So-net無料ブログ作成


2016年までの観た!読んだ!お勧めの映画や本でーす!





調べなさいアプローチ ブログトップ
前の10件 | -

若一王子 / 若王子~墓からの宿題 [調べなさいアプローチ]

墓参り行くと大体出てくるな

クロアゲハ

今日はたくさん宿題もらって帰ってきた

このページは更新中だけど、ま、また途中でぶっちっと思わると思うけど


”貞雄さんは本家の中村の家に来てたのよね”

ずっと引っかかっているこの一言がわかりそうだけど

それには時代を、歴史を、その土地の歴史をちょっとほじくらないとわからない


どうやら、

というか、、昔ほど複雑よね

養子とかさ、今より全然頻繁で一般的だったわけでしょ

しかもさ、


戦だ、戦争だ、災害だで

今の現代の日本以上に、頻繁に人が死んでた時代をいくつも通ってきて、今に至ってるわけで

墓もないのよ、

んーーー


墓もないっていうか、遺体すらない時代なのよね

そして今よりも家を、名前を無くすことを、昔の人は極力避けてきたの

生まれた子供もなくなる率も高かったろうし

しかも案外子だくさんだったりするわけでしょ

戸籍は今、現代のようにクリアではない

ま、もちろん今だってクリアじゃない人はいるでしょうけれども

クリアじゃないの一般的だったんだろう

口減らしで売るという時代もあったろうしね、、、

だから、一筋縄では調べらんないのよね




”貞雄さんは本家の中村の家に来てたのよね”


中村の家からの。。。。


あのあたり、、、嫌ちょっとここの部分は後回し

今から調べる





::::::::::::::::::::::::::::::
::::::::::::::::::::::::::::::

若一王子(にゃくいちおうじ)は、神仏習合の神である。

若王子(にゃくおうじ)ともいう。

熊野三山に祀られる熊野十二所権現は三所権現・五所王子・四所明神に分けられ、

若一王子は五所王子の第一位である。



若一王子の本地仏は十一面観音で、

天照大神あるいは瓊々杵尊と同一視された。


熊野本宮大社・熊野速玉大社では第4殿、

熊野那智大社では第5殿に祀られる


(いずれも、現在は「若宮」と称し、天照大神のこととしている)。


熊野信仰が日本各地に広まるにつれ、

熊野権現が各地に勧請されたが、若一王子のみを勧請する場合も多かった。

神仏分離に伴い、

「若一王子」を天照大神や瓊々杵尊に変えた所も多いが、

従前のまま「若一王子」として祀っている神社もある。




東京都北区の王子神社。

長野県大町市の若一王子神社。紀伊国より勧請。

静岡県藤枝市若王子及び藤枝五丁目の若一王子神社の社叢

京都市左京区若王子町の熊野若王子神社

京都市下京区七条御所ノ内本町の若一神社。西八条殿が所在した場所。[1]

和歌山県田辺市の神社。現存せず、若一王子権現碑が跡地にある。

和歌山県西牟婁郡すさみ町の周参見王子神社の古名「若一王子権現社」。

兵庫県西宮市熊野町の若王子神社

平の荘大宮若一王子権現(平之荘神社)





十一面観音(じゅういちめんかんのん)、
梵名エーカダシャムカ (एकदशमुख [ekadaśamukha][1])は、

仏教の信仰対象である菩薩の一尊。

観音菩薩の変化身(へんげしん)の1つであり、六観音の1つでもある。

頭部に11の顔を持つ菩薩である[1]。

梵名は「11の顔」、「11の顔を持つもの」の意。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%80%E9%9D%A2%E8%A6%B3%E9%9F%B3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%80%E9%9D%A2%E8%A6%B3%E9%9F%B3





熊野権現(くまのごんげん、または熊野神〈くまののかみ〉、
熊野大神〈くまののおおかみ〉とも)は、

熊野三山に祀られる神であり、本地垂迹思想のもとで権現と呼ばれるようになった。

熊野神は各地の神社に勧請されており、

熊野神を祀る熊野神社・十二所神社は日本全国に約3千社ある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E9%87%8E%E6%A8%A9%E7%8F%BE



九十九王子(くじゅうくおうじ)とは、
熊野古道沿いに在する神社のうち、主に12世紀から13世紀にかけて、
皇族・貴人の熊野詣に際して先達をつとめた熊野修験の手で急速に組織された一群の神社をいい、参詣者の守護が祈願された。
したがって、その分布は紀伊路・中辺路の沿道に限られる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E5%8D%81%E4%B9%9D%E7%8E%8B%E5%AD%90



観音菩薩の変化身(へんげしん)の1つであり、

六観音の1つでもある。

六観音の役割では、阿修羅道の衆生を摂化するという。


六道それぞれの衆生を救う6体の観音。

密教では、

地獄道に聖(しょう)観音、

餓鬼道に千手観音、

畜生道に馬頭観音、

修羅道に十一面観音、

人間道に准胝(じゅんでい)または不空羂索(ふくうけんじゃく)観音、

天道に如意輪観音を配する。ろっかんのん。

https://www.google.com/search?q=%E5%85%AD%E8%A6%B3%E9%9F%B3&gws_rd=ssl


十一面観音




白山権現は菊理姫






:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::



安土桃山時代 1573年 – 1603年

安土桃山時代(あづちももやまじだい)は、

日本の歴史において、織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代である。

2人の名前を取って、織豊時代(しょくほうじだい)ともいう。

なお、美術史では

1615年(慶長20年)の豊臣氏滅亡までを「安土桃山時代」と称するのが一般的である。



文禄1593-1596

文禄元年
豊臣秀吉は松前慶広に樺太の先住民であるアイヌの保護を行うとともに、
諸国から集まる人々を取り締った。


9月1日-5日(文禄5年閏7月9日-13日) -
慶長伊予地震、慶長豊後地震、慶長伏見地震
(改元前の文禄5年の出来事、慶長大地震も参照)

10月19日 - サン=フェリペ号が四国土佐沖に漂着(サン=フェリペ号事件)

12月16日(文禄5年10月27日) - 日本、地震などの災異のため改元して慶長元年



文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は、文禄元年/万暦20年/宣祖25年[注 9](1592年)に始まって翌文禄2年(1593年)に休戦した文禄の役と、慶長2年(1597年)の講和交渉決裂によって再開されて慶長3年/万暦26年/宣祖31年[注 9](1598年)の太閤豊臣秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結した慶長の役とを、合わせた戦役の総称である(他の名称については後節を参照)。

なお、文禄元年への改元は12月8日(グレゴリオ暦1593年1月10日)に行われたため、4月12日の釜山上陸で始まった戦役初年の1592年のほとんどの出来事は、厳密にいえば元号では天正20年の出来事であったが、慣例として文禄を用いる。また特に注記のない文中の月日は全て和暦[注 10])で表記。( )の年は西暦である。



日本の天下統一を果たした天下人秀吉は大明帝国の征服を目指し、配下の西国の諸大名を糾合して遠征軍を立ち上げた。秀吉は(明の)冊封国である李氏朝鮮に服属を強要したが拒まれたため、この遠征軍をまず朝鮮に差し向けた。小西行長や加藤清正らの侵攻で混乱した首都を放棄した朝鮮国王宣祖は、明の援軍を仰いで連合軍でこれに抵抗しようとした。明は戦闘が遼東半島まで及ばぬよう日本軍を阻むために出兵を決断した。以後、戦線は膠着した。休戦と交渉を挟んで、朝鮮半島を舞台に戦われたこの国際戦争は、16世紀における世界最大規模の戦争であった[6][注 11]。

双方に決定的な戦果のないまま、厭戦気分の強い日本軍諸将が撤退を画策して未決着のまま終息したため、対馬藩は偽使を用いて勝手に国交の修復を試み、江戸時代に柳川一件として暴露された。戦役の影響は、明と李朝には傾国の原因となる深刻な財政難を残した。朝鮮側は戦果を補うために捕虜を偽造し、無関係の囚人を日本兵と称して明に献上せざるを得なかった。豊臣家にも武断派と文治派に分かれた家臣団の内紛をもたらしたので、三者三様に被害を蒙ったが、西国大名の中には多数の奴婢を連れ帰るなどして損害を弁済した大名もあった。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9




:::::::::::::::::::::::::::::::::



若一王子とは、熊野権現の若王子のことなので、

熊野信仰が盛んになる平安時代末、いまから900年以前の創建と思われる。

熊野信仰
http://imakumanojinja.or.jp/kumanosinkou.html









:::::::::::::::::::::::::::::
桃山時代の文禄2(1593)年3月28日、鎮座。









続きは明日




共通テーマ:blog

素都 [調べなさいアプローチ]

大彦命
おおひこのみこと

別名
大毘古命:おおひこのみこと
大日古命:おおひこのみこと
……

第八代・孝元天皇の第一皇子で、第九代・開化天皇の兄。建沼河別命の父。


『古事記』では、大毘古命には建沼河別命、比古伊那許志別命の二柱の御子がある。


兄御子は建沼河別命と呼び、阿倍臣の祖で、 崇神天皇の御代に東方十二ヶ国、すたわち伊勢(伊賀、志摩を含む)、尾張、三河、遠江、駿河、甲斐、伊豆、相模、武蔵、総(上総・下総)、常陸、陸奥地方を守る四道将軍の一人となった。
四道将軍とは、北陸に派遣された大彦命、東海に派遣された建沼河別命(武渟川別)、西海に派遣された吉備津彦、丹波へ派遣された丹波道主のこと。


弟御子は比古伊那許志別命で、膳(かしはで)臣の祖すなわち膳夫(かしはで)の伴部で、料理方を司る職を率いた氏の祖。


大彦命の御子は上記の二柱の他に、彦背立大稲腰命、波多武日子命など。



大彦命 を祀る神社
(玄松子が参拝した神社のみ)


古四王神社 秋田県秋田市寺内字児桜81

布勢神社 富山県氷見市布施1826
道神社 富山県高岡市五十里字沼田3721
道神社 富山県射水市作道1846
鵜坂神社 富山県富山市婦中町鵜坂212

船江太神宮 新潟県新潟市中央区古町通一番町500
三宅神社 新潟県長岡市妙見町215
小布勢神社 新潟県三条市大字上保内丙1288
大神社 新潟県糸魚川市大字平字森本1345
引田部神社 新潟県佐渡市金丸488-丙


舟津神社 福井県鯖江市舟津町1-3-5


大津神社 岐阜県飛騨市神岡町船津1823-2


敢國神社 三重県伊賀市一之宮877
相鹿上神社 三重県多気郡多気町相可字磯部寺464

神邊神社 島根県大田市鳥井町鳥越142-2
刺鹿神社 島根県大田市久手町刺鹿1475

伊佐須美神社 福島県大沼郡会津美里町宮林


布勢神社 香川県さぬき市寒川町石田西乙字道味3642

布制神社 長野県長野市篠ノ井布施五明235
布制神社 長野県長野市篠ノ井字山布施1
布制神社 長野県長野市篠ノ井石川布制山2173

佐々伎神社 兵庫県豊岡市但東町佐々木482
手谷神社 兵庫県豊岡市但東町河本885

貴船神社 境内 鈴鹿社 京都府京都市左京区鞍馬貴船町180

若櫻神社 奈良県桜井市大字谷字西浦344













高志深江国造 ( 越 )

こしのふかえのくにのみやつこ【国造】

[高志深江国造 ( 越 )]

高志(古志)深江国造は高志深江国(現・新潟県十日町市周辺)を支配したと言われ、

越地方最北、日本海側最北の国造であったと考えられている。

国造本紀(先代旧事本紀)によると


崇神天皇(10代)の時代、

大彦命の孫であり信濃川・阿賀野川河口地域の豪族であった

素都乃奈美留命(そつのなみるのみこと)を国造に定めたことに始まるとされるが、

能登国造・加宜国造と同祖との説によると

道臣(みちのおみ)と同祖となり安部氏族であるという。


素都乃奈美留命は角田山界隈の開拓に尽力し、

蝦夷を多く帰依させたとの説話がある。


新潟市西蒲区巻町の福井には船上神社があり、

初代国造・素都乃奈美留命を祭神としている。

また同地区にある菖蒲塚古墳は地方首長の墓と考えられ、

一説には高志深江国造の墓とも言われている。

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::



そうだったんだ、、、

大津神社 岐阜県飛騨市神岡町船津1823-2

大彦命・武渟河別命・建南方富命

ヌナカワヒメも祭られているはずよね。。。



大彦が祭られてる神社の土地だったんだ、、、、


神岡鉱山

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%B2%A1%E9%89%B1%E5%B1%B1


カミオカンデ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%9F%E3%82%AA%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%87


スーパーカミオカンデ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%9F%E3%82%AA%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%87



カムランド(カミオカンデ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89

共通テーマ:blog

私を呼んだ二つの和魂神社とたんしょう [調べなさいアプローチ]

和魂神社
広島県庄原市本村町2864



和魂神社
兵庫県高砂市高砂町東宮町



丹荘村
たんしょうむらは埼玉県の北西部、児玉郡に属していた村。

当初は賀美郡所属であった。







なんなんだろう、、、


なにを調べたらいいんだろ


夕べ近所に飲みに行って帰ってきたのが2時だったんだけど、

行く前にこれ見つけて、気になって所いうがなかったので

帰ってきてから少し調べ始めたんだけど

しばらくすると背中がものすごく痛くなってつりそうになって、

うわーーーーだめだ、、、って思ってたらネットまで繋がらなくなりだして

ちょっともうだめだって思って、寝たんだけどね


なんで

この神社が出てきたかといったら

そもそもは我が家の名前のルーツをまた探っていたのよ

どの県に何人いるかって見ていて

人数の多いところが広島と埼玉で

なんかの拍子に兵庫が出てきたんだけど

まあ、、相生もあったり白浜もあったりするから

なにが引っかかって出てきたんだろう?って、マップを引きで見たりしてたら

和魂神社が目に入って

はじめは気がつかなかったんだけど、ページを閉じた瞬間

え!!!あれ???同じ名前の神社じゃん!!!

ってなったんだけど、

それが何で出てくるのか、いまだにわからないので

とても難しいか、何かわかんないけど

一霊四魂を調べないとかしら、、、ってことで今から調べるところ


古神道

一霊四魂



だけど、もうちょっと違うもんかなーーーって思っていたりもする



神川

とか

神野瀬川

とか

ま、、河内

カワチからのサインかなって思ってる







もうーーー、、ここから後を書いたのに、保存されてない、、、


復元もされない、、、


めんどくさ、、、、





メモ書きだけ残しとこ


相生


白浜




大久保八幡宮
庄原

大窪八幡宮
兵庫



阿部


阿保


福山藩(ふくやまはん)は、主に備後国(広島県東部)南部、備中国南西部周辺を領有した藩。
藩庁は福山城(福山市)。
石高(表高)は10万石で、阿部家7代藩主阿部正弘から11万石。


阿部正弘

阿部・大久保

阿部の腹心大久保





大久保一翁


すっごい続き書く気一瞬なくなったけど



オホクホ

って見た瞬間

わかったよね





オホクホ



オホ

クホ

クモ

カム

カミ



大久保って


イコール


大神

なんだわ


オホクホ


オホカム


オホミワ


しかも


オホ



アボ

でもあり

阿部

でもあり



オホ

意富比垝




オホヒコ



大彦命





丹荘村(たんしょうむら)は埼玉県の北西部、児玉郡に属していた村。
当初は賀美郡所属であった。


1889年(明治22年)4月1日 町村制施行により、

賀美郡植竹村、元阿保村、原新田村、八日市村、関口村、肥土村、貫井村、小浜村、四軒在家村、児玉郡熊野堂村が合併し賀美郡丹荘村が成立する。

1896年(明治29年)3月29日 賀美郡が児玉郡、那珂郡と統合し児玉郡となる。

1954年(昭和29年)5月3日 青柳村と合併し神川村を新設する。



神川


磯川



埼玉県児玉郡神川町八日市では
(我が家の父方の名前)は草分けと伝える



丹荘

神川

元阿保

熊野堂

白山


丹荘(たんしょう)


これは


きっと


丹生(たんじょう)


誕生

探女


阿保(あお)神社

あお

ああ

あう


相生もイコール


伊賀国阿保村の阿保朝臣人上
御祭神は、大己貴命・素盞嗚尊・伊弉冉尊・瓊瓊杵尊・大宮女大神・布留大神



阿保は阿部と名乗る前の富一族



式内社「今城青八坂稲実神社」の論社は他に、神川町八日市の熊野神社、上里町五明の天神社、
長浜の長幡部神社、長幡部神社に合祀、

及びその古社地、七本木神社に合祀の榛名宮神社、堤の熊野神社がある。



七本木神社


七本木



わたしが住んでたとこで小学校のある地名は

五本木


隣町は


六本木






丹党 


丹氏、新里氏、榛沢氏、

安保氏、長浜氏、勅使河原氏、

中村氏、中山氏、大関氏、加治氏、横瀬氏、薄氏、小鹿野氏、大河原氏、青木氏など。





ほほほほほほほうううう

イコール

私を呼んだのは


大国主神の「和魂」

この和魂が祭られているのは


オホミワ




大国主神の血を引く大田田根子を神主として
大神神社(神体は三輪山)を創った



オホミワ=オホクホ













とりあえず、今はこの辺に着地しますが


私の中ではまだ引っかかってることがあるのですが


ただいま睡魔と格闘中、、、、



ここがまた大きな謎を解く扉の入り口っていうかな



オホヒコ

オオヒコ



ア ヒコ


相生

あいおい



おお

O




するとどうしても私の中では

大彦=阿彦

っていうのが渦巻いてしまうのよね。。。。。


ええと、一個人の名前で持ってイコールという意味ではなく


同族という意味で。


同一というなら

大彦=いわゆる大国主

大彦がそもそも、立ち位置的に言うと俘囚




勾玉からみる地域交流

遅くとも縄文中期
BC5,000年頃にはヒスイ製勾玉が作られていたことが判明しており、

特に新潟県糸魚川の「長者ヶ原遺跡」からは
ヒスイ製勾玉とともにヒスイの工房が発見されている。

蛍光X線分析によると青森県の「三内丸山遺跡」や

北海道南部で出土されるヒスイは糸魚川産であることが分かっており、

このことから縄文人が広い範囲でお互いに交易をしていたと考えられている。

後年には日本製勾玉は朝鮮半島へも伝播している。







ちょっと今日はもうギブ!

朝からずっと頭も痛いし(久しぶり)

なんだかまたこんがらがってきたし



大彦が平定した 

なんてのを見ると

まるで、大和とか朝廷の側かと思ってしまうけど

私は古代出雲だと思っているのよ




続きを読む



共通テーマ:blog

バンジョウ [調べなさいアプローチ]

DZeFLpxUMAEgqMG.jpg


DZgQ0CHXcAEfNjm.jpg









ご丁寧に


DZicyGtVAAEwbJ5.jpg










広島県では

平家の落人の後裔で

愛媛県西条市河之内の大元神社の「坂城さん」と呼称した祠に祖を祀ると伝える。


発音はバンジョウ。





バンジョー


アメリカ合衆国南部およびアパラチア地方で奴隷を強要されていたアフリカ人たちが、アフリカでなじんでいた楽器にならって最初期のバンジョーをつくり、この最初期のバンジョーのいくつかが、
"ゴード・バンジョー(gourd banjo)"と呼ばれるようになった("gourd"は、"ひょうたん"の意)。

バンジョーの祖先に当たる楽器の一つに、エコンティング(英語版)(Akonting)がある。

これは、セネガンビア地方(セネガル・ガンビア地方)のジョラ民族によって演奏されていた、
釘形のリュート系民族楽器である。

"バンジョー"という名前は、通常、
キンブンドゥー語(Kimbundu)の"バンジャー(mbanza)"に由来するとされている。

"bandore"という言葉の方言の発音から"bamjo"という言葉が生まれたとする語源学者たちもいるが、最近の研究によれば、"bandore"は、楽器のネックに使用される"bamboo(竹)の棒"を意味するセネガンビア地方の言葉から派生したものに過ぎないとされている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC









愛媛県西条市河之内

https://www.google.com/maps/place/%E3%80%92799-1314+%E6%84%9B%E5%AA%9B%E7%9C%8C%E8%A5%BF%E6%9D%A1%E5%B8%82%E6%B2%B3%E4%B9%8B%E5%86%85/@33.9377963,132.9236912,13z/data=!4m5!3m4!1s0x355026391143938f:0x19caec2c8906527c!8m2!3d33.9361405!4d133.0270756




客神社

佐川

河内神社

才土

=才野かな、、、、



引地

=日置かな、、、、



愛媛県西条市河之内の大元神社の

「坂城さん」と呼称した祠に祖を祀ると伝える。


国常立尊

宮司は”真鍋”

http://ehime-jinjacho.jp/jinja/?p=6708



天川

庄内



愛媛県西条市黒谷にも大元神社

黒谷

大黒山



客神社
伊邪那美命(いざなみのみこと)     
菊理姫命(くくりひめのみこと)




河之内   河内

大元神社  大本

「坂城さん」 榊



氷見、、、、、、


himi2.jpg


himi7.jpg


himi5.jpg








氷見

新開

相生

蛭子


小松

松山

諏訪神社


野々市

長谷

大久保

久保




浜道

山道




高山の北麓説 (『西條誌』の説)
村名を氷見といふ訳は總て高山の北にある村里は、夏も雪の氷りたるが見ゆる故に、駿河の富士の北、越中の立山の北などにも、同しく氷見と称ふる村ありと聞く、石鎚山の北にあたれる村少なからずといへ共、當村最も其麓にて、石鎚權現の別當前神寺も當村の内に属し、且村高の大ひなる、近郷に類ひなきのみならず、伊豫一國の村寄せの内にても、其畝高の多く廣き、當村にしくものなし、因て麓の諸村の内、氷見の名を許すべきは、外にはあらじ


橘郷と氷見村


橘新宮神社


神戸郷の中野村(なかのむら)にある伊曽乃神社(いそのじんじゃ)


神野郡…………橘の里……現在の州之内周辺から氷見まで

http://verda.life.coocan.jp/s_history/s_history33.html


橘--->家紋


神野郡

神戸郷  

中野村(なかのむら) 中の村 中村

伊曽乃神社(いそのじんじゃ) 磯野





歴 史 発 掘
西条ぶらり旅
http://verda.life.coocan.jp/s_history/s_historyindex.html

伊曽乃台地のあたりは文字通り磯野(磯の里)であったわけである。

磯野は海岸に因む名であり、
神野は山に因む名であるから、神野と磯野は同じではない、と思う。

神野の中に磯野台地がある。

だから、伊曽乃神社は本来、固有名ではなく、

磯野に存在する神社という意味ではないかと考えている。


:::::::::::::::::::::::::


ビンゴ。


どうやら、愛媛のあたりには

父方の一族どちらもいるようだ


この土地の地名を見ると

人々は名前は変えるけど、土地の名の響きは変えないようだ


この土地には”あなた”を強く感じる。。。。。。


本来は

”旧約聖書の一団”なのかな、、、やはり、、


でも、ま、、、


カワチだけど、、、、





ちょっとUP,,,眠い、、、

でも、、止まらない



松前町
愛媛県伊予郡

https://www.google.com/maps/place/%E6%84%9B%E5%AA%9B%E7%9C%8C%E4%BC%8A%E4%BA%88%E9%83%A1%E6%9D%BE%E5%89%8D%E7%94%BA/@33.7891555,132.6944834,13z/data=!3m1!4b1!4m8!1m2!2m1!1z5oSb5aqbIOa1nOacrA!3m4!1s0x354fee6aff30e635:0x5a5daaed8bb83309!8m2!3d33.7874225!4d132.7114105


松前

新川

三島

中村

三谷


愛媛県伊予市上三谷客



今日早い時間ソネット開けなくて、その間に調べてたのも


”松前”












松前藩氏榊氏
https://www.google.com/search?q=%E6%9D%BE%E5%89%8D%E8%97%A9%E6%B0%8F%E6%A6%8A%E6%B0%8F&source=lnms&sa=X&ved=0ahUKEwifg4K5kZPaAhXGspQKHSi6DuQQ_AUICSgA&biw=1280&bih=860&dpr=1







函館市/函館市地域史料アーカイブ
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11C0/WJJS02U/0120205100


刊本閲覧


函館市史 亀田市編


[亀田市編]


第二章 大地にいどむ


第二節 蝦夷の戦いと亀田


三 シャクシャインとの戦いと亀田




 寛文九(一六六九)年日高のアイヌ人シャクシャインの蜂起に驚いた松前藩は、東西の和夷の関門に兵を派遣し防備を固め、
蜂起の地へは征伐軍を出動させたが、この時東の関門である亀田へは酒井左兵衛と兵二〇〇名を派遣し防備を固めさせている。
また前述則田安右衛門の『狄蜂起集書』によれば、土地の者たちが協力して防備拠点を構築していることが知られる。
このとき初代榊吉右衛門は亀田代官佐藤彦左衛門を助け、防備に全力を尽し、
戦後福山に招かれ、亀田村において宅地や山林および鞍、茶器、裃を賜っている(榊氏系図)。




亀田市


廃止理由
編入合併
亀田市 → 函館市

現在の自治体
函館市


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%80%E7%94%B0%E5%B8%82
 この後も元禄五(一六九二)年亀田村に水田を試みる者が現われる(二、三年で廃止)など
亀田村は繁栄を続けて来たのであるが、元禄の終わりごろから急激に衰えを見せはじめた。
衰えの原因は、亀田港の水深が浅くなり、はなはだ使用しにくくなったことである。
『福山秘府』(年歴部巻之五)によれば、
元禄十五(一七〇二)年「秋七月二十九日、大雨逆浪、東部亀田村洪水、毁壊民家甚多。」、
元禄十六年「自夏六月四日至十日大雨洪水(中略)是時東部亀田邑亦洪水、衛所及禅寺一宇闕流、破壊家三十戸」とある。




https://www.google.com/maps/place/%E3%80%92041-0806+%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93%E5%87%BD%E9%A4%A8%E5%B8%82%E7%BE%8E%E5%8E%9F/@41.8151867,140.7467204,15z/data=!4m5!3m4!1s0x5f9ef6821a18c893:0x5438d12f9ab2a75b!8m2!3d41.8156256!4d140.7578674



亀田

石川

中道

鍛冶

白鳥

赤川

富岡

神山

新川

田家



函館 榊

https://www.google.com/maps/search/%E5%87%BD%E9%A4%A8%E3%80%80%E6%A6%8A/@41.8087542,140.7487223,15z







https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%89%8D%E8%97%A9







伊曽乃神社、伊曾乃神社[1](いそのじんじゃ)は、愛媛県西条市中野にある神社。
式内社(名神大社)。

旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。

神紋は「御所車」[2]。

古くは「磯野宮」とも称した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%9B%BD%E4%B9%83%E7%A5%9E%E7%A4%BE




磯野


14202556_765291433573995_1172383470930319069_n.jpg



14237666_765291430240662_5677484263483161631_n.jpg


20150925_1346180.jpg



CuOotmjUEAAVhV9.jpg





数年前、ある人が川之内村の庄屋であった上甲家のことを調べに来た時

地元の古老から「かくれキリシタンをお探しか?」と聞かれたらしい

本殿が江戸時代に建てられたものという確証はありませんが・・・(゚ー゚;Aアセアセ

「大法寺」に遺物があるので川之内村にもかくれキリシタンがいたのかも

※大法寺のマリア観音堂は建て替えられました

川之内の南、山を隔てたところにある中津川地区にも数十年前まで

「アワンボウ」という変わった風習があったそうです

正月の13日、長さ50センチぐらいの栗の木の一端を十字に割って神棚に供え

それで部屋の柱、人の頭などを叩いてその年の豊作や無病息災を祈願したそうです

http://blog.livedoor.jp/awatennbou/archives/1505973.html





共通テーマ:blog

大久保さん [調べなさいアプローチ]






大久保町

愛知県田原市


大久保佳代子



大久保神社
愛知県田原市大久保町森下


愛知県田原市大久保町
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E7%94%BA_(%E7%94%B0%E5%8E%9F%E5%B8%82)




白浜 (田原市)
白浜(しらはま)は、愛知県田原市の地名

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%B5%9C_(%E7%94%B0%E5%8E%9F%E5%B8%82)


東京製鐵株式会社 田原工場
愛知県田原市白浜二号1−3
http://www.tokyosteel.co.jp/factory/tahara_factory.html


https://www.google.com/maps/place/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E8%A3%BD%E9%90%B5/@34.7014793,137.2482577,18z/data=!4m5!3m4!1s0x0:0xf02f8d1bf97d34f6!8m2!3d34.7011132!4d137.2482148




なんだと、、、、??




大山

高木

羽根

山田


外山

石神


出口

中村

丸山

城山


野田


佐藤遺跡・黒河遺跡

滝頭山
https://www.yamakei-online.com/yamanavi/yama.php?yama_id=19246


愛知県遺跡walker

http://www.isekiwalker.com/pref/%E6%84%9B%E7%9F%A5%E7%9C%8C/169



大久保遺跡
http://www.isekiwalker.com/iseki/250651/


大久保古墳
http://www.isekiwalker.com/iseki/54374/

大久保だけでざっと16か所






愛知県 白鳥町

豊川市白鳥町

https://www.google.com/maps/place/%E3%80%92442-0848+%E6%84%9B%E7%9F%A5%E7%9C%8C%E8%B1%8A%E5%B7%9D%E5%B8%82%E7%99%BD%E9%B3%A5%E7%94%BA/@34.8287256,137.3445402,15z/data=!4m5!3m4!1s0x6004c933d12224e9:0x760930da39d3ca9b!8m2!3d34.832729!4d137.3356504


久保町
愛知県豊川市久保町


愛知県豊川市白鳥町川田



愛知県豊川市国府町中道


青馬



http://escapejama.blog.so-net.ne.jp/2018-03-29




高松に行ったといったときもどっちかっていうと

吉備、田殿丹生~白鳥からスタートして

讃岐白鳥と丹生

最終鳴門、大麻比古神社で榊





共通テーマ:blog

宙船 [調べなさいアプローチ]





中島

長瀬

ながせ


泊瀬

初瀬

長谷
(はつせ)
(ながせ)

なか

なが


naka

naga




中島

織田家などを輩出した現愛知県である尾張の神魂命子孫、現京都南部である山城の鴨県主子孫。

諏訪神党、
清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)、村上天皇の皇子具平親王の子師房にはじまる源氏(村上源氏)、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)もみられる。

現兵庫県である播麿国佐用郡中島発祥の族は赤松氏族。

語源は、「島」は一定の区画地帯を表す。


中村、水中の中の島の意味もある。

家紋は筌、九曜巴、団扇など。

西日本では「なかしま」東日本では「なかじま」の読みが多い。


ひぃ>>中村、水中の中の島の意味もある。




# 中島は中村に通じる。

# 尾張国中島郡海部をルーツとする中島海部直は伴造家で神魂尊の後裔。

https://name-power.net/fn/%E4%B8%AD%E5%B3%B6.html

https://folklore2017.com/502.htm




長瀬

長瀬連、清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)、
村上天皇の皇子具平親王の子師房にはじまる源氏(村上源氏)、
中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)隆家流、秀郷流などにもみられる。

現石川県である加賀藩、園部藩にみられる。

「長」は長くのびている地形、器物、生物などの意味。
「瀬」は流水が浅く流れているところを表す。



スポンサーリンク

■ 長瀬(ながせ)

【2013/08/20:新載】

# 634位

# 全国に約32300人

# 岐阜県の飛騨地方北部に多くみられる。

# 主なルーツ地

・ 信濃国小県郡長瀬(長野県上田市)をルーツとする。

・ 美濃国可児郡長瀬郷(岐阜県多治見市)をルーツとし、清和源氏の土岐氏の支流。

# 古代豪族に長瀬氏があり、高麗からの渡来人と言われる。

# 信濃の長瀬氏は信濃国小県郡長瀬(長野県上田市)をルーツとする。

# 美濃の長瀬氏は美濃国可児郡長瀬郷(岐阜県多治見市)をルーツとし清和源氏の土岐氏の支流。

# 長野県の長瀬家


中島みゆき
出身地  北海道 札幌市

祖父は帯広市議会議長なども務めた中島武市、
父・眞一郎は北海道帝国大学医学部出身の産婦人科医で中島産婦人科院長。

中島 武市(なかじま ぶいち、1897年1月30日 - 1978年7月16日)は、日本の実業家・政治家。岐阜県本巣郡土貴野村(現在:本巣市)出身。岐阜市立岐阜商業学校(現在の岐阜県立岐阜商業高等学校の前身)卒業。シンガーソングライターの中島みゆきは孫(武市の長男の第一子)。


実父は大垣藩士の家系の士族であったが早世し、母の再婚先の商家中島家で育てられた。母の兄は松方財政の推進者で大蔵次官を務めた男爵・郷純造。純造の次男が日商会頭の郷誠之助。武市と誠之助は従兄弟同士にあたる。「拓聖 依田勉三傳」に中島武市の伝記も収録されている。

1914年に岐阜商業を卒業した後、大阪の呉服問屋に丁稚奉公に出る。その後名古屋の株屋を経て北海道に渡り、旭川で書店に勤める。その後帯広に移り、1920年に「古着商中島商店」を開くが、間もなく屋号を「みつわ屋」と改める。1921年頃に結婚。1924年には長男・真一郎(中島みゆきの父)が生まれる。

1936年に帯広商工会の副会頭になり、1939年には帯広市実業連合会長・十勝商工会連合会頭に就任。1942年には帯広市議会議員に当選した。1943年9月には帯広商工会議所会頭(〜1950年11月)となり(1943年10月〜1946年9月までは北海道商工経済会帯広支部長)、戦後の1947年の第1回参議院議員通常選挙で北海道から日本自由党公認で立候補したが落選。1954年には帯広ロータリークラブ会長も務めている。

1955年8月には帯広市長選挙に出馬するが落選。1959年には帯広市議会議員に返り咲き、1963年から帯広市議会議長。1965年には全国市議会議長会常任理事、翌1966年には同代表監事に就任した。

帯広市にある中島公園は、武市が帯広開拓の嚆矢であった依田勉三の功績を後世に遺す目的で銅像を寄贈した篤志を称えて、帯広市長が武市の名を公園名にしたものである。現在、武市の胸像が西本願寺帯広別院に建立されている。また同様の銅像が本巣市早野の土貴野神社脇にある、戦没者鎮魂の碑のある広場にも建立されている。



http://episode.kingendaikeizu.net/45.htm



共通テーマ:blog

くも=くぼ、、、ここか。。。 [調べなさいアプローチ]








日本書紀や風土記では

「土蜘蛛、土蛛、都知久母」


土蜘蛛

土 虫 知 虫 朱


都知久母

都 知 久母

みやこ しる くぼ





都 知 久母

土  久母

土久母

大久母




大久保


大久米、、、、、、





「大」という文字は、大集団としての「大」だと言われています



大久米

大久女

大久母


そうなのよ。


土蜘蛛と神武は同族だからね

同族を隠すために土蜘蛛を大久米に変えたんだろうな


大久米

道臣





奈良県橿原市久米町

http://www.buccyake-kojiki.com/archives/1063720564.html

https://www.google.com/maps/place/%E3%80%92634-0063+%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C%E6%A9%BF%E5%8E%9F%E5%B8%82%E4%B9%85%E7%B1%B3%E7%94%BA/@34.4867397,135.791594,17z/data=!4m13!1m7!3m6!1s0x6006cd27883f0df9:0x9f64c6f45bbaeb6!2z44CSNjM0LTAwNjMg5aWI6Imv55yM5qm_5Y6f5biC5LmF57Gz55S6!3b1!8m2!3d34.4853118!4d135.7921377!3m4!1s0x6006cd27883f0df9:0x9f64c6f45bbaeb6!8m2!3d34.4853118!4d135.7921377

久米氏の祖神である天久米命・大久米命、後世に久米寺の鎮守社









あらら、、、


天久米命

アメノクメミコト


天 〇久米命

アメノ 〇クメミコト




来目は米では無く、

直系の祖先とする天鈿女命(アメノウズメミコト)
日本神話に登場する女神のウズメから来る家系を表し来目が久米になったと言う説もあり



高御魂(タカミムスビ)命の8世の孫である味耳命(うましみみのみこと)の後裔とする氏と、
神魂(カミムスビ)命の8世の孫である味日命(うましひのみこと)の後裔とする氏の
2氏があったと言われます。


『日本書紀』神代下天孫降臨章1書には、

大伴氏の遠祖の天忍日命が、来目部の遠祖である大来目命(天久米命)を率いて
瓊瓊杵尊を先導して天降ったと記されており、

『新撰姓氏録』左京神別中の大伴宿禰条にも同様の記述がある。

このことから、
久米直・久米部は大伴氏の配下にあって軍事的役割を有していたと考えられている。

大伴氏は久米族の有力者が独立したものか


道臣命
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E8%87%A3%E5%91%BD


道臣と大久米

道君と大久保






久米島






 一あるに云はく、二ふたはしらの神 遂に邪あしき神かみ及草木石くさきのいはの類たぐひを誅つみなひて、皆己すでに平むげ了をはりぬ。其の服まつろはざる者、唯 星ほしの神かみ香々かゞ背せ男を耳のみ。

 故かれまた倭文神しとりのかみ建たけ葉は槌つちの命みことを遣つかはせば、則すなはち服ひぬ。故れ二神天あめに登る。倭文神、此をば斯し圖と梨り俄未かみと云ふ。




、経津主神(ふつぬしのかみ)・武甕槌命(たけみかづちのみこと)は不順(まつろ)わぬ鬼神等をことごとく平定し、草木や石までも平らげたが、星の神の香香背男だけは服従しなかった[7]。そこで倭文神(しとりがみ)・建葉槌命(たけはづちのみこと)を遣わし懐柔したとしている[8][9]。

第二の一書では天津神となっている[10]。経津主神と武甕槌命が、まず高天原にいる天香香背男、別名を天津甕星という悪い神を誅してから葦原中国平定を行うと言っている[11][12][13]。

鹿島神宮や静神社の社伝によれば、武甕槌命は香島(723年に鹿島と改名)の見目浦(みるめのうら)に降り(現在の鹿島神宮の位置)[14][15]、磐座に坐した(鹿島神郡の要石とも)[16]。天香香背男は常陸の大甕(現在の日立市大甕、鹿島神宮より北方70km)を根拠地にしており、派遣された建葉槌命は静の地(大甕から西方約20km)に陣を構えて対峙した[13]。建葉槌命の陣は、茨城県那珂郡瓜連(うりづら)町の静神社[17]と伝えられる[13][15]。

「カガ(香々)」は「輝く」の意で、星が輝く様子を表したものであると考えられる[18]。神威の大きな星を示すという[19]。平田篤胤は、神名の「ミカ」を「厳(いか)」の意であるとし、天津甕星は金星のことであるとしている。

星や月を神格化した神は世界各地に見られ、特に星神は主祭神とされていることもある。

しかし、日本神話においては星神は服従させるべき神、すなわち
「まつろわぬ神」として描かれている。

これについては、星神を信仰していた部族があり、
それが大和王権になかなか服従しなかったことを表しているとする説がある。

全国の星神社や星宮神社の多くは天津甕星を祭神としている。

天津甕星を服従させた建葉槌命(タケハヅチノミコト)は、
天羽槌雄神と同一視されることもある[20]。


茨城県日立市の大甕神社は、建葉槌命を主祀神とする[21](一説には素戔嗚尊とも)[22]。

同神社伝では、甕星香々背男(天津甕星)は常陸国の大甕山に居を構えて東国を支配していたとしている。大甕神社の神域を成している宿魂石は、甕星香々背男が化したものと伝えられている。


葦原中国平定に最後まで抵抗した神ということで

建御名方神と同一神とされることもあり、

また、神仏習合の発想では北極星を神格化した妙見菩薩の化身とされることもある。








Toy kur ~土蜘蛛が呼んでいる
http://escapejama.blog.so-net.ne.jp/2015-03-19-3





駄目だ、、眠い、、、



白山祠官一族には阿倍氏族道君後裔



共通テーマ:blog

”阿部”はきっときっとここから [調べなさいアプローチ]














28055902_1197245377045263_2246207825362201714_n.jpg


28167153_1197245347045266_2685601185044516925_n.jpg


28276596_1197245350378599_1536783829298324830_n.jpg


28166901_1197303043706163_2714173636854723662_n.jpg



28168302_1197385630364571_481591993624118159_n.jpg




阿部



八十八

88



大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)は、

神奈川県伊勢原市の大山(別名:雨降山〈あふりやま〉)にある神社である。

「阿武利」とも表記し、「あぶり」とも読む。

『延喜式神名帳』に小社と記載された相模国の延喜式内社十三社の内の一社で、

旧社格では県社に列している(現・神社本庁の別表神社)。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B1%B1%E9%98%BF%E5%A4%AB%E5%88%A9%E7%A5%9E%E7%A4%BE



https://www.google.com/maps/place/%E5%B1%B1%E6%A2%A8%E7%9C%8C%E5%8D%97%E9%83%BD%E7%95%99%E9%83%A1%E9%81%93%E5%BF%97%E6%9D%91/@35.5397122,139.0743619,14z/data=!4m13!1m7!3m6!1s0x601913f5766766c1:0x28aae8418042b7df!2z6Zi_5aSr5Yip5bGx!3b1!8m2!3d35.563536!4d139.1043178!3m4!1s0x60196ce7057685d3:0x7f813b4c9aa3cc65!8m2!3d35.5059241!4d139.0130568


お隣道志村


なぜすぐ思い出さなかったんだ、、、

私にはものすごい強烈な思い出のある道志村


大阪府などにみられる。

関連姓は道氏。

和歌山県や北陸から山形県、秋田県など東北まで広がる大族、道君
(安倍氏(祖先は第八代孝元天皇の孫)族)の子孫といわれる。

語源は道や街道の地形に由来する。






山梨県南都留郡道志村久保


月夜野


神奈川県相模原市緑区青根
神武天皇社


バアバア宮
ジジイ宮



ちなみに

道志はここでは、

”どうし” です。

だからちっともぴんとも来なかったけど


別の読み方をすれば

”みちし”

おおおお~う。。。


うっ~そ~

阿夫利山とその神社はずっと気になっていて、いつか行きたいんだけど

道志村のすぐ上だったとは、、、

そうなってくるとますます行きたいじゃまいかああああああああああ



ちなみに

山梨県上野原市秋山の阿夫利山




神社は大山阿夫利神社で違う場所
神奈川県伊勢原市大山


大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)は、

神奈川県伊勢原市の大山(別名:雨降山〈あふりやま〉)にある神社である。

「阿武利」とも表記し、「あぶり」とも読む。


https://www.yamareco.com/modules/yamainfo/ptinfo.php?ptid=4737

トミノナガスネヒコが阿部になる前には阿武と名乗った


「あふり山」

アフリ は ハフリ

ハフリ は アフリ

ハフリ は 祝

阿部は祝の民、、、、、





ハフリとは祝。
語源は「羽振り」。
カンナギが祓いを行う様。
すなわち「はフル」とは神霊を祭る行為。(喜田貞吉)
行う者を「祝」と言う。横なまって「ほうり」。
転じて「ほふる」すなわち「屠る」。
贄を屠ることを生業にする神職。



一番上のアフリカのドンソの祭りの様子

あれは動物の霊がおりて憑いて、ハンターが仕留めて生贄にされるまでの様子

もっとすごいのもあるのよ

あるんだけど凄すぎるので貼るのをためらうのよね

まあ、ブゥードゥーの故郷だから、、、、、、、、、、、ね、、、



生贄、呪術、魔術






大山・阿夫利の地名と名称

 新編相模国風土記稿(江戸時代末 天保年間編)によれば、

「一は雨降山と呼び、又阿部利山或は大福山・如意山等の名あり、

當國諸山の中、最も高嶺なれば大山と稱せるなり」、

「頂上は常に雲霧くややもすれば大に雲起り、忽雨を降す、

此雨山中のみにして、他に及ばず、故に土人私雨と稱す。雨降山の名は是に因か」

との記述が見られる。

 
阿夫利の呼び名は、「あふり」を語源とし、

アイヌ語説としての「アヌプリ」(偉大なる山の意味)から

「あふり」「あぶり」とされたとする説、

原始宗教における神の所為である「あらぶる」が転じたとする説など諸説見られる。

なお阿夫利については、「阿武利」、「阿部利」といった記述もみられる。

 
また古くから神体山であった阿夫利山は、

農民に水分(みくまり)神のいます所として崇められ、霊水信仰の場でもあった。



山の阿夫利山の方も

上野原駅 

「神野」

かみの

神の




どっちかしらね。。。



「ムサツオアフリカノカミニアイシ」

という部分の解釈で、

「ムサツオ」とは「武蔵国」だと山根はいう。

したがって「アフリカノカミ」は大山の「阿夫利神社」。

阿夫利神社に祀られているのは、

山根にいわせればイエス・キリストだから、

その神に「アイシ=会った」モセス王の霊は、阿夫利神社の近くにいなければならない。

そして真警塚は、大山阿夫利神社のもっとも近くにある大古墳なのである。


http://www.ne.jp/asahi/davinci/code/history/hadano/index5.html


昔、キリストが日本に来たという本に、

大山の「阿夫利(アフリ)神社」の「アフリ」は、

アフリカの王だか神だとか云われた、ヨセフからきているとあったからです。


28055902_1197245377045263_2246207825362201714_n.jpg


28276596_1197245350378599_1536783829298324830_n.jpg




29025656_1213364618766672_6672478660606496593_n.jpg


o0480064114144914484.jpg


o0480064114144914492.jpg


000003966.jpg




共通テーマ:blog

太安万侶 [調べなさいアプローチ]







おお の やすまろ

おお

やすまろ









多氏(おおし/おおうじ)は、

「多」を氏の名とする氏族。

日本最古の皇別氏族とされる。

「太」「大」「意富」「飯富」「於保」とも記され、

九州と畿内に系譜を伝える。



「大」「意富」は 大彦に通じる

「於保」は 阿保 阿武 阿部 だろ



皇別氏族屈指の古族であり、

神武天皇の子の神八井耳命の後裔とされるが、

確実なことは不明。


『日本書紀』『古事記』によれば、

初代神武天皇と、

事代主神の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)、

または大物主神の娘の伊須気余理比売命(いすけよりひめのみこと)との間に生まれた皇子である



神八井耳命(かんやいみみのみこと[1]、生年不詳 - 綏靖天皇4年4月)

記紀等に伝わる古代日本の皇族。

初代神武天皇の皇子、第2代綏靖天皇の同母兄で、

多臣(多氏)及びその同族の祖とされる。




『日本書紀』では、

同母弟に神渟名川耳尊(神沼河耳命、第2代綏靖天皇)を、

『古事記』では加えて同母兄に日子八井命(日本書紀なし)の名を挙げる。





同母弟に神渟名川耳尊(神沼河耳命)

この名前を付けるということは

母はヌナカワ一族の女はわけ。


事代主神の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命

事代主は

阿部の事代主であり

何代目かの大国主なわけ

大国主はヌナカワヒメと結婚してタケミナカタとモノによっては姫を産んでるようなもんもある

ともかく、

大国主も一人じゃないし

事代主も一人じゃない

それと同じようにヌナカワ姫も一人ではない


とかいいつつ、


本当の話を分からなくさせるためのスパイスなのかもしれないし


またこの辺いじくりだすと大変なので、ここはひとまず置いといて


多氏にもどると


ひょっとしたらというか、同母兄弟って言ってるんだから

この神八井耳命の母もヌナカワ一族の姫なんだわね


腹が大事ってこのこと



多坐弥志理都比古神社(おおにますみしりつひこじんじゃ)は、


奈良県磯城郡田原本町にある神社である。

式内社(名神大社)で、近代社格制度による旧社格は県社。

一般には

多神社(おおじんじゃ)と呼ばれ、

多社、多坐神社、太社、意富社とも書かれる。


以下の4座の神を主祭神とする。
第一社 神倭磐余彦尊(神武天皇:神八井耳命の父)
第二社 神八井耳命
第三社 神沼河耳命(綏靖天皇:神八井耳命の弟)
第四社 姫御神(玉依姫命:神八井耳命の祖母)


玉依姫命
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%9E%E3%83%A8%E3%83%AA%E3%83%93%E3%83%A1



多氏エリア
奈良県磯城郡田原本町大字多字宮ノ内569
https://www.google.com/maps/place/%E5%A4%9A%E7%A5%9E%E7%A4%BE/@34.5317799,135.81828,14z/data=!4m8!1m2!2m1!1z5aWI6Imv55yM56Ov5Z-O6YOh55Sw5Y6f5pys55S65aSn5a2X5aSa5a2X5a6u44OO5YaFNTY5!3m4!1s0x0:0xc4228f93fab378f0!8m2!3d34.5356613!4d135.7867429



あーーーーー

昨日、阿部を調べてて出てきてたこと

阿部のいるところには鹿がある、いる、ついてる

みたいなページあったなー

今ある言葉で検索してて、阿部は使ってないけど、

そうーーいや、そうだったっていうのが出てきた

ヌナカワヒメは鹿に乗ってたってお話。。。



あら~~~~

徳島県海部郡美波町阿部鹿ノ首
https://www.google.com/maps/place/%E9%B9%BF%E3%83%8E%E9%A6%96%E5%B2%AC/@33.7870238,134.6367073,16z/data=!4m5!3m4!1s0x35531ebe3941bf9f:0x5b24b63255f3dfb1!8m2!3d33.780681!4d134.641101


「阿部鹿の赤ワイン煮込み」
http://blog.livedoor.jp/restaurantjoel/archives/50847732.html

ええええーーーなんですか、、、阿部鹿

ああ、、蝦夷鹿で、ハンターが阿部さんみたい。


ええええええ

先祖【並】御奉公之品書上. 阿部鹿太郎
http://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/ikedake/micro/detail/1184120110825215915


徳島県海部郡美波町阿部(あぶ)


あ、、早くも睡魔


(数10分後)

目玉焼き食べて気を取り直して検索したら

すごいの見つけた




(数分後)


えええええええーーーーっと思うも、

(。´・ω・)ん?まあ、、そうであってもかまわない


そんな感じで、ちょっとじっくりチェックしてみます。






(数分後)


いやーーーいやいやいや、、ここ数日こんな展開が多いな、、、

そろそろ真実の扉も重い扉から自動ドアに変わりそうな勢いかもー

でも、考えたこともなかったことばかりで、

ある階は越えた螺旋階段

その重要なフロアー超えたこと気がついてなかった

そんなかんじぃ~~~






(数分後)

あらーーーー


ガクッ


違ったわ。

自動ドアに見せかけて

触らないと開かないドアだったわ


でも、なかなかどうして

こっからまた真っ暗闇を進むような


そんなかんじぃ~~~





とはいっても


その音はずっと前から私の中にあるのは知ってるわよ

気づいていたわよ


いよいよそこをほじくりまわさないといけないのね、、、


でも今なら

それを知った今なら


ほじりまわしやすいかも、、、






(1時間半後)


あちゃ、、、だめだ、、、頭痛


っていうか、やっぱ我流で行かなくちゃ余計わからなくなる


あとはまた夜。

お店閉めてからだな




謎解きも順序があるから

飛ばしては解けないんだな

調べ続けてれば、

順を追って必ず次の謎解きのカギを見つけることができるので

それが何かとかは書かない

だって私にはまだわかんないことだから

ただわかるのは




ざけんなっ



ってことだけ。







いったん、太安万侶はだれだ?に戻ろう。。。


古事記の編者。

古事記三巻を撰進。

日本書紀の編纂にもあたったという。

奈良時代の文官で、父は壬申の乱で功績のあった多品治(おおのほんち)とされる。


父は壬申の乱(672)に功績のあった多品治。

『新撰姓氏録』などによれば,太(多)氏の祖は神武天皇の皇子神八井耳命という。

大和国十市郡飫富郷(奈良県田原本町多)に太氏の本拠地があった。

『古事記』の序文によれば,和銅4(711)年9月,
元明天皇の命で『古事記』の編纂に着手し,
天武朝に稗田阿礼が誦習した帝紀や旧辞を再整理し,翌年1月に書物として完成した。

安万侶はエディター(編集者)であり,ライター(書き手)ではなかった。

霊亀2(716)年に太氏の氏長に任命されている。

一介の中級官人であったが,『古事記』を世に送り出したことで,不朽の名を残した。

<参考文献>西郷信綱『古事記研究』



多氏系氏族は、
多臣を中心とし初代神武天皇の長子である神八井耳命の後裔を称する諸氏族である。



古くから稲作が栄えた“田原本”界隈は、
古代の有力氏族・多氏や鏡作氏の拠点だった。
『古事記』の撰録者とされる太安万侶は、その多氏の一員。
一時は“古事記偽書”説がささやかれ、
安万侶の存在を疑問視する見解もあったが、
名が刻まれた墓誌の発見により、実在論はほぼ決定的となった。
東に三輪山、西に二上山、南に畝傍山をのぞむ贅沢なパノラマの中で、
『古事記』を片手に、偉人の故郷に親しもう。
http://www.pref.nara.jp/miryoku/aruku/kikimanyo/route_kiki/k02/



周辺に数多く鎮座する多神社の若宮(御子神などを祀る社)の一社。

『古事記』全三巻を撰録した太安万侶(おおのやすまろ)を祀る。

多氏はこの安万侶の代に姓を「多」から「太」に改めたという。



多では大に近くないし

太は近いけど紛らわしい

阿部と同じだね


古事記の編者、太安万侶

彼だけが多氏の中で、「太」を使っています。


(和銅6年)諸国に『風土記』撰進を命じており、
郡や郷の名には“好き字”を付けるように勧めています。

“太”という字は、
「“大大(大きいうえに大きい)”という意味で大ヽ(繰り返す時の記号)と書いていたものが、
ヽの部分が大の下に入ったもの」と読んだことがあります。

つまり「太」という字は嘉字(好き字)なのです。

改姓が本人のみか、本人と非常に近い親族のみに限られている事、
改姓は一代限りのものであったらしい事、
「多」を“好き字”である「太」に変えている事、等々から考えられる事は、

①改姓理由は『古事記』編纂と関係があり(業績を誇らしく思っての改姓?)、
②時期は正史に初登場の時期より後の『古事記』編纂前後、
③「多」を「太」に変えたのは、当時行われていた“好き字”によっての改姓で、
④『続日本紀』編纂時に、慶雲元年に遡って初登場の時から「太朝臣」と記された、と推測しますが如何ですか?



そして”磯城”のちの人だからね。

太安万侶の墓誌の謎
http://www.geocities.jp/yasuko8787/z160.htm






“太”という字は、
「“大大(大きいうえに大きい)”という意味

って、=阿だろ

だって、阿は宇宙の始まりよ

大きいうえに大きいだろ~






阿の字を観じると宇宙と1つになる

基本的な呼吸方法は数息観と同じです。
吐き出す息に「阿」と唱え、吸い込む息に「阿」を念じて
大日如来と一体化になる呼吸法を阿息観と云います。

阿息観は健康長寿としても役立つので命息観とも云われます。

呼吸は人間の生命維持の根本です。「阿吽の呼吸」と云う
言葉がありますが、私達はこの世に生まれてきた時の第一声は
「オギャー」と口を開けて息を「ア」と吐き出すことから
始まります。そして「ウン」と口を閉じて息が止まった時が
最後です。すべての原点が呼吸なのです。

観想の方法は呼吸が整った後、まず本尊の「阿」「蓮」「月」と
我が心の「阿」「蓮」「月」とは不二平等であり、一切衆生の
「阿」「蓮」「月」とも不二平等であると観想します。

自身の胸中にもそれを観じ、だんだんと大きくなり宇宙のはて
まで広がると観じます。無心になり安らかな境地になったら、
自分の胸の中に再び収めて一区切りです。

つまり息とともに吐き出した「阿」の声がどんどん広がり、宇宙
まで広がって行くと観想します。

そして宇宙のはてまで広がった「阿」の声が戻ってきて自分の
身体に入ってくると観想するのです。「阿」の声が自分と宇宙を
無限に循環している「入我我入」のイメージです。

初心者は十分ぐらいを一区切りとして、「阿」である大日如来が
過去、現在、未来にわたって自身より個々の生命を生み出し、
無限に広がって行くと観想することにより、大日如来の存在を
身近なものとして、すべての命の根源がそこにあることを認識
することが大事です。






共通テーマ:blog
前の10件 | - 調べなさいアプローチ ブログトップ


2016年までの観た!読んだ!お勧めの映画や本でーす!