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あなたへ続く道”(83)ハモトノエノキミ [あなたへ続く”道”]






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賀茂役君は
「かものえだちのきみ」

「鴨役君」

「えのきみ」


三宝絵の法2

「役優婆塞、俗姓ハモトノエノキミ」

とカナ文字で書かれている。



え?????


ハモトノエノキミ



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ハモト



エノキミ




えええ????



カモノ



ハモト

になるの?




だからなの?


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ええええ??


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http://www.ffortune.net/fortune/onmyo/kamo/kamo02.htm



役氏(役君)は三輪氏族に属する地祇系氏族で、加茂氏(賀茂氏)から出た氏族であることから、加茂役君(賀茂役君)とも呼ばれる[1]。

役民[注 1]を管掌した一族であったために、「役」の字をもって氏としたという[2]。

また、この氏族は大和国・河内国に多く分布していたとされる


舒明天皇6年(634年)に大和国葛城上郡茅原郷(茅原村)(のち掖上村茅原、現在の奈良県御所市茅原 吉祥草寺境内)に生まれる。父は、出雲から入り婿した大角、母は白専女[3]。 生誕の地とされる場所には、吉祥草寺が建立されている。

17歳の時に元興寺で孔雀明王の呪法を学んだ。その後、葛城山(葛木山。現在の金剛山・大和葛城山)で山岳修行を行い、熊野や大峰(大峯)の山々で修行を重ね、吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築いた。

兵庫県西宮市甲山、六甲山系目神山で弁財天を感得したことと関連して、役行者は奈良の天河の洞川(どろかわ)に住む近縁者、四鬼氏に命じて、唐櫃に移住させ、吉祥院多聞寺奥の院とされる心経岩、六甲比命神社、雲が岩一帯を守護させた。
(以後、四鬼氏は六甲修験の総元締めとして、六甲山西部を管理していた。)

20代の頃、藤原鎌足の病気を治癒したという伝説があるなど、呪術に優れ、神仏調和を唱えた。また、高弟にのちに国家の医療・呪禁を司る典薬寮の長官である典薬頭に任ぜられた韓国広足(からくに の ひろたり)がいる。

文武天皇3年(699年)5月24日[注 2]に、人々を言葉で惑わしていると讒言され、役小角は伊豆島に流罪となる。人々は、小角が鬼神を使役して水を汲み薪を採らせていると噂した。命令に従わないときには呪で鬼神を縛ったという[4]。

2年後の大宝元年(701年)1月に大赦があり、茅原に帰るが、
同年6月7日に箕面の天上ヶ岳にて入寂したと伝わる。
享年68。山頂には廟が建てられている。

中世、特に室町時代に入ると、金峰山、熊野山などの諸山では、役行者の伝承を含んだ縁起や教義書が成立した。金峰山、熊野山の縁起を合わせて作られた『両峰問答秘鈔』、『修験指南鈔』などがあり、『続日本紀』の記述とは桁違いに詳細な『役行者本記』という小角の伝記まで現れた。

こうした書物の刊行と併せて種々の絵巻や役行者を象った彫像や画像も制作されるようになり、今日に伝わっている。[5]。

寛政11年(1799年)には、聖護院宮盈仁親王が光格天皇へ役行者御遠忌(没後)1100年を迎えることを上表した。同年、正月25日に光格天皇は、烏丸大納言を勅使として聖護院に遣わして神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)の諡を贈った。勅書は全文、光格天皇の真筆による。

聖護院に寺宝として残されている[6]。




役氏(役君)

三輪氏

加茂氏(賀茂氏)

この氏族は大和国・河内国に多く分布



奈良の天河の洞川(どろかわ)に住む近縁者、四鬼氏

伊豆島

光格天皇

神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)




天川神社の真裏の宿に泊まったんだけど

翌朝、宿のおじーちゃんのお手伝いを少ししたんだけど

そしたらおじいちゃんが、
”ねーさんにはぜひ歩いてほしい。お礼に入り口まで車で送るよ”

そういって連れて行ってもらったのが

”みたらい渓谷” でね、、

役行者道とも言っていいところだった

たどりついたとこも、もろだった>> http://www.dorogawaonsen.jp/sightseeing/168/

http://www.dorogawaonsen.jp/sightseeing/cat/syaji/


お手伝いをしたからなのか

私の苗字を知っていたからなのか、、、、

天川へ行った目的も天河神社ではなく

私の苗字のゆかりの場所に行ったから。。。。








龍泉寺
http://www.oominesan-ryusenji.jp/


蛇之倉七尾山

http://oomine.gozaru.jp/zyanokura.html

https://www.google.com/maps/place/%E8%9B%87%E4%B9%8B%E5%80%89%E4%B8%83%E5%B0%BE%E5%B1%B1/@34.2679379,135.891061,3a,75y,90t/data=!3m8!1e2!3m6!1sAF1QipM4NYDU653qjD3jDxfMDvqxeBXedcpS1VkGVxdh!2e10!3e12!6shttps:%2F%2Flh5.googleusercontent.com%2Fp%2FAF1QipM4NYDU653qjD3jDxfMDvqxeBXedcpS1VkGVxdh%3Dw129-h86-k-no!7i2784!8i1856!4m13!1m7!3m6!1s0x6006ea7ac38e2049:0xda8446fb961d5ea3!2z5aWI6Imv55yM5ZCJ6YeO6YOh5aSp5bed5p2R!3b1!8m2!3d34.2419093!4d135.8551494!3m4!1s0x6006c013def93ff5:0x2aa6c306edb8e2cb!8m2!3d34.2675066!4d135.889963

蟷螂の窟
http://www.dorogawaonsen.jp/sightseeing/188/

役行者が大峯開山の際に「一之行場」として開いた洞窟です。

蟷螂(とうろう)とはカマキリとも読み、天上の低い洞窟へ腰を屈めて入っていく修験者の姿がカマキリの歩く姿に似ていることから名づけられたようです。

あまり反り繰り返って歩いていると頭を打ちやすい、人生頭を低くして生きるべしというということを、身をもって知る修行の場として現在も多くの人が訪れます。



蝙蝠の岩屋

役行者が大峯山を開いた際に、仮の住まいとして籠もり修行をしていたとされる洞窟です。

蝙蝠(こうもり)とは、
その「籠もり」と洞内に棲んでいたコウモリを掛けて名づけられたようです。

また岩燕の越冬地としても有名で奈良県の天然記念物に指定されています。






母公堂
今から1300有余年前の白鳳年間、役行者という山岳修験者が、熊野本宮から大峯山脈を南から北の大峯山(山上ヶ岳)に向かい修行をしていました。

この修行を案じた役行者の母、渡都岐(とつき)白専女は、役行者の弟子・後鬼の案内で葛城山の麓、茅原から険しい峠や山河を越えて、役行者が山籠りして修行している大峯山に一番近い、洞川の蛇ケ谷まで会いに来ましたが、この谷を渡ろうとすると、一匹の大蛇が行く手を阻み、どうしても渡ることが出来ません。後鬼と替わるがわる何度試みても駄目でした。

弟子の前鬼を通じてこのことを知った孝行心の篤い役行者は、悩みに悩んだ末、このままでは母は私を心配して命の危険な山中を何処までも心配して追っかけて来る。蛇ケ谷に庵を建て母に住んでもらい、身の回りのことを後鬼に頼み、私自身が時々母を訪ねることにすれば、母も安心して留まってくれるだろう。早速、洞川の人たちに頼んで母の庵を建ててもらい、母公堂と庵の名を付けました。

また、その際に重ねて母を思う心から、母が後を追わないようにと「女人入山禁止の結界門」を建てました。これが「女人禁制」の始まりであり、一千三百有余年後現在も守り続けられている歴史の重みであります。これは「女性差別的」な解釈でなく、役行者の母を思う優しい心の現れであると、私ども後鬼の子孫は考えています。


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