろう」
と語っていました。

そして
息子オレリオは殺されました。




長い歴史の中で部族内だけで執り行われてきた聖なる儀式を
外部に漏らした行為が原因と言われています。

マリアは、
外の世界に知らせる時期だとのビジョンに忠実に従いました。

その結果は、マリアにとってはつらいものとなりました。




マリアはその後も、
86歳の頃に三度目の結婚をして
1985年に91歳でこの世を去るまで、
聖なるキノコの儀式を次世代に伝える活動を行い、
キノコを用いた聖なる儀式を通した精霊との交流を実践し続けました。





すべての植物には、聖なる力が宿っており、
私たちは、植物の力を決して誤用してはなりません。

植物に敬意を払い、
正しい理性の元で崇高な目的を持って利用すれば、
力を与えてくれます。

マリアは、
部族を垣根を超えて、
それを
私たちに教えてくれた貴重なシャーマンの一人です。

shindenforest.blog.jp/archives/69294565.html



うーーーん。
なんともいえないね

私はこういう経験はあまりしたくないかな↑
しらふでもある程度は見れるでしょ

その世界と繋がったり垣間見る必要があるのかって話





















Sexy Sadie, what have you done?
You made a fool of everyone
You made a fool of everyone
Sexy Sadie, oh, what have you done?

Sexy Sadie, you broke the rules
You laid it down for all to see
You laid it down for all to see
Sexy Sadie, oh, you broke the rules

One sunny day the world was waiting for the lover
She came along to turn on everyone
Sexy Sadie, the greatest of them all

Sexy Sadie, how did you know?
The world was waiting just for you
The world was waiting just for you
Sexy Sadie, oh, how did you know?

Sexy Sadie, you'll get yours yet
However big you think you are
However big you think you are
Sexy Sadie, oh, you'll get yours yet

We gave her everything we owned just to sit at her table
Just a smile would lighten everything
Sexy Sadie, she's the latest and the greatest of them all

She made a fool of everyone
Sexy Sadie

However big you think you are
Sexy Sadie







何が言いたいんだかさっぱりわかんないようなごちゃごちゃ感

でもわかる人はわかってくれるだろうなーと思う。



宗教の世界

精神世界なんてものは

実際に自分で入っていってみないとわかんないもので

でも、そんなものの本当の姿は

ちょっと瞑想してますぐらいの人にもわからず

山伏修行とか行きだしたって、すべてを教えてくれるはずもなく

どんどん先先に、奥に奥に

進んでいかないときっと何もわからない世界で

わかったときにはもう普通の人には戻れないような世界で

わかったことをぺらぺらと何にもしらない人に話してはならない世界で


知りたかったら進んでいきゃーいいけど



私はここら辺でもう十分

私の想像は書かないでおくことにする

でもそれじゃ足の痛いのが取れない気がするけど


次の墓参りの時には

いつも足痛くなり始める場所にお線香お供えするよ。

ココってとこがいまいちつかめてないけど


この話とかを住職さんにしてみてもいいかもしれないけど、

聞いてみてもいいかもしれないけど


それはやめておきましょ。



あのねーーーー



今日は久しぶりに


腐った魚の焼けたにおいがする

焼けた魚の腐ったのっていうのかどっちなのか


前にも何度かこのにおいが突然してきたことがあった


自分の部屋の中の空間から

こっちに来てははじめて。


いやーーーーー

はじめて検索してみた

やっぱそうなんだ。。。

https://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E8%85%90%E3%81%A3%E3%81%9F%E9%AD%9A%E3%81%AE%E7%84%BC%E3%81%91%E3%81%9F%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%84+%E9%9C%8A&lr=lang_ja&rlz=1I7MORJ_jaJP511&gws_rd=ssl




それとか、

部屋中が湯気だらけで煙ってるようになったときもあった


検索したことはなかったよ、、、、













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消えた一族(225)長阿比古存事代主荷の後商として居る。(仕切りなおし) [消えた一族]










長阿比古存事代主荷の後商として居る。(仕切りなおし)


長阿比古存事代主

事代主後商長阿比古


事代主(大国主ー阿部のコトシロヌシ)

長阿比古(ナガスネヒコ・アビヒコ)

蝦夷(東北・北海道はごく一部-アイヌはまた別)



信濃

列島全域(土蜘蛛、熊襲、隼人etc いわゆる朝敵)


いわゆる朝敵といわれ、鬼や蜘蛛や熊や、エタやヒニンにされたものが

先住縄文人=日本人



これを大きく分けて2期目としようか



1期目は

南方から琉球、沖縄へやってきた海(神)人族

神話的に言ったらこれがイザナギイザナミよりも前の古代王朝の人々

イザナギイザナミにこの日本を譲った
そしてアマテラスにその権利が移っていく

そのどの時にも”第六天魔王”は現れて
仏教は近づけるなと言うわけだ


第六天魔王はその古代王朝の長

魔王とかサタンとか、悪魔崇拝とかじゃなく


古代王朝の流れの一族

神話的に、神武が始めての”天皇”だとしたら

この時代にも、この古代王朝の地は婚姻と言う形で継がれていく


それは神話的に行ったらコノハナサクヤヒメのお話。


美しい姫と醜い姫

両方もらってくれたら、美しく咲き誇る花が永遠と続くように

天皇家も続くはずだったけど

美しい姫しかとらなかったので

命短く桜の花のようにはかなく散る天皇家になってしまった


この時に出てくるオオヤマツミノカミが、古代王朝の流れの一族

南方から沖永良部を経由して九州へ、そして列島に広がったんろう


神話の言う”国津神”はみな古代王朝の流れを汲む一族

出雲も熊襲も隼人も土蜘蛛も蝦夷も。


いろんなお姫様がいるけど

私が今まで=として書いてきたのは何も同一人物と言うことではなく

同一の一族が祭っていたお姫様

祭っていたお姫様って言うのが意味不明だったけど

このお姫様はみな、巫女なんだろうね

女版 事代主

神の代弁者

神話の中で、天探女が悪者扱いされてるのも

アマテラス一族を裏切って、オオクニヌシとともに彼の国を自分が治めようと
思っていたアメノワカヒコのところにアマテラス一族からの使者がやってきたわけでしょ

どういうつもりなのか問いただしにきたわけで

神話ではサグメがワカヒコをそそのかして、だまして雉を撃ち殺させたなんて書いてるけど

ワカヒコはオオクニヌシの娘を嫁にもらって国津神の国で幸せに暮らしていたし、
これからも暮らして行こうと思ってたんだから
サグメがそそのかしたりだましたりしていないわけ

返し矢は
もしワカヒコが天津を裏切って国津に着くなら、ワカヒコを射抜けといって
矢を投げ返してるんだから
キジが売れようが打たれまいが関係のない話なわけ
そもそもワカヒコは帰る気なんかなかったんだから

いちおワカヒコは天津のものだから
サグメを悪者にしたんだろう

サグメの立ち居地がいまいちよくわかんないけど

巫女一族って言うのがまた別にあるんだとすれば
”炎立つ”の中に出てきてた物部の吉次一族みたいな存在なんだね
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%82%8E%E7%AB%8B%E3%81%A4_(NHK%E5%A4%A7%E6%B2%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E)



さて、そのサグメを祭って移動したのが
うちの父方のお母さんの家系なのですよ。


昨日のお墓参りに行って、

あーやっぱりか、、って思ったのは


毎回バスを降りてしばらくするとすぐに左足がものすごく痛くなるの

こっちに引っ越してきてお墓参りにいくようになってから気がついたんだけどね

家からバスで30分かからないところ

家からバス停まで歩いて7分くらい

バスに乗ったら座るでしょ

で、バスを降りて数十秒のコンビニに行く頃にはもう足が痛み出してる

で、お墓まではそこから3分くらい

お墓に着くと足がいたいのは気になってない

草むしりをして回りを掃いて、お水をかけて、お花を上げて線香炊いて手を合わせて

周辺片付けて、さあ、帰ろう!

で、またさっきのコンビニのあたりにつく頃

時間をみると大体次のバスがくるまで1時間半~2時間くらいの

中途半端な時間が余るのね

なのでいつも、お墓参りの後には氏神様のところによるわけ

じゃ、さぐめさんのところにいきますかって歩き始めると、神社につく頃にはもう

特に左足の足首、かかとヒザ、足の付け根が痛くなってるのよ

ほんの15分くらい歩いただけで

私にとってこれは非常におかしなことなの

私は歩けば何時間でも歩いていられる人なのよ

この下の地図の赤い点線が全部徒歩移動
キックボードなし

時間にしたら5時間、もっと歩いてるかも

私のたびはいつもこんな感じだから
だからいつも一人で行くんだよ。

大体いやでしょ、こんなに歩くの。


13015463_699735650129574_243566473282526524_n.jpg



前回の墓参りのときも墓参り終わってコンビに来る頃にはもう激痛だったから

今回はキックボード持参だよ

17021731_898999286869875_1447856992115945135_n.jpg


さぐめさんから徒歩15分位の距離のところにある河内さんにもいってみようと思っていたからね

キックボード少し乗ったけど

あまりにも静かなところで人っ子一人歩いてないし

悪いけど気持ち悪くなってきてしまって

静かに歩いた

そこらへんの人に出会いたくないなと思って

16865021_898999300203207_1207201075482013693_n.jpg


いってみたけど結局祭神もわからず

ただ川の内側にあった


川と山の間ね

反対側が道路と人家

水神さんであることは間違いないね

帰ってきてから再度調べても、はじめに調べた以上の事はわかんなかった


そこから戻る頃にはもうすごく気持ち悪くて

左足も激痛で

やっぱこれはおかしいわって思って

その時感じたもんでいろいろ調べて書いたのが

昨日の機織淵の記事


人柱の伝説はひとつあるんだけど

人柱とも違う気がして

でもそれはまだちょっとよくわかんない

でもでも、あの体の異常は異常で

もう帰ろうってバス停に行ってひょっとした瞬間に、
それまで激痛で足が抜けそうだったのがしゅっとなくなるの


それはありえない

それもいつもそうなの


もうーーーー痛い!!!だめだ、、もう帰るぞ!ってなると取れるの


私昨日はね、さぐめさんの場所があるところ的には人柱かなって思ったんだけど

川の氾濫洪水のための人柱かなって思ったんだけど

ちょっともうちょっと違う感じなのかも

でもそれは私にはわかんないし、

きっと調べるのもちょっと大変そう

もっと呪術的な

密教とか山伏のなんとかとか、もうーちょっと一般人にはわからない世界のもんかも



このブログかその前の頃からかな

わたし

この一族を


” 物部のサグメ ”

、、、とでもいいましょうかって書いたことがあるけど


ビンゴだったみたいだね、、、



ヌナカワヒメをお祭りしているところにもいる我が家の名前

ニュウツヒメをお祭りしているところにもある我が家の名前

そして

サグメとともに美濃からやってきた私の父のお母さん


この地図を見てもらって
https://www.google.co.jp/maps/place/%E6%96%B0%E6%BD%9F%E7%9C%8C%E7%B3%B8%E9%AD%9A%E5%B7%9D%E5%B8%82/@37.0492956,137.9132462,15z/data=!4m5!3m4!1s0x5ff64455a24e1d77:0xb78ccca35fe01e51!8m2!3d37.0390282!4d137.8626522?hl=ja



梶屋敷

金山<< 金山彦 吉次一族と同じ金山、
でもココでは主に、鉄、水銀だったと思う、金も出たか調べたことはナイ

西谷<<ニシタニ サイダニ サイダニは斎谷 祭谷 神の谷 神谷は”ミダニ” = ”三谷”


そしてココには 四ツ屋もあるのよね

父と母が出会うきっかけとなる、両家のつてがある四谷

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


ニュウツヒメ神社のあるところにも”三谷”


そしてさぐめさんのいるところには

才野 サイノ サイヤ 斎野 祭野 神の野 神野は”ミヤ”  =”三谷”


うちの父の語呂合わせ好きには呆れてたけど
こんなところで、役に立ってるのよ。。。




私にはおばあちゃんなんだけど、会ったことがないのだよ

私が生まれる前にはなくなってしまってるからね

父が19歳くらいの頃には両親ともになくなってる

父からおじいちゃんおばあちゃんの話を聞いたこともないのだよ


さて、このおばあちゃんの家の本家が

”中村”

だと思うんだよね。


中村

ナカムラ

ナカのムラ

確かに墓の同じエリアには

中 と言う地名があるよ

中村だよ。


血の繋がらないおじいちゃんは大阪難波からやってきてるんだけど

親戚関係でもなんでもないと思うんだけど

この墓周辺の地域には

なぜか血の繋がらないおじいさんと同じ名前が点在しているの

その中の一軒は裏山に八坂さんをお祭りしてる。

これと同じパターンは田辺にもあり


そうだよねーーーー、、、あの変墓はないよね

神社ってお線香たかないよね

寺はあるから風向きだったのかなーーー

それにしてものすごい線香の香りがして

その香りのする方面に歩いて行って

同じ名前の家を見つけ

線香の匂いがするから、もしや裏に八坂さんがあったりしてってその時は思ったんだけど

神社は線香たかないじゃん

で、とにかくその家の裏に当たるところへ歩いてみたらビンゴで八坂さんがあったの


それと同じような感覚で、

同じく田辺で


鳥居さんと言う家を見つけて

鳥居さんか、じゃなんかこの辺にもあるのか?

って思って反対側の曲がり角の先を見たら

大本教田辺分社があったの


なんで鳥居さんに反応したかと言うと

実家の私道の入り口にあるお家が鳥居さんなの


ただそんだけなんだけど

今思い出すと

大昔あそこに小さな神社があったのかもしれない

そんな気もしないでもない


だからなんか私ピンクがかった朱色の店にしたのかもしれない


古地図を調べてみよう


うちの父が戦後東京に出てきて不動産屋になって

いつもいつも古地図を眺めてた理由もそういうことかもしれない


ちょっといたっんUPします。


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藤原三代とは、

藤原清衡、基衡、秀衡の三代であり、

実は、大和朝廷の東北侵略に対して戦った、

先住日本人・縄文人(蝦夷)の酋長・アテルイ、

そして、その子孫の、

阿部氏の親族なのである。

つまり、京都朝廷・弥生人の藤原氏とは全く違う。



http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Forest/4179/texta35.html

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%86%E3%83%AB%E3%82%A4" target="_blank">https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%86%E3%83%AB%E3%82%A4




「阿弖流爲」「阿弖利爲」



「阿弖 流爲」 「阿弖 利爲」



阿弖


弖>>>>>>「テ」と訓みテニヲハのテの義とす

ans-78474317.png











slow_1_good_2_byeさん

2014/3/2402:58:10
.

紀伊国阿氐河荘民の訴状の全文


阿テ河ノ上村百姓ラツゝシテ言上
ヲンサイモクノコト(御材木を納めることが遅れていることにつきましては)、アルイワ チトウ ノキヤウシヤウ、アルイワチカフトマウシ、カクノコトクノ人フヲ、チトウノカタエせメツカワレ候ヘハ、ヲ(テ)マヒマ候ワス候。ソノゝコリ、ワツカニモレノコリテ候人フヲ、サイモクノヤマイタシエ、イテタテ候エハ、テウマウ(逃亡)ノアト(跡)ノムキマケ(麦蒔)ト候テ、ヲイモトシ(追戻)候イヌ。ヲレラ(俺ら)カコノムキマカヌモノナラハ、メコトモ(妻子供)ヲヲイコメ(追込)、ミミヲキリ、ハナヲソキ、カミヲキリテ、アマニナシテ、ナワ・ホタシヲウチテ、サエナマント候ウテ、せメせンカウセラレ候アイタ、ヲンサイモクイヨイヨ、ヲソナワリ候イヌ。ソノウエ百姓ノサイケイチウ、チトウトノエコホチトリ候イヌ。



領主に納めるべき材木のことについて、地頭が様々な仕事を私たち農民にさせようとするので、材木を切り出しに行く時間がありません。私たちが、村に残ったわずかな人手で材木を切り出しに行こうとすると、地頭は『逃亡した百姓の畑に麦を蒔け。さもなければ、おまえらの妻や子どもたちを捕らえて牢に入れ、耳を切り、鼻を削ぎ、髪を切って尼のようにし、縄で縛って拷問するぞ』と脅すので、材木の納入はますます遅れてしまいます。





阿氐河荘 あてがわのしょう


紀伊国有田(ありだ)川の上流に位置する山間の荘園(しょうえん)(和歌山県有田郡有田川町)。阿弖川荘、阿瀬川荘とも書く。10世紀末には石垣上荘(いしがきかみのしょう)ともいわれた。中納言(ちゅうなごん)平惟仲(これなか)が1001年(長保3)に京都の白川寺喜多院(寂楽寺(じゃくらくじ))にこの荘園を寄進した。12世紀なかば以降、領有をめぐって寂楽寺と高野山(こうやさん)が争っている。1210年(承元4)御家人湯浅氏が地頭職(じとうしき)に補任され、以後、寂楽寺(本家職は円満院)、高野山、湯浅氏の三つどもえの争いが展開する。1275年(建治1)の有名なかたかな書きの百姓申状は、寂楽寺と地頭との争いのなかで、『貞永(じょうえい)式目』の注釈書『唯浄裏書(ゆいじょううらがき)』の作者で寂楽寺雑掌(ざっしょう)斎藤唯浄が書かせたものである。阿河荘は上、下からなり、12世紀には田地計100余町である。1304年(嘉元2)円満院は領主権を高野山に譲ったが、湯浅氏と高野山の争いはなお続いた。[仲村 研]
『仲村研編『紀伊国阿河荘史料 1、2』(1976、1978・吉川弘文館)』
[参照項目] | 百姓申状


湯浅一族のなかでは,保田,石垣,阿氐河氏などに分化した宗光の系統が有力で,惣領家に匹敵する勢力を有していた時期もある。なお〈ミミヲキリ,ハナヲソギ,カミヲキリテアマニナシテ……〉と百姓を威嚇した阿氐河荘上村の地頭は,宗光の孫の宗親である。文覚,行慈のもとで出家し,高山寺の開山となった明恵(みようえ)も母が宗重の娘で,幼少より湯浅一族に養育され,しばしば在田郡に下向し,郡内の各地で修行した。…




阿氐河氏


湯浅宗親(ゆあさ むねちか、生没年未詳)は、鎌倉時代後期の武士・御家人。

紀伊国阿氐河荘[1]の地頭となった人物で、

日本中世史研究において著名な『紀伊国阿弖河荘百姓訴状』上で

訴えられた当時の地頭その人である。

祖父の宗光、父の宗氏についても本項で触れる。



https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E6%B5%85%E5%AE%97%E8%A6%AA



紀伊国 阿氐 河上荘



阿氐

阿氏




アテルイ

アテ ルイ

アテ

ate

ape

abe



keep searching



縄文人・阿部氏の棟梁
であった、阿部貞任の子孫は青森に逃げていた。
彼らは「安東(あんどう)氏」と名乗り、そこでまた、じゅうさんこ
見事な交易国家を築くのである。
 津軽半島に、十三湖(じゅうさんこ)というのがある。
そこは当時、まだ海と繋がっていて、その入り口に
港湾都市を築いたのである。名前を「十三湊(とさみなと)」
という。今となっては、伝説の港町である。
 さかんに船が出入りして、ずいぶん広範囲に貿易を
行なったらしい。ところが、台風と洪水で消失してしまった。
今でもかすかな遺構はあるが、確かな記録はほとんどない。
 現在、その十三湖は東北最大のしじみの産地である。
そこで取れるしじみは並みの大きさではない。
アサリくらいある。仙台のスーパーで、それを初めて
見た時、ビックリして、10分くらい眺めていた。

十三湊を失った縄文人・安東氏は、南北に別れる。
南へ土地を変えた安東氏は「秋田氏」と名乗る。
北の一派は北海道へ渡る。北海道にはアイヌがいた。
しばらくは、アイヌと協調して暮らしていたが、ある時、
アイヌとの間に戦争が起きる。「コシャマインの乱」である。
アイヌが負け、北・安東氏は江戸幕府から認められて、
「松前氏」となった。北海道・松前藩の誕生である。ねぶた

一方の秋田氏も江戸幕府の配下となり
大名として認められたが、すぐに千葉県に移封された。
 秋田氏は、大名として江戸時代を生き抜き、
明治維新により、子爵として貴族になった。
 ただ、おもしろいのは、江戸時代の大名は、
ほとんどが、先祖を天皇家の末裔として無理矢理、
家系を捏造するのが当たり前だったにかかわらず、
この秋田氏だけは、かたくなに、国津神のナガスネヒコ
を先祖としている。つまり、大和朝廷の天皇家に
敵対した縄文人(蝦夷)の血統であり、近くは
阿部貞任の子孫であると称しているのである。
そういう大名を貴族にしてもいいもんか、と
明治政府でも意見が出たが、まあ見逃しておけ
ということになったらしい。

日本の歴史は、弥生文化と、大和朝廷ばかりで
語られがちであり、ゆえに東北にはたいした歴史はない
と見られがちだが、どっこい、
先住民族・縄文人の歴史が色濃いのである。

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Forest/4179/index.html


蝦夷とアイヌは別物

北海道=蝦夷

、、、ではない。

http://heartland.geocities.jp/sekakumo/ronbun200702_02



北海道と呼ばれるようになったのは1869(明治2)年のことであり、それ以前は長らく「蝦夷地」と呼ばれていた。蝦夷地に和人が住みはじめたのは13世紀頃といわれており、鎌倉幕府によってこの地に流されてきた人々が住み着いたのが最初だといわれている。室町時代に入ると、渡島半島の南端に「館(たて)」と呼ばれる和人の砦がいくつか建設されており、15世紀になると1457年に起きたコシャマインの戦いのように、和人と先住民族であるアイヌの人びととの間で戦乱も起きている(1)。コシャマインの戦いは当初、アイヌ軍側が一方的に有利であったが、当時蠣崎(かきざき)氏の食客であった武田信広がこの戦いを制したことで、蠣崎氏は蝦夷地の和人勢力の中で抜きん出た立場となった。武田信広はこののち蠣崎氏に養子に入り、のちの松前氏の祖となっている。そして16世紀後半に入ると、蠣崎慶広は豊臣秀吉に接近しアイヌの人びととの交易権を独占するお墨付きを得た。慶広は1599(慶長4)年には徳川家康に接近して松前氏に姓を改め、ここに事実上松前藩が成立し幕藩大名の一員となっている(2)。

松前藩成立後も、長い間蝦夷地で和人が居住していたのは「松前地」または「和人地」と呼ばれる松前を中心とする道南のごく狭い地域のみであった。その他の大部分の地域は、「西蝦夷地」と「東蝦夷地」に分けられ(図2)、いずれもアイヌの人びとの住む大地であり、和人の居住は禁じられていた。

http://heartland.geocities.jp/sekakumo/ronbun200702_02





榊は語りかけてるー先住ナグサ・ニシキ(=ニウツヒメ)
http://escapejama.blog.so-net.ne.jp/2015-02-14



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消えた一族(224)長阿比古存事代主荷の後商として居る。 [消えた一族]

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長阿比古存事代主荷の後商として居る。




いやいや、、、そうじゃなくて。。。。

まあちょっと休憩ってことでね






本作に出てくる大蛇は現地のヘビ族という部族から「ナガ」と呼ばれる守り神で、
最初はドラゴンのような顔した巨大な蛇かと思わせといて、
それはいくつかあるうちの顔のひとつだったという、
ヤマタノオロチみたいな姿だったのが新鮮でした。

話の流れはこうゆう作品としては普通です

300年は生きていたであろう、原住民のミイラ(アマゾンマン)を発見

製薬会社はその秘密を探る為、

原住民のいるジャングル奥地へ探索隊を派遣

必ず遅れて専門家チームが現地に到着

先発隊が見るも無残な姿になっていて・・

それは、原住民たちが神とあがめる大蛇、「ナガ」の仕業であった

そして専門家の中のセクシー美女博士が原住民にさらわれ

助けに行った男たちも捕まります

捕虜になった主人公たちは、ナガの洞窟に連れて行かれ

何故か、泉で洗礼を受けます

(この洗礼を受けると、ナガに襲われなくないます)

実は、この泉の水こそ不老不死の薬なのです

泉の水にナガの体液が混じって奇跡の水になったのです

原住民たちは、前代の長であるアマゾンマンを返せば、全員を解放すると約束

製薬会社役員たちは、その条件を飲むと言いながら

討伐チームを現地に送ります

さてここから、討伐チーム対ナガの一方的な戦いが始まります



http://ameblo.jp/hitomi-1981/entry-10611769175.html


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長阿比古存事代主荷の後商として居る。



続きは明日します。

今日はギブです、、、




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消えた一族(223) 機織淵 十九渕 九十九渕 葛渕 [消えた一族]






機織淵 十九渕 九十九渕 葛渕


はたおりはつづらおりのたぺすとりー


マイケルも言ってた



たぺすとりーのようにおりこむんだ



similar


印象的に使ってた。。。。。。


とっても印象に残っている


http://eow.alc.co.jp/search?q=similar+to

similar to
《be ~》~と似ている、~と同じようである、~と同類である

similar to ~ except that
《be ~》〔that以下〕という点[こと]を除けば~と似ている

similar to ~ in a number of ways
《be ~》多くの点で~に似て[類似して]いる、~と似た[類似した]点が多い

similar to ~ in appearance
《be ~》外観上~と類似している

similar to ~ in many respects
《be ~》多くの点で~に似ている[類似している]

similar to ~ in many ways
《be ~》多くの点で~に類似している

similar to ~ in morphology
《be ~》形態が[形態学的に]~に似ている[類似している]

similar to ~ in some way
《be ~》~とどこかしら似ている

similar to ~ in that
《be ~》〔that以下〕という点で~に似ている








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やっとお墓まいり

お墓の草むしりしてたら出て来たよ。
土蜘蛛って感じ




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ほら、足痛い。まだ30分くらいしか歩いてないのに、しかも、気持ち悪いし



あれかなー、御祭神と言いつつ、、


ビンゴかもな


そう。、いつも、左足だ


お、急に痛いの取れた



ビンゴってことだね。




サムッ


超グットタイミング?雨降って来たと同時にバス来た

朝まで雨マーク出てなかったから来たのに(´-`).。oO













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機織淵


【機織淵伝説】研究発表、機織淵の伝説
 関敬吾氏発表

水の神に処女を犠牲にする伝説は、アルタイ民族にもあつて、
水の主に犠牲にすることが見える。
ドイツでもワツサガイサといふ名で行はれ、やはり人間を犠牲にするのであるが、
日本のは、その内容が複雑である。
水の神に処女を犠牲にするのは何故か。
日本の水の信仰が他民族とどう違ふかを前提とし


【水の神の性格】


1
水の神の性格が何であるかといふことがこの問題の終局の目的である。
但日本は農耕国であり、稲作の国であるからだが、非稲作民族とどう違ふか

2
河童や蛇などが水の神そのものであるか、又は属性であるか。

3
龍宮の信仰と、陸上の水の神との関係

4
ハナタレ小僧など人間の形態をとつてくる水の信仰

5
水の神が何故祭の奉仕者として処女を必要としたか。
神の奉仕者に処女を必要とした事は勿論であるが、機織姫を何故必要としたのか。

6
水の神は人間にとつて一体敵対的な神か、好意を持つ神か、
更に人間の如何なる態度に於て好意であり悪意であるか。
かうした事を先づ本問題についての疑問として提出しておく。




【伝説ノモーチフ】さて、この伝説は次の内容による系統に分れる。



水底に機織る音を聞く話としての系統
遠野物語、秋田、北佐久、南佐久、岐阜、愛知、静岡高知の諸例。
これは最初の発生的形態であつたか、又は信仰の失はれた残存形態か。


音のしてゐる水の中に入つていく話の系統
斧渕、斧を落して入つてゆくと水底で女が機を織つてゐた
岩手のまないた渕、下閉伊、福島石城のゴゼ渕、茨城斧渕
水の神は鉄分が嫌ひだといひ乍らこの話では斧を無事にとりかへしてくる。



入水シタ結果、水底デ機織ヲスル
宮城、若狭。
千葉県長生郡と長野の例では嫁が姑にいぢめられて入水し水底で機を織る話になつてゐる。


機を織つた女が沼の傍で小便をした為に陥ちる。


人柱となる系統。水害の為に困つて神意を伺ふと機のオサを持つた女を犠牲にせよといふ。
   
愛知、五月一日、滋賀の夜叉御前かうした各種系統によつて次の仮説が考へられる。


もと巫女の類で小屋で機織具(ヲサなど)を作つたものがあること。


座頭やゴゼなどが人柱に関係してゐる。


この伝説の伝播に巫女、座頭、ゴゼが介在したのではないか。
尼ヶ渕などの例があり、又三味線渕といつて三味線をもつて渕に飛込む伝説がある。
 
又音渕といつて座頭が渕に陥ちて池の中で琵琶を鳴らすといふ話もある。
【発生過程】この伝説の発生の過程として、

1 ?機織女を人柱にした形式↓
2 ?水の神に引込まれた、又は女自身より入水した↓
3 ?斧淵系↓
4 ?機の音をきく


【巫女の関与】

ここで問題になるのは、水の中に女を入れた媒介者に巫女があること、
堰神様に巫女の嫌はれた婿がなる話│遠野物語│などがある。
とにかくこの機織渕の伝説も日本の水の信仰の一つの話ではないか、と思ふ。
     

質疑、


犠牲といふものは殺されなければならなかつたか。


海岸にこの伝説の分布がないか、(少いやうだ)


水蜘蛛伝説との関係がないか。(水蜘蛛も水の神の具象だらう)
     

批評(○ハ柳田先生の発言)
【伝説分類の目的】○方法論の問題だが、何を知る為に分類するかをきめねばならない。
【機織は女房の仕事】○機織は女房の仕事ではないか。既に水の神に嫁してゐることだらう。
沖縄できいた話で、宮古島の例だが、
官人の妾になる女が家の前で機を織つて人目につくやうにしてゐる。

○食物も衣服も夫のものは女房が作ることであつた。

伊勢の忌服殿
イミハタドノは、祭の前に神の衣裳を織る。これは水との関係はないか。
【水の神は男】○この話の場合は水の神は男性である。蛇婿入も同様に
嫁ぐのは女である。海の龍宮は女であるが、これは日本の話の場合は主




人柱(ひとばしら)になった彦五郎

出典:上富田町史史料編下

発行:上富田町


昔はない、富田川(とんだがわ)はよう大水出て、そのたんびに田んぼや畑が流されてん。ほいでに村の人は、大雨にも崩れんしっかりした堤防ほしなあて思やってん。ある年もまた大水出てない、人も馬も流されて死ぬし、田んぼも畑も埋まってしまうような目におうたんで、もう、今度こそしっかりした堤防ほしいちゅうんで、氏神(うじがみ)さんにまいってお願いしてん。ほいたら夢枕(ゆめまくら)に神さんが現れて「堤防に人柱を立てよ。そいたら堤防は安全や」て言うてんとう。人柱ちゅうのは、神さんの心を慰(なぐさ)むるちゅうて、生けったある人を土の中に埋めることやぜ。

さあ、いったいだいを人柱にしようかて、村の人は何べんも寄り合いしてんけど、なかなか決まらなんでん。ほいたら、その場にいた彦五郎はんがさって立ち上がって「こんがに相談しても人がないんやったら、わしに考えあるんやけど、言うてもええか」て言うてんとう。村の人は、日ごろ無口な彦五郎が、急に大きな声でしゃべり出いたんでびっくりしてそっち見たら、不精(ぶしょう)ひげいっぱい生やいた顔を、赤茶けた手拭(てぬぐい)の端で拭きもて「わしが思うに、あがから人柱になりたいていう人らおらんやろ。ほいで、この場で、着物のつぎが横継ぎにあたったある人あったら、その人に人柱になってもらおやないか」て言うんや。

村の人ら、なっとうしょうかてよわりこんだあったもんやさか、そいはええ考えやちゅうて、みんなお互いの着物のつぎ見せおうてんとう。ほいたら、なんとまあ、言い出いた彦五郎はんの着物に大きな横継ぎのつぎが当たったあってんとう。ほいで、とうとう彦五郎はんが人柱になってん。

そいからこっち、富田川の堤防はどんがにえらい雨降っても切れんようになってんとう。
その堤防は今も彦五郎土手ちゅうんや。ほいから彦さんと五郎さんのおとついやったていう人もあら。





彦五郎堤と富田川土手普請

 富田川右岸の朝来、生馬、岩田の旧三村が接するあたりの堤防を「彦五郎提」(近年は彦五郎堤防)と呼び、町民はもちろん、町外の人々にもよく知られている。富田川は、このあたりで堤防がよく決壊して田畑の流失を繰りかえしたので、彦五郎という一人の農民(彦蔵と五郎の二人という説もある)が人柱となった。堤防に人柱を埋めてからは、どんな大水にも堤防は切れず、人々の安全を守ったという悲しい話が伝承されている。

人柱伝承の記念碑

人柱伝承の記念碑


 いつの頃からか語り伝えられてきた話であるが、史料的にこれを裏づけるものは残念ながら何も発見されていない。上田萬一は、『上富田文化財』第四号(昭和四一年刊)で元生馬村々長木村慎の文章を引用して、「当地方に伝わる彦五郎の伝説・・」と書き、史実ではなく伝説としている。とはいえ、人柱の恐しい風習がほんとうにあったのかどうかは、たいへん興味深い話であり、また、尊い命を犠牲にして洪水を守ったという話は人々の感動を呼び、民衆の心を強くうって伝承されていく可能性があることは十分に考えられる。

 ところで、各地に残っている人柱伝説の共通性は、人柱になる人物は人柱の人選のとき最初に発言した人であることと、着ている着物の柄が縞模様(たて縞であったり横縞であったりする)が関係しているといわれ、彦五郎堤の場合もその例外ではない。

 そうしたことから、彦五郎の話は忠実ではなく、伝説であると認めながらも、その伝説が生れてくるには、何か証拠になる話があるのではないかと考えたくなるのは当然のことである。

 彦五郎堤の築造についても、木村慎は、慶安四年(一六五一)の村の評議による修築としている。また、『明治以前日本土木史』は承応二年(一六五三)として、ともに一七世紀中ごろの築造を主張している。しかし、残念ながら両説ともその出典を明らかにしていない。

 一七世紀中ごろ、徳川幕府の奨励によって、未墾地の開発が全国的に盛んにおこなわれた。そのため、流路が変わったり、遊水地がなくなったりして、河川の氾濫が各地で発生し、被害が続出しているが、治水工事が盛んにおこなわれたことに関連づけた年代推定と考えられる。

 廣本満(上富田町史専門委員)の分析によると、たしかに田辺領全体の新田の傾向は、元禄期までほとんど開発し尽され、それ以後は停滞状態にあった。大規模な新田開発は、田辺組の湊村や新庄村にみられるが、岩田村、鮎川村、市ノ瀬村、生馬村もこれについで新田開発の面積の多い村である。したがって、富田川の河川敷や川沿いの荒地の開墾がおこなわれたことは事実であろう。しかしながら、これをもってしても、彦五郎堤の築造年次を解くための証拠にしては少し薄弱であるといわなければならない。

 以上のように、彦五郎堤について、文献史料で裏づけることはできないが、毎年のごとく襲ってくる富田川の洪水に苦しんでいるだけに、身を投げ出して村を守った話は、たいへん身近に感じる話であり、修築工事中に発生した事故などによって命を落した人の話なども付け加えられながら語り継がれてきたのかも知れない。


http://www.town.kamitonda.wakayama.jp/kami50y/kami50y09002.html

http://www.town.kamitonda.wakayama.jp/kami50y/kami50y.html



水神の池や淵に牛馬の首など不浄のものを投げ込む、あるいは汚物を洗う。
http://jtsuruki.blogspot.jp/2015_11_23_archive.html

http://www.diycc.info/taki/n/n121_129.htm




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若一王子(にゃくいちおうじ)は、神仏習合の神である。若王子(にゃくおうじ)ともいう。

熊野三山に祀られる熊野十二所権現は三所権現・五所王子・四所明神に分けられ、若一王子は五所王子の第一位である。若一王子の本地仏は十一面観音で、天照大神あるいは瓊々杵尊と同一視された。熊野本宮大社・熊野速玉大社では第4殿、熊野那智大社では第5殿に祀られる(いずれも、現在は「若宮」と称し、天照大神のこととしている)。

熊野信仰が日本各地に広まるにつれ、熊野権現が各地に勧請されたが、若一王子のみを勧請する場合も多かった。神仏分離に伴い、「若一王子」を天照大神や瓊々杵尊に変えた所も多いが、
従前のまま「若一王子」として祀っている神社もある。
東京都北区の王子神社。
長野県大町市の若一王子神社。紀伊国より勧請。
和歌山県田辺市の神社。現存せず、若一王子権現碑が跡地にある。
和歌山県西牟婁郡すさみ町の周参見王子神社の古名「若一王子権現社」。
静岡県藤枝市若王子若一王子神社の社叢


::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::









行きたくないなと感じるのもそういうことか。
で、仮にビンゴだとして、
私はそれを受け入れられるかな、、
そんなような内容を昨日か一昨日
ブログに書いたばかりではあるのだけれど、、、、、
夕べ河内に気がついてちょっと調べてみた結果も痕跡ありだし
私はそれを受け入れられるかな




ちょっと今日はもうギブです、、、


FBにいろいろどんどん投稿したけど

なにがなにやら、、、、


だけど、確実に刷り込み洗脳が解け始め

だんだん、整理はついていくんだろうな、、、


さっきまで体中痛かったけど、いま少し楽


ちょっといったんスイッチオフだ。



なーんもおかしなことじゃないのに

それとそれ?

そんなわけないじゃーんっておもいこまされてる




でも今日


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だよね、、、、って思ったよね。。



左足がすぐにものすごく痛くなる理由はわからないけど

なんとなくそれかな?っていうのは見えてきたけど


まだ未確認段階

それもすごいスパイラル階段だし

もうひとつ気づいた方も

とんでもないスパイラル階段だし



ま、またあとで。。。



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消えた一族(222)阿部お任せコース状態 [消えた一族]

調べてることは違うことなのに

勝手に阿部お任せコースになってる

お任せコースの時はお任せしておくだけでいい

お任せの波に乗ってるうちに頭痛もなくなるんだ。


このページではお任せじゃなくて、ちゃんと自分で調べてることを書きたいけど

今日は一日お任せコースなのかな、、、


ええと、、

あんまりこういうことを認めたくない

受け入れたくない

阿保スピリチュアルな人みたいなこといいたくない

私ずーーーーーーーーーっとそういの拒絶してきてるのよ


前世が巫女だ


阿保か

あんたのどこが巫女だ

なにがわかってるっていうんだい?

みたいにね



私はなんにもわかってはいない


こうやって書いていても

すべてわかってない


本当にそういう力のある人なら


すべてお見通しのはずで


セオリツヒメ様からのお言葉です、

とかいわないはずなんだ

コノハナサクヤヒメ様からのお言葉です、

とかな。。。


本当にそういう力がある人なら


もっと違うと思うんだ。




ちょっとお任せコースから外れるためにいったん落ち着きます。

















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消えた一族(221)神旅もとい、、、、、、阿部氏怨念旅? [消えた一族]

今、220の続きで調べててですね

驚愕の再確認ですよ、、、、

びっくり、、、、、


[爆弾]
[むかっ(怒り)]
[バッド(下向き矢印)]


はっ。。。。

ちゃんと行ってたし、、、

https://www.google.co.jp/maps/place/%E5%BC%95%E7%94%B0%E9%A7%85/@34.2275618,134.3994732,15z/data=!4m12!1m6!3m5!1s0x3553762dfb27bae7:0x97d26fa525f71223!2z77yI5qCq77yJ5p2x6K6D6Zu75qmf5bel5qWt!8m2!3d34.222115!4d134.408185!3m4!1s0x355376297d8105cf:0x8c4f47bb3b00f8c2!8m2!3d34.2244532!4d134.4021571?hl=ja




ひぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ




しかも、ココへ行く筈じゃなかったのに、

目的地の白鳥で思った以上に時間を使ってしまって

ちゃんとチェックしてた時間の電車に乗れず、

次に来た電車がこの駅どまりで、
(この電車を逃したら次に目的地に行ける電車どころか次の電車が確か2時間後とかだったの)

この駅に行ったほうがいいのかすごく迷ったけど、

ココどまりということは

ココからバスが出てたりするかなと踏んで、

この駅に向かって、駅を飛び出し、

バス停を探そうと思って、

通りをとりあえず行きたい方向に渡り、




アーーバス停ダーーー!!っとうしろを振り返ったら、




行きたいところへ向かうバスがやってきてたという。。

その日も神旅!!!!とかいってはしゃいでたけど、

今更またやっぱ神旅!!!

というか、、、

やっぱ、、、

のろい?

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
アルバム
ちょうど1年前の2月に行ってるんだね、、、、


この時も半端じゃない移動距離
和歌山の吉備のニュウツヒメ&シラヤマヒメ
ニュウツヒメ神社へ行って裏山に登ってシラヤマサンへ
徒歩で来た道を戻り、急いで大阪へ
大阪からバス?で高松へ
夜10過ぎについて高松に1泊
早朝から起きて、本場讃岐うどんを食べて、
周辺ちゃちゃっと観光
電車で、白山&白鳥へ
白山ではなんとびっくりのどでかい富士塚に遭遇
麓の白山でお参りをしてから登山
山としては小さい山
白山から白鳥へ
途中神旅体験をし、するするとうまい具合に進む。
海沿いをバスで揺られ
阿波、大麻比古神社へ。
また山のぼりすっかーーー!!って思ったけど
猿が多すぎて断念
四国お遍路さんの寺をちょろっと見て回り
高速バスで大阪へ戻る

https://www.facebook.com/media/set/?set=a.674602242642915.1073741866.100002794355533&type=1&l=940808a95f
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::




ややややや、、

今改めてグーグル旅行してみると、

私がバス停だと思っていたところはタクシー会社だ、、、

なぜバスが止まったのか? 

確かに運転手さんは、バス停はこっちじゃないけどっていったけど、

私は方向がこっちじゃないって意味かと思ってた、、、 


https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92769-2901+%E9%A6%99%E5%B7%9D%E7%9C%8C%E6%9D%B1%E3%81%8B%E3%81%8C%E3%82%8F%E5%B8%82%E5%BC%95%E7%94%B0%E5%A4%A7%E9%81%93%E4%B8%89%E4%B8%81%E7%9B%AE/@34.2247721,134.4022864,3a,90y,340.79h,78.66t/data=!3m7!1e1!3m5!1saS9P86MnjAJl7yCQDmfXuQ!2e0!6s%2F%2Fgeo0.ggpht.com%2Fcbk%3Fpanoid%3DaS9P86MnjAJl7yCQDmfXuQ%26output%3Dthumbnail%26cb_client%3Dmaps_sv.tactile.gps%26thumb%3D2%26w%3D203%26h%3D100%26yaw%3D138.36232%26pitch%3D0%26thumbfov%3D100!7i13312!8i6656!4m12!1m6!3m5!1s0x3553762dfb27bae7:0x97d26fa525f71223!2z77yI5qCq77yJ5p2x6K6D6Zu75qmf5bel5qWt!8m2!3d34.222115!4d134.408185!3m4!1s0x3553762a1993bfb9:0x8dc795027e36300!8m2!3d34.2257999!4d134.4002252!6m1!1e1?hl=ja





どうやらわざわざ慌てて通りを渡ることもなかったようで、

でもわたしたしかに時刻表みたいなの見てた気がしたんだけどな、、、



大道 中道 阿波

蛭子神社、お亀大明神 、、、、、 


お亀大明神って、、、


ぷぷぷぷ、、、


またちんこ神か~~~


あん?


ここらいったいも阿部一族の地でした♪



しかもこの先の駅は 

”讃岐相生”






東かがわ市|引田町|大内町|白鳥町

https://www.higashikagawa.jp/itwinfo/i661/



引田町(ひけたちょう)


 引田の名の由来については、過去の4つの説がある。


・坂出鎌田共済会の岡田唯吉の持論
・『八幡宮御伝書紀』による解釈
・字義的な解釈
・猪熊信男の恩頼堂一家言説



坂出鎌田共済会の岡田唯吉の持論

 大正12年3月、城山・安戸池を含む国立公園指定地の申請とともに町内有志をもって「城山保勝会」が設立され、町をあげての観光開発の運動がおこった。

その際、香川県で、古代史並びに考古学研究の第一人者として著名な岡田唯吉に起稿を依頼した。

同氏は当町に泊まり込みで、城山・安戸池をはじめ町内各所を詳細に調べ 歩き、
その結果を「史蹟名勝天然記念物調査報告」(大正13年発刊)として発表した。


 氏はその項で

「誉田八幡宮勧請以前、この宮は引田神社と唱え、

孝元天皇の皇子大彦命を祭神としていた」という伝承に着目し、次のように述べている。

「この地の旧家に、安倍氏、阿部氏の姓ありて

引田氏の姓はなけれど地名として伝えられることなれば、

孝元天皇の皇子として崇神天皇の時四道将軍の一人たる

大彦命の裔孫(えいそん)阿倍氏引田氏が

大和京師、北岡地方に発展しその族裔の一部が大化改新のころより
奈良朝ころ迄の間において東讃の地に転住したるものにあらざるか」と。

 一 新撰姓氏録孝証 安倍氏系図
 一 太田亮著 姓氏家系辞書 引田氏
 氏は、このニ書を引用して論じている。



『八幡宮御伝書紀』による解釈

 書紀には

「承和8年(841)3月吉日(中略)神璽(じ)を斎(いつ)き奉り我国に帰る 
急ぎ清地を求め安鎮(中略)又御宮地を改め則ち誉田の田を称え美しみて号を引田と改む 
第一の若宮は八幡御宮地を賑田と号す 同若郎子(わきいらつこ)御社地を吉田と号す
 亦梨木(なしき)と田夫 湖水を分ち御饌田(みけた)となす 之を佃田と号す」

以下省略

 この書紀は延久三戌歳(1071)の奥書をもつ忌部(いんべ)中山氏の縁起であるが、
この宮が勧請されたという承和8年から近年に至るまで、
他の古文書には引田の忌部氏誉田八幡宮の字は全く見受けられない。

 初版の香川叢書には古文書の項に記述されていたが、
その後の研究により、江戸中期の作というのが大方の定説となっている。

だが、この書紀の中で注目したいことは、

引田という地名の命名の精神である。

著者は田の字に殊更のようにこだわっている。

誉田・引田・賑(にぎ)田・吉田・佃田と列記したのがそれである。

察するに引田郷田地耕作者の間では、古くからの伝承があり、
それらを吸収し、表現したのかもしれない。

ちなみに賑田は迯田、佃田は佃として現在も残っている。

この佃という地名は民俗学的にも歴史学的にも、

領主の自作する土地の意に解され、書紀に記述された意に似ている。




字義的な解釈

 小海山系小入谷(こにゆうだに)に貝の化石が出たり、
大坂山山系で貝殻がしばしば発見されたり、
かつて迯田に「かな突きの鼻」とか、引田の古名が「網の浦」とかいう伝承など
一連の地名が干潟を暗示しており「汐が引いた後地」のことで、
引田という地名が発生した由来だとする説。



猪熊信男の恩頼(おんらい)堂一家言説
 猪熊氏によると

 引田を字義通り田を引くとしては、
意をなさぬ、諸国にある「ヒケタ」の地名をまず参考にしてかからなければならない。

地方にあっては、曳田(ひきた)・匹田(ひきた)・辟田(へきた)などと書かれている。

しかし、引田を「ヒキタ」とも読んでいるが、

「ヒケタ」と「ヒキタ」では、その語源の違っている事勿論である。

引田の町名は、引田部族という一つの部族から起こったものと解せられる。

 諸国にいろいろ引田という地がある。
その中にもここ引田は、
和名抄に出ているところの引田郷で全国的に最も大きい有力な引田部族のいた所である。

「新撰姓氏録」から考えてみると、

大国主神の後に、大神(オオミワ)ノ引田朝臣、三輪ノ引田君がある。

それで引田ノ朝臣、引田ノ君の部族の祖先は、一応は祖神大国主神に落ちつくのである。

それゆえに、佐渡国引田部ノ神社の祭神は、大巳貴神(大国主神)であるとせられる。

 ところが、この引田部ノ神社は、引田明神ともいわれ異説として、

その祭神は、孝元天皇の皇子大彦命であるというのが

吉田東伍博士の「大日本地名辞書」に見えている。


それは、このあたりに阿部氏の子孫が多い。


それで、阿倍氏等が祖先の大彦命を祭ったのだろうというのである。

大彦命は崇神天皇の時、四道将軍の北陸大将軍となって行った人、

また「斉明紀」に、
越前国司阿倍引田ノ臣また阿倍引田の臣比羅夫なども斉明天皇のころ、越前守となっている。

引田と名のつく所に阿倍氏の事あるゆえがあるのだろう。

 そこで東讃引田に八幡神がどうして鎮座せられているのであろうか。
この社八幡宮であれば、之より祭神は応神天皇であるはずである。

 「大川郡誌」を読んでみると、

「引田八幡宮、一説 元引田神社」といって、孝元天皇の皇子大彦命を祀ったとある。

果してそうであろうか。
そこまで未だ詮索を尽していないが、
もしもかりに、そうであったとするなら、

佐渡の国の引田部の神社の祭神説と一致する。

しかしながら、
一方引田部族の祖神が

大国主神ということと大彦命ということについて、一致点が見出されなくなる。


 (中略)

引田部族が祖神を祭ったものとすれば、考証的には祭神が、大国主神となるわけのものだが、

ここにも、佐渡の引田部神社の如く、大国主神以外に、
阿部氏関係があるのは、如何なるわけのものだろうか。

この地に現に有力な阿倍氏ノ引田朝臣、阿倍ノ比羅夫関係によるのであろうか。

 阿倍氏阿部氏は引田の有力者で、代々相承してその家をなしてきたものと思われる。

(中略)

阿部という姓は、阿倍という姓より後につけられたものと思われるが、

元より同族のものと思われる。

とにかく、東讃の引田に、

阿倍氏と阿部氏と双方あるのが、私共昔のことを調べるものにあっては誠に興趣を覚ゆる。

(中略)

 世間にある阿部氏は、

多く駿河の安倍郡から出ているとされているが、

その安倍郡も、「古事記」「日本書紀」では阿倍であるが、

「類聚国史」「後風土記」には阿弁となっている。

攝津国の阿部野神社などは地名の阿倍野からきているのに、

阿部野を以てしていられる。


 引田の阿倍氏も、阿部氏も共にあるいは駿河の安倍郡から出ていて、

阿倍ノ朝臣、阿倍ノ比羅夫から出ているとも思われるが、

引田部族との関係が明らかでない。





ただ、


陸奥地方の

阿倍氏は

朝廷が懐柔策として各家の姓を与えただけのもので、


本来の阿倍氏とは何等の関係もなく、

その子孫も本来の阿倍氏とは全く没交渉のはずである。



阿部ヒカル







以上、4つの説を検討すれば、

おのずから引田部族というのが浮かびあがり、

それに関連して引田という地名が定着したとするのが、当を得ている。











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消えた一族(220) まだまだ阿部 [消えた一族]

なにやらすごいのが来ている時には

この頭痛なんだ。

ステージ目かわかんないけど、

古代の糸口のでっかいひとつを

見つけかけてる。

ちっ、、、

っていうかね、

そんなの見つけてどーすんだって話なんだけどね

やめられないんだなーこれが

もーーーーーっ!!!!!!!!


昨日の記事はとりあえずあれで〆とく

そのまま調べようとしたんだけど

どんどん違うのが入ってきちゃって


今はもう頭が痛くてしょうがない


でも前からちょっとは知ってたものだけど

その頃にはまったく理解不能だったものが

今ちょっと理解できそうなので

今日はそれに取り組もうと思う


阿部だけど


ココ最近揺れてるところで私がリツィートしてるのは

だいたい

蝦夷関連

っていうか、掘れば絶対阿部になっちゃう


安倍じゃないよ

いや、安倍も阿部かもしれないけど

今のシンゾウのとこの安倍はイカン




いや、、、イカンとは思うんだけど


これまでいろいろ見てきたもんは結局、結果的に

みんな

内輪もめやら

陥れるとか

なんか欲深いやつら同士のやってることだよ

私ら民衆にはなんも関係のない世界

いつも巻き込まれて殺されるだけのわたしら民衆とさ


金ぴかの城に住んでる欲深い奴らが

いくら争いのない世界とかいっても説得力ないんだよね


消された古代の王朝だとか、

消された古代の神だとか言ってもさ

後ろに引っ込んだだけで、

影では相変わらず金ぴかで暮らしてるんだろうよ



この感覚は





マイケルのHOAXを追っていたときも






感じていた




ある時期から感じていたのだよ。。。





なぜこのように感じるのか


たぶんそこが











あのねーーーー

お金のいらない世の中なんて来ないよ

病気もない老いも死もない争いもない

そんな世の中は来ないよ


あたりまえだろ


ドアホっ

ソンナヨノナカニシヨウヨーーー

ソンナヨノナカニナルヨーーー

ソンナヨノナカニスルヨーーーー




これこれこうすれば、、、、、、、




な。


そうやってドアホな民衆は常に誘導されて

奴隷のように一生懸命働いて

税金はどんどん取られ放題


働けば働くほど税金は取られ放題

収入が多いから、ステータス高し!と思っている人も多いだろうよ

そんな人が一番の奴隷だな



で、

神様を信じて、

宗教に入って

そこでまたお金を払って

そこでのステータスをあげるために周りの人を勧誘して

これはマルチにもいえることだわね


どんどん金儲けをして

どんどんいい生活贅沢をして金を使って

どんどん税金を払って

いい車に乗って税金を払って

大きな家に住んで税金を払って

やりたいことをすべてやるために

楽して稼げることもどんどんするだろうし

で、もって海外旅行にも行って

TAX払って


この世はほんとうに


第六天魔王が喜ぶ世の中だよ



民衆の皆さんの笑っている幸せな顔を見るのが

第六天魔王の一番の喜びであり幸せなのよ



わかる?




あああ、、、


こまった、、、


何を言ってるんだろう、、、、





あの、炎立つってほんとそのまんまの内容だったね



35話もある中で

民衆の暮らしが出てきたのは最後の方にちょっとだけで

奥州藤原氏は金ぴかの城に暮らしているのに

民衆はボロ雑巾みたいな着物を着て

祭りだけが喜びで、みんなそれを楽しみに日々貧しい暮らしを絶えてる



ふっ



ふふふ



ふっ


結局

おめーらだけ


欲深いおめーらだけがいい思いしてるってだけの

この世の中はいつもそんな世の中だってこと




第一部「北の埋(うず)み火」(全12回)
藤原経清は親の代の不祥事で奥州に土着を余儀なくされたが、本来は名門の家柄であった。
しかし朝廷のやり方に失望し、次第に安倍一族の思想に共感するようになり、
一族の女性・結有を愛し、結ばれる。
ついには自ら望んで安倍一族と共に朝廷と闘う決意をするが、
武家の頭領と仰がれていた陸奥守源頼義軍を相手に奮戦するも非業の死を遂げる。


第二部「冥(くら)き稲妻」(全8回)
経清の忘れ形見・清衡は、母・結有が再嫁した清原家の勢力争いに巻き込まれながらも、
陸奥守源義家の力を利用しながら、父の果たせなかった奥州独立国家の夢を実現する。



第三部「黄金楽土」(全15回)
奥州藤原氏の後継者となった藤原泰衡。
しかし時代は源頼朝を盟主とする東国武家政権樹立へと一気に流れていく。
だが奥州藤原氏はそれを理解できない源氏の御曹司・義経を抱え込んでしまう。
泰衡は苦悩の末、自らの命と引き換えに、奥州の民の平和と文化を守ろうとする。
平泉を頼朝に明け渡し、一人逃避行を続ける泰衡は、
安倍一族や結有ら、敬愛する先祖の霊に温かく迎えられながら、
いつしか祖先・経清の姿となり昇天していく。











あ、、


私的には、今まで調べてて、希望のようなものを感じていたんだけど


ココへ来て一気に反転してきている





でも




ここが











なぜこんな風に感じるのかが














じゃ、またあとで。
















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消えた一族(219)ピコ太郎さ。から~の阿部彦から~の? [消えた一族]

13時間前
AM2:00



あああーーーーー


寝かせろーーーーー







ピコ太郎さ。


なんであんなのが出きてて

一躍大人気なのかは

ジャスティンビーバーのおかげで、

ジャスティンは若干チームM。











で、なぜか、、

ココがまた

偶然なのか

仕組み済みなのか

因縁なのかわからないけど、



確かピコ太郎、

第六天魔王ならぬ、古坂大魔王(芸名)で

本名は古坂 和仁かずひと=わに。

そんでもって青森出身なんだよね。

それはピコ太郎が出てきたときに気になって調べたんだけど、


今またさらに気になることがあって、


サーチした。



それは





”阿彦”




謎の阿彦なんだけどね



阿部彦だったりして、、って思って検索してみたら


” 阿部彦太郎 ”って人が出てきたのさー!!!!





阿部彦太郎は、

近江国神崎郡能登川村(現滋賀県東近江市能登川町)に生まれた

本家筋にあたる5代阿部市郎兵衛の三男がで分家した阿部市次郎の長男である


彦太郎は『布彦』と呼ばれ、父と共に攘夷運動が激しかった文久年間(1861年-1863年)に、

室町姉小路に唐金巾(とうかなきん、キャラコ)・唐木綿・唐糸・唐縞・唐紅・唐桟に加え
ラシャ・ケット・モヘール・シャッポン・洋紙・インキ・鉛筆・靴・蝙蝠傘・シャツ・メリヤス・
石鹸・洋酒類等の洋物を取り扱う『唐物店』を開いた[3]。

当時唐物を扱う店は他に『丁吟(小林吟右衛門)』・『八幡屋』・『大和屋』があったが、
これら唐物屋は攘夷派浪人から狙われ、嫌がらせや罵詈雑言を浴び、
その都度金銭を渡しことなきを得ていたとされる[2][3]。


文久3年7月23日(1863年9月5日)布彦店は遂に浪士の襲撃を受け店は打ち壊されたが、
幸い彦太郎父子は外出していたため災難を免れることができた。

襲撃を受けた翌日には、
三条大橋橋詰に、八幡屋主人の首と共に布彦他唐物屋へ天誅を加えた旨記した張り紙が出されていたと言う[3]。

布彦店は、張り紙の横に『唐物を焼き捨て、唐物で得た利益は残らず町年寄りに寄託する』として
天誅騒ぎから逃れた[3]。



維新後、
彦太郎は米穀問屋として活躍すると共に米・株式・綿糸・砂糖などで相場を張り、
相場の世界で活躍した。



相場師彦太郎は

『阿部彦将軍』と読ばれ、




金銭商業史などを専門とする歴史学者宮本又次は、彦太郎について『彼の性格は非常に大胆で、

しかもすばしこく、よく勝機をつかんで、ついに彼の働きが市場の大勢を左右するようになった。』

と語っている[1]。

明治20年(1887年)9月、

阿部一族は

大阪の実業家と共に綿花需要の増大から内外綿花の販売を目的とする

『有限責任会社内外綿』を大阪北区源蔵町に設立し(資本金50万円)、

初代社長に彦太郎が、

他に役員として松本重太郎・秋馬新三郎が就任した。

国産綿の他、中国産・インド産・北アメリカ産綿の輸入に務め、

有力紡績会社との間で取引を拡大していった(その後、内外綿は現在シキボウ傘下にある)[1]。

明治37(1904年)年5月5日、東京で死去した。

:::::::::::::::::::::::

阿部一族
相場師彦太郎
『阿部彦将軍』
唐物店

阿彦族の一部だろうか。。。。。
http://fanblogs.jp/japonismlove/archive/6/0

それとも阿部大彦の一部だろうか

古坂大魔王
青森は蝦夷




”阿彦”
古代越国を支配していた最大勢力を誇る豪族。
「高志の国王」を名乗っていた。

阿彦は、富山湾の海上に強大な勢力を張っていた
布勢の神「倉稲魂命(うげのみたま)」の子孫である
「布勢比古」なる人物の子供か孫だと伝えられています。

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

”彦太郎” は『布彦』と呼ばれ

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

”阿彦”の一族は、

以前から日本海の対岸、支那大陸の事情に精通していたようで、
特に阿彦の代になってからは大陸の勝れた物質文明を積極的に取り入れた他に、
大陸的な専政君主政治を採用していました。
阿彦は、ツングース人である鄭鶴(ていかく)、徐章(じょしょう)という2人の人物を重く用いて、
それらの政治を行っていました。

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::


” 彦太郎 ” は

室町姉小路に唐金巾(とうかなきん、キャラコ)・唐木綿・唐糸・唐縞・唐紅・唐桟に加え
ラシャ・ケット・モヘール・シャッポン・洋紙・インキ・鉛筆・靴・蝙蝠傘・シャツ・メリヤス・
石鹸・洋酒類等の洋物を取り扱う

『唐物店』を開いた

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

続きは明日だ









さて、、、つづきだ。。。









そういえばうちのむすこっち、

ジャスティンビーバーが来る撮影で現場がぴりぴりしてるって言ってたな




阿部市郎兵衛(あべ いちろべえ)家は近江国能登川の近江商人、屋号は『紅屋』。

江戸時代後期、麻布問屋として『能登川の阿部』家は、

『五個荘の山中』家と『高宮の堤』家と共に、『近江三福』の一つと言われた。

また、阿部家は本家と分家が乗合店として出店(共同経営)しており、

明治維新期も阿部一族として乗合事業を展開した。

本家・分家が乗合で事業を展開することは近江商人としては珍しく、


これが故に他の近江商人家と異なり、一族それぞれが経済界に重きを置くことができた。



麻織物の産地

能登川町(のとがわちょう)は、滋賀県神崎郡にあった町。

麻織物の産地として知られ、近代には紡績で栄えた。

近江商人発祥の地の一つとしても知られる。

2006年(平成18年)1月1日、東近江市に編入合併し廃止された[1]。



愛宕神社
http://www.atago-jinja.com/

【主祭神】
火産霊命(ほむすびのみこと)〈火の神〉

【配祀】
罔象女命(みずはのめのみこと)〈水の神〉
大山祇命(おおやまづみのみこと)〈山の神〉
日本武尊(やまとたけるのみこと)〈武徳の神〉
将軍地蔵尊・普賢大菩薩

【境内末社】
太郎坊神社、福寿稲荷神社、弁財天舎、恵比寿大黒社



あ・た・ご!

ずーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっと気にはしていたけど

調べずにいたのよ。

めんどくさそうだったからね




あたご=蝦夷

でもココに太郎坊神社ってあるから、天狗、山伏系も関連してるんだね


で、



蝦夷の賊首や嶋津神・国津神
http://escapejama.blog.so-net.ne.jp/2017-02-25-2


日本武尊(ヤマトタケルノミコト)はすぐに上総(カミツフサ)から移動して、
陸奥国(ミチノクノクニ=東北地方の東)に入りました。

そのときに大きな鏡を王船に掛けて、海路(ウミツヂ)から葦浦(アシノウラ=千葉県?)を回りました。
玉浦(タマノウラ)の横を通って、蝦夷(エミシ)との境に到着しました。



蝦夷の賊首(アタゴノカミ=首領)

嶋津神(シマツカミ)

国津神(クニツカミ)たちは


竹水門(タケノミナト)に居て、(入港を)防ごうとしました。





土蜘蛛 蝦夷 




1. 「能登川」の語源に就いての諸説

◎『能登川町史』
のど(咽喉)と同じ狭い通路の意味か、ぬと(沼地)の意か、何れにしても昔此の地に能登の名が先に生まれ、次に川があるから能登川と名付けられた。

◎『近江神崎郡志稿』
アイヌ語のノット(岬角)からきたという説は、適当で無く地勢上からきたもと思われるが不明である。

◎能登国(石川県)との関連説
大化年間(645~649)の租庸調制度が敷かれた時、遠方から麻布を納入させることが不経済として、能登部(石川県)の民をこの地方に移住させて、「庸」(年間十人の力役の代替として、麻布二丈六尺を物納する)に役立てたことが、能登川の地名由来と言われている。

http://ohmikairou.org/col19.html


って言うか、滋賀県なんて今まであんまり調べたことナイなー
琵琶湖しか思いつかないし
地理的なことも想像すらできない

https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%80%92521-1231+%E6%BB%8B%E8%B3%80%E7%9C%8C%E6%9D%B1%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%B8%82%E8%83%BD%E7%99%BB%E5%B7%9D%E7%94%BA/@35.1709027,136.1528665,15z/data=!4m12!1m6!3m5!1s0x0:0x9342fd940374656b!2z5oSb5a6V56We56S-!8m2!3d35.1724139!4d136.155332!3m4!1s0x60017e99f97a1067:0xf59e38fb26c93a22!8m2!3d35.1746031!4d136.1586459?hl=ja




北向十一面岩屋観音(きたむきじゅういちめんいわやかんのん)は、
滋賀県東近江市猪子町にある石仏とそれを祭る岩窟である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E5%90%91%E5%8D%81%E4%B8%80%E9%9D%A2%E5%B2%A9%E5%B1%8B%E8%A6%B3%E9%9F%B3


ええとね

能登川って言うのみただけで、

もうわかる




わかるよ。。。。





地図あちこち眺めれば


わかるよ



え?



ほら


え?


瓢箪山古墳


瓢箪山古墳
滋賀県近江八幡市安土町宮津


夕べだかその前にひょうたんやま出て来たばっかりじゃんね


別の場所ですよ


すぐそばに
大己貴神社



やべーやべーーーーー

なんだなんだ


https://www.google.co.jp/maps/place/%E7%93%A2%E7%AE%AA%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3/@35.1434188,136.1466602,17z/data=!4m12!1m6!3m5!1s0x0:0x9342fd940374656b!2z5oSb5a6V56We56S-!8m2!3d35.1724139!4d136.155332!3m4!1s0x0:0xe9fbfd88e8b1b1!8m2!3d35.14191!4d136.1490101!6m1!1e1?hl=ja



呪術がきいてんのくゎーーーーー!!!!!

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しか~~~~も


沙沙貴神社
http://sasakijinja.or.jp/



あーーーこあいこあい


佐佐木源氏 発祥の地

沙沙貴神社・佐佐木大明神


全国の佐佐木源氏ゆかりの人たちがお参りされます。

宇多源氏・佐佐木源氏・近江源氏のご先祖をお祀りしています。

丸亀藩・京極家が再建された・本殿・権殿・拝殿など指定文化財八棟の大型神社建築です。

年間を通して全国の佐々木さんが参拝されています。

ぜひ、佐佐木源氏発祥の地へおかえりください。

佐々木氏は、宇多(うだ)天皇(869〜931)の皇子、敦実(あつみ)親王(892〜966)の玄孫(やしゃご)である、源成頼(みなもと なりより)が近江國・佐々木庄に下り、成頼の孫の、経方(つねかた)が佐々木姓を名乗ったことに始まります。
 佐々木氏は、佐々木氏の氏神である沙沙貴(ささき)神社が建つ近江八幡市安土町常楽寺周辺から、佐々木氏の館(やかた)があった小脇(現在の東近江市小脇町)辺りまで広範な候補地がありますが定かではありません。ただ、蒲生郡内であったことは間違いないようです。
 佐々木氏が近江に確固たる基盤を得るきっかけとなったのは源平の合戦でした。
 経方の孫の秀義(ひでよし)(〜1184)は、平治の乱(平治元年1159)で源義朝(みなもと よしとも)にくみして敗れたため近江を追われ、相模國(現在の神奈川県)まで逃れます。
 しかし1180年、源頼朝が平氏打倒へ挙兵した時、長男の定綱(さだつな)ら息子たちを引き連れて参戦し、目覚しい功績をあげました。


 秀義自身はこの戦いで戦死しますが、定綱は戦功により近江國 惣追捕使(そうついおし ※後の近江守護職)に任ぜられます。
 守護職に就いた定綱は、頼朝の自筆と伝えられる「佐佐木大明神」の神号額面を文治二年(1186)七月二十八日に物部清貞氏の調整で、表参道 大鳥居に掲額しています。(現在も古額を保存して、その同じ形式の写を表参道 大鳥居に掲げてあります。)
 兄弟たちも多くの恩賞を与えられ、一族全体で述べ十七カ國の守護職を得ていた時期もありました。
 しかし、鎌倉幕府と後鳥羽上皇が争った承久の乱(1221)で一族の多くが上皇方に付いて破れ、守護職のほとんどを失いました。

 定綱の跡を継いだ信綱の息子の代に佐々木氏は四家に分かれ、

長男 重綱―大原氏、
次男 高信―高嶋氏、
四男 氏信―京極氏、
そして三男の泰綱に始まる六角氏が惣領(そうりょう)家(本家)として近江守護職を継承しています。

主な佐佐木源氏 

佐佐木 佐々木 六角 京極 黒田 三井 大原 高嶋 篠笥 笹木 佐々城 沙沙貴 

尼子 伊庭 椙山 岳 朽木 和泉 山脇 田中 種村 鯰江 乃木 松下 和邇 

など220余の姓が継承されています。


220もあるんだ、、、、

すごいな。。


http://sasakijinja.or.jp/index.html


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く ほほほほほ
く ほほほほほ









沙沙貴(ささき)神社は、

神話の頃からご鎮座でご祭神の

少彦名神(すくなひこなのかみ)
大毘古神(おおひこのかみ)
仁徳天皇(おおさきのすめらみこと)
宇多天皇(うだのすめらみこと)
敦實親王(あつみのみこ)
四座五柱(よんざいつはしら)の神々をおまつりしています。


 まず、ササゲの豆の鞘に乗って海を渡って来られた伝説のある少彦名神さまより、

子宝・安産・育児・蚕を飼育して絹の整糸・健康の良薬・酒類 味噌醤油の醸造・
農工業の諸道具の作成などに=恩頼・みたまのふゆ=ご神徳の大きな力をいただいていて
みんな幸せに暮らして来ました。


恩頼(みたまのふゆ)神さまからさずかるめぐみや深いたまものまたその恩恵【筆書】


大毘古神さまは
古代 都からの北陸道・東海道・西海道・丹波堂を守護した四道将軍の御一人で
北陸道を守護され、旅の安全・交通安全を守護されています。

ご子孫は古代の沙沙貴山君は、ササキの庄の地名につながります。

仁徳天皇鷦鷯尊(おおさきのみこと)さま
難波の宮から国民の生活を眺められ
「自らが富めるのは国民が富みて自ら富める」と申され家庭の円満を望みになりました。


 また、宇多天皇・敦實親王さまの子孫 佐佐木源氏は

平安末期源氏の時代から
近江國を始め全国十七余州の守護職にあり広く全国に居住することになりました。

沙沙貴神社 神主家に継承されている系図では、

佐々木姓が全国に壱百七拾万余家、
さらに枝分かれした、

京極家
(讃岐 丸亀藩 京極家は、現在の本殿・権殿・拝殿を再建・指定有形文化財)

黒田家
三井家
(楼門の沙沙貴神社の墨書と大型額を掲額)

朽木家、佐佐木家、大原家、高嶋家、六角家、乃木家など一族は、
弐百弐拾余の姓名となり、参百五拾万余家に統計されています。

その佐佐木源氏一族の子孫が守護神として広く敬拝されています。
この四座五柱の神々を「佐佐木大明神」と申し上げます。




沙沙貴神社


古代から祖神として奉斎してきた式内社・沙沙貴神社には、鷦鷯神伝があったと系図に見える。

『神道大辞典』の記事によると、

同社の祭神は大彦命・少彦名命・仁徳天皇・宇多天皇・敦実親王とされるが、

それは、「少彦名命は鷦鷯羽を以て衣とせられた故事に因み、

仁徳天皇は大鷦鷯尊と奉称したに因み、

敦実親王は宇多天皇の皇子で佐々木源氏の祖であらせられるに因んで、

主神大彦命に配祀したものといふ」と同書に記される。





『秀真政伝』によれば  「佐々木の神社ありて、元祖笹気の神祭後の神代に、少彦名神此宮にて和礼を教」とある。

沙沙貴山氏の後裔

これを近江の沙沙貴山神社の由緒では

沙沙貴山君の4世は、阿閉臣伊賀彦命、5世は、筑紫国造日道命でした。

そして、645年の安倍倉橋麻呂、平安時代の安倍晴明と子孫がつながっていました。

筑紫国造 日道命(成務天皇期) 筑紫氏(君・公) 筑前国・筑後国

国造本紀(先代旧事本紀)によると成務天皇(13代)の時代、

阿部臣(あべのおみ)と同祖の大彦命(おおひこのみこと、大毘古命)の5世孫にあたる
田道命(たみちのみこと)を国造に定めたことに始まるとされる




はい。


気絶していいですか~~~?




夕べからココものすごい勢いで入ってくる


夕べ無理矢理終わらせて寝たんだけど

ざけんな

こつんこつんってさ、、

やんじゃないよ


それも朝の4時だよ

ぜんぜん寝た気がしない


もうーーやだーーー

出てこなくていいよーーー

いいさ、出てきたらまた前みたいに

ヽ(゚Д゚)ノゴルァァア!! って

キレてやるからな

凸(・`ε・´o从ムキッ



ピコ太郎からかなり広がったな。。。

http://6247.teacup.com/toshifjjp/bbs/5997





近江白浜

勝野榊


近江国
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%9B%BD



安土城(あづちじょう)は、
琵琶湖東岸の安土山(現在の滋賀県近江八幡市安土町下豊浦)にあった日本の城(山城)。
城址は国の特別史跡で、琵琶湖国定公園第1種特別地域になっている。

安土城建設前の安土山(目賀田山)には、当時明智光秀の配下で、近江守護佐々木氏(六角氏)に仕えた御家人格の目加田(目賀田)氏の居城であり、観音寺城の支城であった目加田(目賀田)城があった。 信長に安土城建設のための用地提供を要請された42代目賀田摂津守貞政は代わりの領地と、現在の目賀田城とを引き換えに目賀田山を信長に明け渡した。

安土城は、織田信長によって、現在の安土山に建造され、大型の天守(現地では「天主」と表記)を初めて持つなど威容を誇った。建造当時は郭が琵琶湖に接していた[1]。地下1階地上6階建てで、天主の高さが約32メートル。それまでの城にはない独創的な意匠で絢爛豪華な城であったと推測されている。総奉行は丹羽長秀、普請奉行に木村高重、大工棟梁には岡部又右衛門、縄張奉行には羽柴秀吉、石奉行には西尾吉次、小沢六郎三郎、吉田平内、大西某、瓦奉行には小川祐忠、堀部佐内、青山助一があたった。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%9C%9F%E5%9F%8E



織田信長といえば


第六天魔王



それよりも能登川調べのときから

安土と言う文字が、音が、文字かな気にはなっているんですけどね




あ、、、ちょっとお出かけのお誘いで、、中断します。




あああああ


今宵も寝かせてもらえなさそう


第六天魔王に~~~~~~~~~~












ちょっとココから先は

かなりの集中力が必要なかんじ


能登川

安土

瓢箪山

琵琶湖(びわ)




これはひょうたんに皮を張って作ったアフリカのびわの様なもんだ

100_new3.jpg


あづちをあずみの転訛と考えるものである。

あずみとは安曇・安積などと記し、漁業や航海にすぐれ、

時には製塩なども行ったとされる海神族のことで、

この安土町も、かつては琵琶湖最大の内湖をかかえ、

漁港や貿易港として栄えていたことを考えれば、

海神族が居住していたことは十分考えられる。

これらの説のどれが妥当なのか明確にしがたいが、

現在のところ、あずみ転訛説が有力であるといわれている。


https://www.google.com/maps/@35.1823218,136.1534469,8z?hl=ja-JP



勝手につながっていってる部分があるが、それはまだ保留



そうだよね、、

琵琶湖 淡路島



ちょっとアンテナ張り巡らせよう。。。。。



続きは明日になるかも。。。。



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