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氣多大社、、、そのフレーズ [調べなさいアプローチ]





孝元天皇の御代に祭神の大己貴命が出雲から300余神を率いて来降






社伝(『気多神社縁起』)によれば、

第8代孝元天皇の御代に

祭神の大己貴命が出雲から300余神を率いて来降し、

化鳥・大蛇を退治して海路を開いたという[1]。


また『気多社島廻縁起』では、

気多大菩薩は 孝元天皇の時に 従者を率いて渡来した異国の王子とし、 能登半島一体を巡行して鬼神を追放したと記される[1]。


『気多社祭儀録』では、

祭神は第10代崇神天皇の御代の勧請とし、

神代からの鎮座とする説もあると記される[1]。



一説として、

孝元天皇の御代には

七尾市に鎮座(現・気多本宮、位置)し、

崇神天皇の御代に当地に遷座したとも伝えられる




気多大社(けたたいしゃ、正式名:氣多大社)は、

石川県羽咋市寺家町にある神社。式内社(名神大社)、能登国一宮。

旧社格は国幣大社で、現在は神社本庁に属さない単立神社。

旧称は「気多大神宮」。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%97%E5%A4%9A%E5%A4%A7%E7%A4%BE





飛騨国 気多若宮神 気多若宮神社 岐阜県飛騨市古川町上気多 位置 国史見在社[原 5]

加賀国江沼郡 気多御子神社 気多御子神社 石川県小松市額見町 位置

越中国射水郡 気多神社 気多神社 富山県高岡市伏木一ノ宮 位置 名神大社

越中国一宮
越後国頸城郡 居多神社 居多神社 新潟県上越市五智 位置 越後国一宮

但馬国気多郡 気多神社 気多神社 兵庫県豊岡市日高町上郷 位置 但馬国総社




氣多大社
https://www.keta.jp/

https://www.google.com/maps/place/%E3%80%92925-0003+%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E7%9C%8C%E7%BE%BD%E5%92%8B%E5%B8%82%E5%AF%BA%E5%AE%B6%E7%94%BA%E3%82%AF%EF%BC%91/@36.9253359,136.765274,17z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x5ff769c903f24faf:0xa341b73d191bc002!8m2!3d36.9253359!4d136.7674627





ん?

(。´・ω・)ん?



居多神社は、
上越市(旧直江津市)五智(ごち)にある古社で、頸城郡の式内社13座の一つです。


延喜式以前から存続してきた神社であり、祭神についても大きな変化はありません。

ただし、現在、祭神は大己貴命、奴奈川姫命、健御名方命、一言主命となっていますが、

古くは大己貴命の一座だけだったともいわれます。

また古くは現在の境内のある地ではなく、居田村の身能輪山に鎮座していました。

 

古い伝記では、昔、大穴牟遅命(大国主命)と少名彦名命が共に諸国を巡行し、 悪魔を降伏させたとき、越後国の邪鬼夜星武(やぼしたける)を討ち、 身野輪山を威域として、国神の娘、奴奈川姫を娶り、妃となし、 健御名方命を産み、この児が28歳にして遂に夜星武を討ったとき、 大穴牟遅命は80歳にして身蔭を移し、共に出雲国に去ったと書かれています。


 現在、身野輪山は運動公園となっていますが、その隣りに岩殿山があり、

そこも大己貴命、奴奈川姫命および健御名方命に関係の深いところです。

岩殿山は岩戸村の奥にあり、往古より諏訪神社を祭ってきました。

そこに胎内岩という霊岩があり、そのあたりを子産殿の言いますが、

それは諏訪大神の健御名方命の誕生の地とされています。

そこに泉があり、そこから流れ出る小川を古くは阿賀川と呼び、

今は岩戸川と呼びますが、岩戸村の端を通って海に入ります。

 この身野輪山・岩殿山は古くからの旧跡であり、
延喜帝の時代に、10丁四方の区画を持つ四至の御絵図を下賜されましたが、
この四至の内に身能輪山、岩殿、子産殿、阿賀川が含まれていて、
地元ではそれらを居田山・居田浜という通称で呼んだとされています。
そこで往古から身能輪山の地にあっても、居多神社と呼ばれていたと思われます。

 しかし、慶応2年(1866年)、身能輪山にあった社地が崩れたため、
社殿を移すことになり、明治12月に現在地に移動しました。
慶応2年には特に大きな地震があったわけではなく、
長年の海岸侵食によるものだったといわれてるようですが、
宝暦元年に高田地震があり、山崩れが各地で起きていたようですから、
そうした影響もあるかもしれません。




ぶはははは。。


これまた、

あべてきからくり

もやもやするわ~



共通テーマ:blog

思い出せない。記憶がない。 [調べなさいアプローチ]

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リスで伊豆大島のことを昨日書いたけど

何も覚えていなかった


小さい頃に父に連れていかれた伊豆大島

父とその友達ロッコさんと小さい私とロッコさんの娘の少し大きいお姉ちゃんの4人で。

わたしが3つくらいの頃で弟が生まれたばかりだったころなのか

母も弟もいなかった

伊豆大島に泊まったわけではなく

そのあとに犬吠埼のホテルに泊まった

その時の記憶が断片的にしかないのは自分が小さかったからだと思っていた

そのあと、自分の意思で18歳になったころ、

バイトで知り合った少し年上の女の子と二人で

伊豆の宇佐美に泊まって

次の日大島に行ってるんだけど


なーーぜか、

この時の写真はまったくないし

記憶もほとんどない

、、、ことに


今朝仕事中に気付いてしまった


覚えているのは


リス公園から港へ戻る道がすごい坂道で

タクシーの運転手さんがジェットコースターやってあげるよって言っていたことしか

覚えていない


リスと戯れたような気もするし、そんな気もしないし

どこかほかのところへ行った記憶もない

椿の何かを見たような気がするけど

舟に乗った記憶もない

宇佐美に着いた日とその夜のことは憶えてる


この日に岡田有希子の自殺のニュース

なので、

わたしたちが宇佐美に行った日は4月8日ってことだ。。。


ちなみに一緒に行った子の苗字は

”石津”


なので、今回のキーワードは


”栗鼠・リス”

”石津”

”宇佐美”



ま、、、まじで、、、




(株)西日本宇佐美 大阪臨海堺給油所

https://usami-net.com/content/company/organization/

〒592-8333 大阪府堺市西区浜寺石津町西5丁331−1

https://www.google.com/maps/place/%EF%BC%88%E6%A0%AA%EF%BC%89%E8%A5%BF%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%AE%87%E4%BD%90%E7%BE%8E+%E5%A4%A7%E9%98%AA%E8%87%A8%E6%B5%B7%E5%A0%BA%E7%B5%A6%E6%B2%B9%E6%89%80/@34.5550837,135.3759239,12z/data=!4m8!1m2!2m1!1z5a6H5L2Q576O!3m4!1s0x6000c3543c3b04e5:0xff5d32daedc581be!8m2!3d34.5550837!4d135.4459617



宇佐美っていうガソリンスタンドが大阪の石津にあるわけね


私は静岡の宇佐美に石津といったのね




で、その大阪の石津の隣町が ”諏訪の森”

あああああ、、、、

https://www.google.com/maps/place/%E3%80%92590-0814+%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%BA%9C%E5%A0%BA%E5%B8%82%E5%A0%BA%E5%8C%BA%E7%9F%B3%E6%B4%A5%E7%94%BA/@34.5617314,135.4709748,15z/data=!4m5!3m4!1s0x6000db5c74c810c3:0x5d2c37f62f46f559!8m2!3d34.552736!4d135.4642024



仁徳天皇陵のそばに確か、榊はいたはず、、、

榎元(えのもと)町もある
熊野町もあるわ

https://www.google.com/maps/search/%E4%BB%81%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87%E9%99%B5++%E6%A6%8A/@34.569089,135.4883308,16z

石津川
大阪湾手前の河口には、

葦舟に乗った蛭子命(戎大神)が漂着したと伝えられる場所があり、

現在は石津太神社の御旅所として祀られている。

石津太神社(いわつたじんじゃ)は、

大阪府堺市西区にある神社である。旧社格は村社。

同市堺区石津町の石津神社(いしづじんじゃ)とともに、

式内小社「和泉国大鳥郡 石津太神社」の論社であり、

どちらも「日本最古の戎社」を称している。


蛭子命・八重事代主命

・天穂日命(石津連の祖神)を主祭神とし、

天照大神(靱大神宮)を配祀する。

神社合祀により建御名方富命を合わせ祀る。




石津神社(いしづじんじゃ)は、大阪府堺市堺区にある神社である。

式内社石津太神社(いわつのおおじんじゃ)に比定される。石津太神社については、同市西区浜寺石津町中の石津太神社(いわつたじんじゃ)も論社となっており、元々はどちらかが本社、どちらかが御旅所か分社であったと考えられている。両社とも八重事代主神(戎神)降臨の地として、「日本最古の戎宮」を称している。えびす神は一般的に耳が遠いとされており、石津神社では、本殿横に木槌で叩いて願い事を唱える板が設置されている。大祓(おおはらえ)の時期には茅の輪が備えられる。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%B4%A5%E7%A5%9E%E7%A4%BE





天穂日命(石津連の祖神)

なぬ?


アメノホヒ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%8E%E3%83%9B%E3%83%92


後付けだろう。。。


この地は元は浜辺であり、

伝承では、伊奘諾命・伊奘册命によって流された蛭子命がこの地に漂着し、

携えてきた五色の神石を置いたという。

蛭子命が漂着した場所を「石津の磐山」、

「五色の石」を置いた場所を「石津」という。

鳥居の前の交差点に「五色の石」を地下に埋めたとされる場所があり、

その場所を示す地上部分に石が置かれている。


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石津連(現大阪府南西部である和泉)、
中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)、
伴氏(大伴氏の子孫、古来の大族)などにもみられる。
ほか長州藩、

現千葉県富津である佐貫藩、飯田藩、現広島県西部である安芸などにみられる。

「石」は石や岩、硬い地盤を表す。


あわわわ、、あうあうあうあうあう

私はいったい、、、


いつからそんな流れの中で動いていたの、、、、、


事ちゃーーーーーん!!!!!!!!


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事代主逆手を打って青柴垣(榊)に隠れた

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静岡県伊東市宇佐美
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E6%9D%B1%E5%B8%82


ううううう、、、熱を帯びてきた、、、

これは前にも記事にしている

伊東市のシンボル的存在の大室山
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%AE%A4%E5%B1%B1_(%E9%9D%99%E5%B2%A1%E7%9C%8C)

人工のピラミッドだと思うのよ、、私も。


大興奮だからまた写真載せちゃおう


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まああまああまああっまああああ


はあ。。


伊豆は事代主が作ったといわれてる


そして伊豆大島はもう、、、そりゃーーー役行者だわ


そうそう、、そうよ、、そうよね



役氏(役君)は

三輪氏族に属する地祇系氏族で、加茂氏(賀茂氏)から出た氏族であることから、

加茂役君(賀茂役君)とも呼ばれる[1]。

役民[注 1]を管掌した一族であったために、「役」の字をもって氏としたという[2]。

また、この氏族は大和国・河内国に多く分布していたとされる[1]。


文武天皇3年(699年)5月24日[注 2]に、人々を言葉で惑わしていると讒言され、

役小角は伊豆島に流罪となる。


伊豆島-伊豆大島
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%B1%86%E5%A4%A7%E5%B3%B6


ある場所の役行者と後鬼前鬼

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私を助けてくれたようなくろしおのおじさんのうりふたつ

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三輪山に栗鼠

伊豆大島に栗鼠


どちらも三輪関連


そして

賀茂関連



静岡県賀茂郡



伊豆国
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%B1%86%E5%9B%BD



豆州


伊東市宇佐美の大丸山

http://www.greenenergy.jp/653

大丸山地図で探せない
http://izukoi.com/archives/20460

東京都大島町元町の大丸山
リス公園のそば(伊豆大島椿花ガーデン)

https://www.google.com/maps/place/%E5%A4%A7%E4%B8%B8%E5%B1%B1/@34.7676538,139.3706831,15z/data=!4m5!3m4!1s0x60178260c7f74eb3:0x34602a1ba6e5c38c!8m2!3d34.762859!4d139.3843389



もちろん、、、


伊豆国にも葛城山もありますよ

葛城神社

古来よりこの山頂に葛城山神が祀られ災厄除去の神として人々に崇敬されておりました。

又当山は今から約1300年前には修験道の開祖役の行者(役小角)の修験霊場として栄え、

或は役600年前には金山城が築造されて古戦場となるなど多くの由緒を持った山であります。

この霊山に昭和37年ロープウェイを建設するにあたり期せずして神社再建の声がたかまり、

信仰あつき有志の方々の浄罪を以て当会社創立5周年を迎えるを機会に葛城神社を再建し

これを記念して碑を建て寄進者の御厚意を永く後世に伝えんとするものであります。

http://www.geocities.jp/engisiki/izu/bun/iz140204-04.html

田方

tacata

takata

外山の観音様
https://www.google.com/maps/place/%E5%A4%96%E5%B1%B1%E3%81%AE%E8%A6%B3%E9%9F%B3%E6%A7%98/@35.01029,138.9189386,1681m/data=!3m1!1e3!4m12!1m6!3m5!1s0x601993aa634a003d:0x5e1289935c1641e3!2z6JGb5Z-O56We56S-6Leh5Zyw!8m2!3d35.0144273!4d138.9230378!3m4!1s0x601992fe76bfc01d:0x8ecaaef0d9e36fd1!8m2!3d35.0076632!4d138.918635



奈良県桜井市外山

https://www.begin.or.jp/~munakata/

https://www.google.com/search?q=%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%9C%8C%E6%A1%9C%E4%BA%95%E5%B8%82%E5%A4%96%E5%B1%B1&gws_rd=ssl




今日は寝ないで調べられる


なので、ちょっとお買い物行ってこよう。。。






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たぶん賀茂 [調べなさいアプローチ]

っていうか、、、

賀茂。

昨日の記事の多摩川に誰がいたか

上毛野氏説浮上だけど



かみ けの


けのって


もうーーーいうまでもなく


賀茂だろってはなし。


東京の地名はきっとすごく変えられてしまっているだろうからね


しかも

”田園調布”だもの


田園調布は、1918年(大正7年)に実業家渋沢栄一らによって立ち上げられた
『理想的な住宅地「田園都市」の開発』を目的とする田園都市株式会社[7][注釈 1]により開発、
1923年(大正12年)8月から分譲された地域である。
現在の大田区田園調布の大部分の地域が第一種低層住居専用地域と第2種風致地区であり、
日本有数の高級住宅街である[8]。

大田区田園調布(でんえんちょうふ)以外に、田園調布本町(でんえんちょうふほんちょう)、
田園調布南(でんえんちょうふみなみ)の住所表記もあるが

、旧「大森区田園調布」に相当する地域で、大田区田園調布の南側に位置する。
また隣接する世田谷区側に玉川田園調布(たまがわでんえんちょうふ)の表記があるが、
田園都市株式会社が多摩川台住宅地として田園調布と一体に造成・分譲を行った地域である。


田園調布には、東京都内で最大規模の古墳である荏原台古墳群のうち、
田園調布古墳群[注釈 2]があり、荏原台古墳群で最古の宝莱山古墳と最大の亀甲山古墳がある

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%9C%92%E8%AA%BF%E5%B8%83



今、いるところ
目の前でリアル乗っ取りみたいなもんが繰り広げられてる

この田園調布もきっとそういう土地





武蔵国榛沢郡血洗島村
(現埼玉県深谷市血洗島)


こっわっ

血洗島



渋沢 栄一
https://www.google.com/search?q=%E8%A1%80%E6%B4%97%E5%B3%B6&gws_rd=ssl

(しぶさわ えいいち、天保11年2月13日(1840年3月16日) - 昭和6年(1931年)11月11日)は、

江戸時代末期(幕末)から大正初期にかけての日本の武士(幕臣)、官僚、実業家。
第一国立銀行や東京証券取引所などといった多種多様な企業の設立・経営に関わり、
「日本資本主義の父」ともいわれる。理化学研究所の創設者でもある。


血洗島


 大正初期に渋沢栄一翁は次のような談話を『龍門雑誌』に載せています。『…恐ろしげなるこの村名のかげには幾多の伝説と口碑(言い伝え)とが伝わっている。
 しかしそれは赤城の山霊が他の山霊と戦って片腕をひしがれ、その傷口をこの地で洗ったという種類のもので…』(日光の山霊=大蛇と赤城の山霊=ムカデが戦場ヶ原で戦ったという伝説)続いて『…斉東野人(孟子〔万章〕の事理を知らない田舎者の例え)の語たるは言うまでもない』と地名に対しては、あまり伝承や口碑にはこだわらなかったようですが各地を訪れる先々で血洗島の由来を質問されたそうです。

 特に定説はありませんが、他に
1. アイヌ語の「ケシ=厚岸、ケセン=気仙沼、ケッセン」(岸、末端などの意)で血洗(この当て字が憶測のもと)という説。〔因みに利根川のトネはアイヌ語で(tanne)長いという意味〕
2. その昔、この辺りで合戦があり(一説に平安時代に八幡太郎義家の奥州遠征の途中)家臣の一人が切り落とされた片手を洗ったので血洗島と言い、土地の人がその手を近くに葬った墓が手墓と言う伝説がありました。

手計のハカは地形の崖(ハカ)や古名の竹幌(アイヌ語で縄張り・垣根の意)が手計幌から手計と言う説があります。
• 右のように合戦やアイヌ語などを語源とする説もありますが、通称『チアラジマ』と言うように度重なる利根川の氾濫のため地が荒れたとか、地を洗うように流れたと言う方が頷けるようです。
• 正式名称は『チアライジマ』で島と言うのは、この辺り一帯の利根南岸氾濫原にある四瀬八島の四つの瀬、八つの島に由来します。(中瀬・横瀬、内ヶ島・西島など)

 栄一翁は24歳で村を出てから70年近く他郷で活躍している時、たびたび血洗島の意味を尋ねられて語っていると懐かしさと愛郷心が湧いてきて、帰郷の度ごとに故郷の人々のために立派な足跡をたくさん残して下さいました。

〔文・安部利平さん/平成17年9月号掲載〕


http://www.city.fukaya.saitama.jp/shibusawa_eiichi/shokai/story/1400203254187.html




うーん


https://www.google.com/search?q=%E5%8D%97%E9%98%BF%E8%B3%80%E9%87%8E&gws_rd=ssl



阿賀野

新潟県阿賀野市
http://www3.nhk.or.jp/lnews/niigata/20180513/1030003122.html



うううううううううーーーーーーん

新潟県加茂市
加茂市(かもし)は、新潟県の中央部に位置する市である。

市街地は三方を山に囲まれ、加茂川が貫流している。
都市の起源は平安時代に遡り、青海神社の鳥居前町として栄えたのが始まりである。
古くから京都との関わりがあった事や中心街の落ち着いた町並みから
「越後の小京都」とも呼ばれる。

現職の小池清彦市長は、矢祭町(福島県中通り地方)の「合併しない宣言」と同様に

周辺市町村との合併を一切行わない事を政策としている。


726年 - 青海神社が創建される。
794年 - 京都の賀茂神社の社領となる。

青海神社
加茂祭り


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%8C%82%E5%B8%82
https://www.google.com/maps/place/%E6%96%B0%E6%BD%9F%E7%9C%8C%E9%98%BF%E8%B3%80%E9%87%8E%E5%B8%82/@37.8132088,139.1205899,11z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x5ff4d3e2b5941e31:0xf30731df0c908d89!8m2!3d37.834501!4d139.2259831



加茂山リス園(加茂山公園内)

リス園は加茂山公園の中腹付近にあり、
それほど広くはありませんが約100匹のシマリスが放し飼いにされています。


三輪山でも2匹リスを見た

わたしもっと自然の山に一人でぼそぼそ行ってたけど

リスに遭遇したことはなくてよ


リスといえば

小さい頃父が私を連れて行った伊豆大島



あら。。。。



【悲報】大島リス村閉園(←今は「伊豆大島椿花ガーデン」になっています)
りす子:リス村は、なくなってしまったのでしょうか?
係の方:リスの放し飼いは、1年半前(2013年9月頃?)になくなりました。

りす子:どうしてなくなってしまったのでしょうか?
係の方:30年間リスの放し飼いをしていたのですが、リスの爪などによってお客さんが引っかき傷を作ってしまっても、昔は大らかでした。
でも今は、そういうことがあると大騒ぎになってしまうようになりました。
こうしたことから、リスの放し飼いは行わなくなりました。

りす子:では、今リスちゃんたちはどこにいるのでしょうか?
係の方:今、だいたい50~60匹のリスを非公開のスペースで飼育しており、交代で、そのうちの6匹ほどをゲージの中で公開しています。

りす子:ゲージ越しに餌付けしたりすることはできますか?
係の方:リスは餌付けできませんが、別に飼育しているウサギはゲージ越しに餌付けできます。

りす子:今、リスを繁殖させたりはしていないのですか?
係の方:はい。7~8年前に、タイワンリスが特定外来種に指定され、駆除対象となったこともあり、積極的に増やすということは行っておりません。

ざっくりまとめると、リス村閉園の背景は・・・・
・リスの爪などによる怪我に対して客から苦情が出るようになった
・タイワンリスが特定外来種に指定された
ということでぃす。

残念な結果でしたが、とても親切に対応してくださった係の方、本当にありがとうございました。
リスちゃんとのふれあいはできなくなってしまいましたが、このような、親切で温かい方がいらっしゃる「伊豆大島椿花ガーデン」にはぜひ行ってみたい! と思いました。
また、この時期は椿の花がキレイで、あと、「リスまんじゅう」も販売されているようでぃす。

伊豆大島椿花ガーデン
住所:東京都大島町元町字津倍付41-1 
電話番号:04992-2-2543
http://tubakihanagarden.com/

https://www.google.com/maps/place/%E3%80%92100-0101+%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%A4%A7%E5%B3%B6%E7%94%BA%E5%85%83%E7%94%BA%E6%B4%A5%E5%80%8D%E4%BB%98/@34.7666337,139.3799385,16z/data=!4m5!3m4!1s0x601782705c133a47:0x9a5714404ad8a757!8m2!3d34.7704483!4d139.3743296



”大丸山”

丸山=美輪

なんでしょ。。。

そのための存在。




っていうか、、なにこれ。。。










ちょっと転がる。。。




賀茂別雷命
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%80%E8%8C%82%E5%88%A5%E9%9B%B7%E5%91%BD


『賀茂之本地』では阿遅鉏高日子根神と同一視されている。


はああああああああ。。。。。。




で、、、、ぎょあああああああ




血沼海(チヌノウミ)

古事記では血沼海(チヌノウミ)。
日本書紀では茅淳山城水門(チヌノヤマキノミナト…別名が山井水門)が対応してます。

まとめ
●古事記・日本書紀ではナガスネヒコに反抗されて矢を受けた五瀬命が
その傷を洗った場所が「血沼海」。

●つまり血を洗い流した場所。物語ではそう。

●日本書紀では「茅淳」と書かれるので、茅萱が生えていた場所ではないか。

しかし、物語を読む限りは、「血の穢れを洗い流した」場所となる。

その両方が「血沼海」のなのではないか??
http://nihonsinwa.com/page/2563.html




毛野氏族は
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/sizokugairan/kenu1g.htm

その分布からみて、大阪湾岸の茅渟地方にその起源をもち、

血沼之別の流れとみられる。

御諸別命より以前の系譜は難解であるが、


三輪君一族との同質性がかなり濃く見られる。


毛野前代の系譜については、

世代などから推定して、

磯城県主の支流で彦坐王と同祖とみられる多芸志比古命に出て、

その孫が豊城入彦命(能登国造の祖・大入杵命にあたるか)、

その子に八綱田命(吉備氏族の祖・彦狭島命と同人)であり、

これが御諸別命の父ではないかとみられる。

また、八綱田命の兄弟が能美津彦命、その子が能登国造となった彦忍島命(大矢命)か。

 
なお、彦狭島命とは

吉備下道系の祖たる稚武吉備津彦命と同人であり、

毛野は吉備の分流であることが分かってきて驚いている。







ふあはははあ


かもすぎ






関越自動車道を横断するカモの親子 車を止めて見守るドライバー #ldnews http://news.livedoor.com/article/detail/14746348/


関越自動車道を横断するカモの親子がTwitterに投稿され、話題となっている
ドライバーたちは車を停めてこの様子を見守り、親子は無事に横断できた
「原因がこれなら渋滞でも許せる」「和みました」との声が寄せられていた




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いつからはじまってたんだ。。。。 [調べなさいアプローチ]






時々読んでるブログがあるんだけど、

久しぶりに見て、

あーーーーそうだったねーーーって思いだした。

”多摩川に誰がいたのか”

そうなのよ、そう。

私なんであの神社とあの古墳に何度も行ってたんだろう?

その神社へジェイスとも何度も行って、、

初めて行った時には初詣と初日の出を見に行って、

その時にUFOも見た。

そして今年あけおめーとジェイスから電話かかってきて、

初詣にその神社へ来たってそこから電話がかかってきた。

その時にもハッとしなかった。

今ひさしぶりにそのブログを開いて、

お題を見てハッとした。

そもそもなんでそこのことを知ったんだろう

、、、、としばらく考えて、

そうか。。。富士山か。。。

でもその古墳は?

(古墳は公園になっていて、

その中に縄文博物館があるのよね~。
しかも確か無料なのに結構なボリューム。
縄文博物館は、私小学校の頃からなぜか大好きでいつも一人で
 ”守屋” 教育会館の資料展示室にいつも行ってた)

そして、

ほんと。。。

”多摩川には誰がいたんだろうか”。。。

今宵は眠れねーなー

https://www.google.com/maps/search/%E5%A4%9A%E6%91%A9%E5%B7%9D%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4/@35.589957,139.6678637,17z


うっそ、、、HP初めて見た。
 
http://www.sengenjinja.info/

http://www.sengenjinja.info/annai/rekishi.htm#syamon




古墳時代 - 荏原台古墳群が多摩川流域沿いにあり、強大な首長がいたと思われる。


多摩川台公園古墳展示室
多摩川台公園の入り口にある古墳展示室内に、ほぼ四世紀から七世紀にかけて作られた古墳という巨大な墓が実物大のレプリカで再現されています。これは、東国(関東地方)で六世紀に造られた横穴式石室をもつ前方後円墳の後円部の一部です。
多摩川台公園に保存されている現在の古墳の姿と見比べていただけるように、古代人が造った当時の姿そのままに復元してありますので皆様も古代人になった気分でご覧下さい。
http://www.city.ota.tokyo.jp/shisetsu/hakubutsukan/kofuntejishitsu.html




続きは月曜日に。。。

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鴨っぽいって言ったでしょ [調べなさいアプローチ]






大神神社

というか

茅原大墓古墳とか

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http://www.city.sakurai.lg.jp/sosiki/kyouikuiinkaijimukyoku/bunkazai/ka/1.html

箸墓古墳へ向かう集落が

とっても鴨っぽかったのね~~~

土蜘蛛感はあまりなかったけど

役行者臭とかさーー


何かとっても、似ている気がしたのよね。。。


それを確認するためにはやっぱ、桜井駅周辺の散策が必要だし

葛城の茅原とか御所とかも要散策


桜井市
http://www.city.sakurai.lg.jp/


桜井市も広いな




あのね、、何が言いたいかって言ったらね



いわゆる

”事代主”


なんですよね。。。。。


あそこも。。。


なにってもう、、私の中では違うワールドが広がり始めてる




って、それはもうさんざん、

イコールイコールって書いてるんだよね。。。。





っていうか。。。



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安倍文殊院
http://www.abemonjuin.or.jp/


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安倍文殊院と榊莫山
https://blog.goo.ne.jp/anikobe/e/67e952286493d459a2418130c843c104

榊莫山
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%8A%E8%8E%AB%E5%B1%B1


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安倍文殊院のある

桜井市阿部は、

古代豪族阿倍氏(安倍氏)の起こった場所として知られています。

阿倍氏は第8代孝元天皇の皇子大彦命を祖としています。




現在、アベ姓は、阿部さんが20万人、


安部さんが5万人、安倍さんが8000人といわれている。


この阿部姓は東北に多く、宮城で大姓5位、山形6位、岩手8位、秋田と福島で11位、

他に徳島も大姓11位となっている。

ではルーツは東北かといえば、話はそんなに単純ではない。

阿部、阿倍、安部、安倍などの阿部一族は、孝元天皇の皇子・大彦命(おおひこのみこと)の子孫と伝えられる豪族。
大彦命は『日本書紀』記される四道将軍のひとりで、北陸道に派遣されたとされる将軍。

伊賀国一之宮の敢國神社(あえくにじんじゃ)の社伝では、

北陸に派遣された後、伊賀国阿拝(あえ)郡に定住したとされている。

敢國神社は、伊賀の国の住んだ阿拝氏の祖神・大彦命を祀ったとされ、

阿拝氏(阿閉氏)は後に阿閉・阿倍・安倍などとも記されるため、

阿部、阿倍、安部、安倍さんの氏神にもなっているのだ。



阿部姓の発祥は、安倍文殊院で知られる大和国十市(といち)郡阿倍が有力だが、

大和国葛下(かつらぎしも)郡阿倍や、

穴石神社のある伊賀国阿拝郡、攝津国東成(ひがしなり)郡阿倍野など様々な説がある。


また、「アベ」の語源は饗(あへ)で、神をもてなす「饗へ」からきているという。
では、阿部氏のルーツを訪ねる旅に出掛けよう。

最初に訪れるのは古代阿倍氏の一大本拠地であった、大和国十市郡阿倍(桜井市阿部)であろうか。

安倍文殊院近くにある若桜神社(奈良県桜井市谷)と、その摂社である高屋安倍神社の参拝からルーツの旅を始めよう。

若桜神社の祭神は、大彦命の孫の伊波我加利命(いわかむつかりのみこと=磐鹿六雁命)であり、一方、大彦命が祭神である高屋安倍神社は阿部一族の氏神となっている。

阿部一族であれば、さらに、阿倍倉梯麻呂(くらはしまろ=内麻呂)が創始した
安倍文殊院にも当然参拝したいし、

南西方向にある明日香村のキトラ古墳は、
倉梯麻呂の子の一人阿倍御主人(あべのみうし)の墓だともいわれている。

阿倍御主人とは、『竹取物語』に、かぐや姫の求婚者の一人として実名で登場している。

因みに、御主人がかぐや姫に要求されたのは「火鼠の皮衣」だったが。

ルーツを訪ねる旅もキトラ古墳まで行き着くのはさすがに古代豪族ルーツの阿部さんだ。


若桜神社境内にある高屋安倍神社は、

本来の鎮座地は南にある松本山だったが山崩れが起きたため、

若桜神社境内に遷座したと伝えられる。

大化改新当時から阿部一族の聖地となっている。


https://tabi-mag.jp/abe/


敢國神社
https://tabi-mag.jp/me0240/

社伝によれば、斉明天皇4年(658年)に創建の古社が

三重県伊賀市一之宮に鎮座する敢國神社(あえくにじんじゃ)。

伊賀国の一之宮で、伊賀の国の阿拝(あえ)郡に住んだ

阿拝氏の祖神である大彦命(おおひこみこと)、

古代に伊賀を拓いたという渡来人の秦氏が祀った少彦名命(すくなひこなのみこと)の

二神を祀っています。









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大神・三輪③ 三輪さんイコール [調べなさいアプローチ]








なんだか、感じた

違和感

とか

賀茂感

とか


今調べてるとこだけど


三輪の”大物主”は






阿部の事代主


かもしれない。。。


っていうね。。。



”茅原”大墳墓

茅原といえば

わたしには


役行者


葛城
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E5%9F%8E






奈良県御所市茅原

役行者御誕生所 吉祥草寺
http://www.en-chan.com/


http://www.en-chan.com/ennogyoujya.htm



https://www.google.com/maps/search/%E8%91%9B%E5%9F%8E/@34.476105,135.7359656,14z


スクナヒコ

クエヒコ




あら~~~~


そりゃ、なんか

賀茂感

感じるわけだわよね


これまた、これまた、、、、



実相は触れない方がいい感じじゃ

あ~~~~~~りませんか????









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大神・三輪① 大神神社と古墳2つゲッツ [調べなさいアプローチ]

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2018-05-17 15:27:51のブログです。
若干更新




https://www.facebook.com/media/set/?set=a.1271815382921595.1073741927.100002794355533&type=1&l=ee3d33719b

みわさんは人が多すぎて、
登ってる最中も後ろでうんちくさんとかスピ系お花畑がいたりして、
実はちょっとしらけた。

なので写真撮る気もしなくなってしまった(*´Д`)

ああ、、
人気のパワースポットと言われるだけあるわねって感じ。
で、しかもほとんどの人が木々など見ず一目散に登るんだ!みたいな感じで、
なんかそれもしらけた。
日本人はどこまでも、どこへ行っても急ぎすぎ。
せっかくあんなに気持ちのいい山の中、しかも安全。
もっとゆったり登ればいいのに。。
で、楽しみにしていた山頂の磐座。
ネットにいくつか写真は出ていたけど、それではなくて、
撮影禁止のもっとすごいのがあるかと思いきや、なくてがっくり。
なんだよ、撮影禁止じゃないじゃないかよって、
そういわれてるのに撮影してネットにUPしちゃう人がいるのね。
今頃呪われてればいいのに( ゚Д゚)ぎゃは。
まあそんな感じでその周辺に行くことはあってももう登らないだろうな。
ただ、みわさん信仰はとてもすごいのねっていうのはひしひしと感じましたよ。
中学生の時に帰国子女のみわくんをうらやましさからいじめてしまった私は、
あいすいませんって謝りながら登ったけれども。
ふーん。。っと
そこはすごく引っかかるものがあった。
おみわさん信仰・講。
嶋岡、上田、池田の多い土地。
それもなんか意外だった。
上田、池田はわからないでもないけど、
嶋岡って初感覚とともに、あの土地でその名前が意外だった。
そして、どういうかな
三輪って鴨(賀茂)なのね、、、、、?
もっとなんか土蜘蛛臭いかなって思ったけど
そうでもない感じだったかな、、、
明日香(飛鳥)と似てる雰囲気がしたな。




目の裏の神様ってカテゴリがあるんだけどね

20歳前くらいまでかな~~~

目を閉じたスクリーン

っていう感じわかるかな

目を閉じるとスクリーンみたいになる

昔の映写機の映像を映し出すシーツとか白い壁とかそんな感じ

20歳ごろまで目を閉じるとそこに

神様みたいなのが映ることが2度くらいあったのよ


それとか、井の頭線だったと思うんだけど、ホームから見える建物の向こうに
大船の観音様みたいなのがバーーーンとあったりさ

20歳前後、いろいろ色々いろいろあって

若干たぶんやばい感じだったのよね
で、いろいろ見たのよね。。気っと。


そういうことがずーっとなかったけど

一昨年くらいかな

目を閉じると箸墓古墳のようなのが見える時があったの

箸墓古墳かどうかまではっきりと言えない

他にもいろいろあるもんね

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でも、ほぼこんな感じのものが目の裏に映る日が続いたの


大神神社は上にも書いたように気分がしらけてしまったので

”何かを感じるスペース”はもう完全に閉じた状態

ほんとは古墳に行く予定ではなかったの



ほんとは


大兵主神社
:::::::::::::::::::

苔緑星人、、
やっぱ緑過ぎてかなり怪しまれた( *´艸`)
自分でも、ちょっと緑過ぎじゃなーいって
帰りの電車に映る自分を見て再び引いた
なんでこんなに苔色になってしまったんだろう
でもおかげで擬態成功でリスに2回も遭遇できたのかも
今回も足が腐るほど歩いた
18:55のバスに乗ろうと思ってたけど、
バスカウンターに着いたのが47分で、
前に外人がチケット買ってて汗が噴き出たけど、
ギリで乗れてよかった
やっぱり実際に行ってみないとわからないね
賀茂(鴨)色が強い気がした~
古墳の方はやっぱ明日香(飛鳥)の土地の感じと似ていた
これから消化作業だな~
大神神社。
ちょっと私が思っていたのとはまた違った感じだったかも
でも、気持ちよく登らせていただきましたわ。

ほんとうは大兵主神社まで足を伸ばしたかったけど
伸ばすどころが取れそうだったので、今回はあきらめて帰ってきた
ベタちゃんツムちゃんがいなかったら泊りでがっつり回れたけど
心配だしね。やっぱ帰ってきた。
それに本命は大兵主神社でもあるので、
それは次回、桜井・阿部の土地をめぐる時で山登りをしないスケジュールの時にキックボードで。

箸墓古墳の一番長めのいいところを陣取ってたカフェ(定休日)の名前は

”でんでんむし”

そしてなんとそこでは糸魚川のヒスイの勾玉作りができるとな

糸魚川といえばヌナカワヒメ
箸墓古墳は卑弥呼の墓といわれてるところ、

で、昨日か、一昨日か
そこら辺から卑弥呼の時代の桃の種が出たってニュース。

そして新潟の事件の被害者は大桃珠生ちゃん(おおももたまきちゃん)

桃とはイコールククリヒメ(白山)

で、三輪山の奥には白山もある



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今、三輪山について再度調べてるんだけど、
その日はあえてパワーストーンとかも外して行ったし、
”苔緑星人”になっていたのも
偶然ではなかったかもしれない
( ゚Д゚)ひぃぃぃぃ
イメージ的に言ったら、
『耳なし芳一スタイル』かな、、、



私三輪山と箸墓古墳って


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で、



卑弥呼については、魏志倭人伝に「卑弥呼以って死す。大いに冢を作る。径百歩。殉葬者奴婢百人余り」とあるだけです。詳しい様子はちょっとわかりませんが、日本書紀の11代・垂神天皇紀に殉葬の様子が書かれています。

それによると、倭彦命が亡くなった時、近習の者を集めて全員を生きたまま陵の周りの埋め立てた。何日経っても死なず、昼夜となく泣き喚いた。ついに死んで腐っていき、犬やカラスがやってきて食べた。天皇はこの様子を見て、嘆かれた。
古くからの習慣とはいえ、あまりにむごい。生きている時に愛し、使われたものをこのようなむごい目にあわすのは忍びない。これからは殉死の習慣を止めよう。というわけで、その代わりに埴輪ができたというわけです。

というわけで、殉葬というのは、生きている時に仕えていた人を死後も仕えさせようという意味があったと考えられます。

ちなみに、森鴎外の阿部一族を読むと、江戸時代にも同じような習慣があったことがわかります。殿様が死ぬと、生前親しく仕えていた人たちが殉死するのです。殉死は殿様から許された人だけが出来る名誉なことで、阿部氏は、殉死が許されず一族は悲惨な最後を迎えます。

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

今回阿部一族は置いといて
この映画は前にリンク貼ってる。



生贄 100人


エジプト ピラミッド スフィンクス

マヤ   ジグラット ククルカン ティカル














Swae Lee, Slim Jxmmi, Rae Sremmurd - Guatemala (Audio)
https://youtu.be/1zXOcXnD8XU

https://www.google.com/search?q=Guatemala&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=0ahUKEwjR9f2orYzbAhVBI5QKHQG9CKIQ_AUIDSgE&biw=1280&bih=860#imgdii=S43V3mjjN1jA6M:&imgrc=5Ypcdj20rQ8oRM:&spf=1526546633130

先コロンブス期にはマヤ文明が栄え、現在も国民の過半数はマヤ系のインディヘナであり、
メキシコを除いた中央アメリカで最も人口の多い国である。


ティカルは、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AB%E3%83%AB

グアテマラのペテン低地にあった古典期マヤの大都市である[1]。
マヤ文明の政治、経済中心都市として紀元4世紀から9世紀ごろにかけて繁栄を極めた。
ティカルの遺跡は1979年に世界遺産の複合遺産に登録された。

ティカルのもともとの名は、「ムトゥル」または「(ヤシュ)ムタル」といった。

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階段ピラミッド
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%8E%E6%AE%B5%E3%83%94%E3%83%A9%E3%83%9F%E3%83%83%E3%83%89

ジッグラト
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%83%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%88


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「捨てがたき人々」

https://eiga.com/news/20131020/15/

ヒロイン 三輪ひとみ

英雄 監督

諏訪太郎

美保

ちなみに榊英雄の奥さんは橘いずみ









箸墓古墳

倭迹迹日百襲姫命

倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと[1]/やまとととびももそひめのみこと[2]、生没年不詳)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族(王族)。

第7代孝霊天皇皇女で、大物主神(三輪山の神)との神婚譚や

箸墓古墳(奈良県桜井市)伝承で知られる、巫女的な女性である。

『日本書紀』では「倭迹迹日百襲姫命」、
『古事記』では「夜麻登登母母曽毘売(やまととももそびめ)」と表記される[1]。

名称のうち「トトビ」は「鳥飛」、「モモ」は「百」、「ソ」は「十」の意味と見られ、

「鳥飛」から脱魂型の巫女を表すという説がある[2][3]。

なお、『日本書紀』崇神天皇7年8月7日条に見える
倭迹速神浅茅原目妙姫(やまととはやかんあさじはらまくわしひめ)は

諸説で百襲姫と同一視される[4]。

また本居宣長は『古事記伝』において、

『日本書紀』に第8代孝元天皇の皇女として見える

倭迹迹姫命(やまとととひめのみこと)を百襲姫と同一視する説を挙げる[1]。

『日本書紀』では、百襲姫は大物主神(三輪山の神、大神神社祭神)の妻となったという[1]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E8%BF%B9%E8%BF%B9%E6%97%A5%E7%99%BE%E8%A5%B2%E5%A7%AB%E5%91%BD



大神さんへ行って一番気になったところは

御誕生所

そしてそこにいらすは

”鴨部美良姫命”

はじめて見たかも、、、、、


ということで調べ始めます。




天津彦根命(天若日子と同神?)が神代に

味鉏高彦根命の妹・下照姫(高姫)と結ばれたことで繁栄した

「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国」は

アマテラスの皇孫が天下り、国譲りを求めたことで一旦は混乱を呈しますが、

数代の治世を経て再び天津彦根命の後裔(美良姫)と

味鉏高彦根命の子孫(飯肩巣命)が夫婦となることにより、

三輪王朝の伝統は祭祀の中で復活し、後世に語り継ぐ「神話」を残すことで

ヤマト開拓者としての誇りを伝え得たように思います。


神武帝と姫蹈鞴五十鈴姫との婚姻も、

少彦名命の深慮遠謀から生まれた秘策だったと見るのは少しうがち過ぎでしょうか?

なにしろ彼女の父親は三輪の大物主或いはその子・事代主なのですから

(上・右の画像は姫蹈鞴五十鈴姫を祀る三嶋溝杭神社)。

神武を「中洲」に導き入れたのが八咫烏(少彦名、鴨建角身)で、

崇神の治世の大混乱を救ったのが陶津耳(少彦名)の娘婿である大田田根子、

そして彼が居たという陶邑は陶津耳の本拠地。

これだけ駒が揃うと見事な陣形が出来上がります。



「東征」の実像=記紀の神話によれば、

九州に居た皇祖アマテラスの直系子孫である神武帝たち兄弟は、

長い年月をかけて東の美し国を目指し、多くのまつろわぬ敵を次々に撃破し、

最後には「同族」でもあるヤマトの先住者ニギハヤヒの子孫から国を全て禅譲され、

葦原中国の正統な支配者の地位を得たとされます。

「国譲り」神話は先ずアマテラスとオオクニヌシとの間で

「平和裏」に行われたはずなのですが、

天孫側に天若日子(天津彦根命)に代表される「裏切り者」が輩出したことから、

東征の間、戦いと征服の旅が続きました。

神武も実の兄弟を失う大きな痛手を負うのですが、

ヤマト入りを果たした後、

何故か天若日子と同じようにヤマトの旧勢力の娘と一緒になり子供を儲けます。

抵抗勢力が全く存在せず戦闘も行われなかったとは考えられませんが、

新旧勢力の融合は案外円滑に進められたのかも知れない、

そのような見方に傾きつつあります。


「クイズ」の答=大直禰子神社の主祭神はオオタタネコ、

そして一緒に祀られているのは少彦名命と活玉依姫命の二柱です。

大三輪の聖地に、

何故、天孫系の少彦名命がオオタタネコと同じ社に祀られているのか?

その理由は、配偶者である美良姫の祖神であるからに他なりません。

。。。

なるほど。。

わたしが一番ゆっくりした場所なわけだ。


ちょっと今日はここまでになるかな

眠いです。。。













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大神・三輪② 「捨てがたき人々」より [調べなさいアプローチ]









「捨てがたき人々」

https://eiga.com/news/20131020/15/

ヒロイン 三輪ひとみ

英雄 監督

諏訪太郎

美保

ちなみに榊英雄の奥さんは橘いずみ











今朝仕事中にいきなり

a~ha効果


下のを見て何が言いたいかわかる、、、よね?



三輪



諏訪

美保



番外




なんだよ。。。まじでびっくり。




肥前国風土記に記されている伝承によれば、

景行天皇筑紫巡幸のみぎり、

五島列島は値嘉島(ちかのしま)と呼ばれ、

小近の大耳、大近の垂耳という「土蜘蛛」が居たという。


また福江島の北西部に位置する柏崎は

東シナ海を横断する遣唐使船の最後の停泊地として有名であった。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%B3%B6%E5%B8%82


教会群
ユネスコの世界遺産
「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の構成資産として登録へ向け、運動が行われている。

旧五輪教会堂
江上天主堂

その他の教会と隠れキリシタン史跡 堂崎天主堂
水之浦教会…鉄川与助によって1939年(昭和13年)に建てられた。
楠原教会…鉄川与助によって1912年(明治45年)に建てられた。

楠原キリシタン牢屋跡…1868年(明治元年)に発生した「五島崩れ」と呼ばれる
隠れキリシタン一斉検挙で帳方(リーダー)の狩浦喜代助の家屋が牢獄として使われ、
6坪の小屋に200人が押し込められ、排泄物もそのままに圧死殉教した者が42人に及んだ場所。





















こちらもですか。。。

















答え?



三輪>>大物主=大国主

>>奴奈川姫

諏訪>>建御名方富命、建南方命

美保>>御穂須須美命、出雲の美保神社(島根県松江市)



番外はまあいいとして。
>>我が家の家紋


出雲の美保神社(島根県松江市)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E4%BF%9D%E7%A5%9E%E7%A4%BE
『出雲国風土記』には、大穴持命(大国主神)と奴奈宣波比売命(奴奈川姫命)の間に生まれた「御穂須須美命」が美保郷に坐すとの記述がある。元々の当社の祭神は御穂須須美命のみであったのが、記紀神話の影響により事代主神と三穂津姫命とされたものとみられる。



これはただの偶然か

わかっててやってるのか、

もしくわ

因縁ってやつなのか。。。


やばおもろ。





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縄文エネルギー研究所 卑弥呼ファイル [調べなさいアプローチ]

箸墓古墳の記事とは別ページにしとこうかね。

大神神社と古墳2つゲッツ
http://escapejama.blog.so-net.ne.jp/2018-05-17-1













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大神 [調べなさいアプローチ]

大神君、大神朝臣など大三輪氏の子孫。
後世は中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)秀郷流などもみられる。


大神氏(おおみわうじ)は、「大神」を氏の名とする氏族。

大神神社(奈良県桜井市三輪)をまつる
大和国磯城地方(のちの大和国城上郡・城下郡。
現在の奈良県磯城郡の大部分と天理市南部及び桜井市西北部などを含む一帯)の氏族。


三輪氏あるいは大三輪氏とも表記する。


氏の名は大和国城上郡大神郷の地名に由来する。

古代氏族の研究⑦『三輪氏』(宝賀寿男著)より、三輪氏は姓(カバネ)は初め君だったが、

天武天皇13年(684年)11月に朝臣姓を賜り、改賜姓五十二氏の筆頭となる。

飛鳥時代の後半期の朝廷では、氏族として最高位にあったとする。

また宝賀氏はこの書籍の冒頭で、


三輪氏は元海人族の系譜であって、

本願は北部九州の博多平野から、大和の三輪山麓への東遷により築かれた氏族であると

記述している。


『日本書紀』では神代第八段、一書(異伝)に

大三輪神(大物主神)の子は甘茂君・三輪君などと記されており、

また巻第五に崇神天皇8年12月条にも大物主神の子大田田根子は

今の三輪君などの祖であると記述されている。


『古事記』にも

意富多多泥古(おおたたねこ)命は


神君(大神)・鴨君(加茂)の祖と記載されているので、

大神氏は大物主神の後裔として同神の祭祀をつかさどる有力氏族だったことがわかる。




『新撰姓氏録』大和国神別の大神朝臣条によれば、

大神氏は素佐能雄命(スサノオ)6世孫の大国主の後裔とする。




『日本書紀』によれば、



垂仁天皇3年3月天日槍が来朝したとき、


三輪君の祖の大友主命 

が遣わされ尋問したという。

大友主は仲哀天皇9年2月、四大夫の一人として仲哀天皇崩御の宮中を守っている。

敏達天皇14年(585年)6月、

三輪逆は排仏派として物部守屋・中臣磐余と寺塔を焼き仏像を捨てることを企てた。

用明天皇元年(586年)5月、

穴穂部皇子が殯宮で炊屋姫皇后(のちの推古天皇)を犯そうとしたとき、

炊屋姫の寵臣だった三輪逆が皇后を守った。

大化5年(649年)5月、三輪色夫が新羅に派遣されている。

天智天皇2年(663年)3月にも三輪根麻呂が新羅征討の中将軍に任命されている。

天武天皇元年(672年)6月、

伊勢介三輪子首は大海人皇子(のちの天武天皇)を

鈴鹿郡(三重県鈴鹿郡・亀山市と鈴鹿市の一部)に迎え、

同年7月には三輪高市麻呂らが箸陵(奈良県桜井市箸中)付近で近江朝廷軍に大勝した。

この壬申の乱における活躍が天武・持統朝における大三輪氏の地位を高めた。

持統天皇3年(689年)2月、大三輪安麻呂が判事になる。

同6年3月、
中納言三輪高市麻呂は天皇の伊勢行幸が農事を妨げるとして再度にわたり諫言した。



中世には大神氏の子孫と称する地下官人の大神氏(おおがし)があり、

代々楽人として活躍して、後に家名を山井家(やまのいけ)と称した。

南北朝時代に活躍した山井景光(大神景光)は笛の名人として知られ、

後醍醐・光明両天皇に笛を伝授し、その功績から雅楽頭を経て従五位上安芸守まで昇った[1]。





( ,,`・ω・´)ンンン?
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大神氏(おおがし)は、平安時代に豊後国に土着した武士の有力な氏族。

大和国の大神氏(おおみわし)の傍流で豊後大神氏とも呼ばれる。

大野川及び大分川の流域の大野郡や直入郡を本拠地とし、

豊後国の南部へ勢力を伸ばしたが、


鎌倉幕府から

大友氏が入国してきたことから、

次第に衰退した。


豊後大神氏は豊前国の大神氏を経るとする説と、

大和国の大神氏 (おおみわし) に直接繋がっているとする説の2説があった。




『大神家系図』によれば、大神吉成 (筑後介、従六位下)から九州へ移住しており、また『日本三代実録』(仁和3年3月)によれば、大神朝臣良臣 (豊後介、従五位下)の官位請求の史実とそれを朝廷が認めたとあり、実在が証明されている。1975年、大分県地方史研究会『大分縣地方史』第79号(昭和50年10月)は、「左大史外従五位下豊後介貞観四年改賜大神朝臣姓寛平四年三月再任豊後介既満期任當去其職百姓惜慕請留其子庶幾」(大神朝臣良臣の時に農民から懇願され寛平四年三月に豊後介(豊後守)に再任された)との記述を指摘し、史実として大神が豊後の主となり、領民から懇願されとどまるとされたことが明らかとなった。これをもって現在は、大和大神氏からの出自は決定的とされ、奈良の大神神社でも大神氏を末裔としている。

その一方、「古代士族の研究7」の『三輪氏』(宝賀寿男箸)によると、

基本的に大神氏は大和大神氏からの出自であるが、

豊前の大神氏は大和大神氏同様の『蛇竜』との『神婚』から始まるという独特な神話を持ち、

豊後、大和双方神話共に

弥生系とされる九州海人族(中国江南地方発祥)の特徴を受け継いでいるともいわれる。


また、スサノオなどの天孫族に伝わる天孫降臨などの表現特性も、

ユーラシアのツングース族の始祖伝来表現によく見られると指摘されている。

また、スサノオが出雲の神だとする研究者も多く、

司馬遼太郎の『歴史の中の日本』においては、

出雲族をツングース系としているが、


大分県における大神一族の名字を持つ人たちの顔の特徴は

目力があり、彫りが深く、下顎が小さめで歯並びがよく、腕毛が濃く、

所謂縄文人の特徴を有している。



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大神氏 ( おおがし)

諸説の多い氏族

 本来はオオミワと読むべきだが、九州ではオオカミと読むのがオオガと読まれてきたという。
宇佐大神氏は官社八幡宮を 創祀(そうし)した 大神比義(おおがのひぎ) を祖とする。
創祀の時は 祝(はふり)、 主神(かんつかさ)であったが、
奈良時代末に 禰宜(ねぎ)、祝、 大宮司(だいぐうじ) を出しこれが続いた。
平安初期には禰宜 大宮司を独占し、末期には 宇佐氏 に大宮司を譲り、これが近世まで続いた。


〈筑紫の大神氏〉
 宇佐大神氏について大田亮は大和大神との関係は 詳(つまびら)かでない、
豊国の大神部の後か、別姓で古くから 宇佐宮 に関係ありオホカミといったものか
などといっている。

さて 大神(おおみわ)氏は

大和国に興り 大神(おおみわ)神社 を 祀(まつ)る氏族で全国的に勢力をのばした。

『 和名抄(わみょうしょう) 』によると、

大神郷などは畿内3、東海2、山陽1、西海道2か所があり、

畿内以西で瀬戸内に接した所が多い。

西海道は筑後 山門(やまと)郡と豊後速見郡に 大神郷 がある。

大宝戸籍によると

筑前嶋郡川辺里に「戸主大神部荒人」戸口に大神部10人、他の戸主の中に1名があり、

豊前仲津郡丁里に「母大神部牧売」と「大神菟手」がみえる。


豊後は不明であるが、

大神郷のない筑前豊前にみえるので九州全体ではもっとあったにちがいない。

豊前国では宝亀8年(777) 京都(みやこ)郡の渡来系 田勝(しもとだのすぐり)愛比に

大神朝臣を賜わり、仁和3年(887)3月 大神 良臣(よしおみ) の事で

「 大神 田朝臣 」は「大神引田朝臣」「同真神田朝臣」等と同祖になっているし、

宇佐大神は天平勝宝元年(749)に

大神 杜女(もりめ) 、同 田麻呂(たまろ)に大神朝臣を賜わっている。

これらをみると、宇佐大神について重松明久は大神 田朝臣と同系だという。



〈神功応神信仰と大神比義〉

 宇佐の固有信仰は

馬城峯(まきみね) を巡る ウサツヒコ 、 ウサツヒメ によるシヤマニズム文化であったが、

この聖地に道教的韓国シヤマニズムをもちこんだのが 辛嶋勝(からしまのすぐり) 一族であり、

これが宇佐氏の文化と融合したのが 小倉山(おぐらやま) の 北辰(ほくしん)社 であったらしい。

神功応神(じんぐうおうじん)神話については筑前 怡土(いと)の鎮懐石八幡の懐胎神話、

同 那珂宇美(なかうみ)八幡の生誕神話、

同穂浪 大分(だいぶ)八幡の解散神話等など筑前海岸を中心に神功応神信仰があった。

古風土記は完本5、逸文23篇中、神功応神をとりあげた。

風土記は13篇、その中筑前国6篇、筑後 肥前 日向各1篇づつ、

九州外では 播磨(はりま) 紀伊 土佐等に瀬戸内関係がみられる。

つまり対韓の国防問題の起こる欽明朝ころ突如神功応神信仰は筑前海岸に起こった。

これは神功が国防のため筑後国大神郷に大神神を勧請した故事につながっていたので、

大神氏と神功応神信仰の結びつきは強かった。

豊前宇佐は 大宰府 創設までは大和朝廷の九州基地であり、

辛嶋氏 の文化で道仏的宗教文化の中心地であった。

ここに、筑前の神功応神信仰を大和大神氏を背後にもつ大神比義が持ちこんだ。

始め辛嶋氏と結んで 漸(ようや)く和銅5年(712)官社八幡宮を成立させた。

社地を次々と移転させながらながら遂に宇佐氏の聖地小倉山に入り

宇佐神と合体したとみてよかろう。

このようにみると大神比義は僧 法蓮(ほうれん) とほぼ同時代の人物とみて大過あるまい。

鎌倉時代の 神吽(じんうん) は「 託宣集(たくせんしゅう) 」に

応神信仰発生の時とこの神を官社にした比義の時代を重ね合わせ、

比義を日本道教の開祖仙人のように画き、

現在も比義は宇佐神宮下宮一殿に祀られている。




〈高宮系図と宇佐大神氏〉
 筆者も始め大和の「高宮系図」に大神比義がみえるのでこれを採用していた時があった。
「高宮系図」には比義を巡り、欽明29年 菱形(ひしがた)山 に八幡と神功を奉斎とか、
男性に「宇佐神宮禰宜」などの記載があるが、
いずれも古代には全くない語で、
この系図の 編纂(へんさん)はきわめて新しい時代の作か加筆である(『大美和』第76号)。



〈祝大宮司家と装束所検校家〉
 比義の子 春麻呂 は霊亀2年(716)の託宣で 小山田社 に移座、

春麻呂二男 諸男 は養老4年(720)初めて御験を調進、神輿は大隅へ向かい、

長男田麻呂、杜女には「大神朝臣」を賜わり、始めて「主神司 禰宜」に任ぜられた。

これからは祝 大宮司 禰宜は大神氏が就任することが多くなる。

宝亀8年(821)始めて大神 宇佐二氏の詮擬があり、

延喜2年(902)始めて 宇佐夏泉 が大宮司となった。

以後大神宇佐氏が時々は大宮司になったが、

祝 禰宜(女)は辛嶋氏を廃除してして大神氏が独占した。

一方 種麻呂 の子 家弘 の孫 弘宗 より 小山田社司 装束所 検校(けんぎょう)家が独立した。



〈大神氏の衰退〉
 祝大宮司大神氏は摂関制が始まると共に衰え始め、宇佐氏が優勢になる。

天喜元年(1053) 宇佐 公則(きみのり) 以来大宮司は宇佐氏に独占された。

大神氏は大きく転換する。大神氏豊後への敗退説は渡辺澄夫説に始まるが、

そのころ緒方荘に大神惟基が現れ、その子たちが優勢となっていく。

古代末から中世初にかけて宇佐社家の移動がみられるが、

支配下 荘園 への進出は日向の田部土持氏、筑前の宇佐益永氏、肥前の大神氏、

豊後大野郡の 益永氏 、 宮成氏 等など例がそれであった。

豊後大神氏は

宇佐宮祝大神氏の一部が進出したのではないかという仮説を「推定」として書いたことがある。

ところが「推定」を「断定」と読み違える人もあった。

今後の研究課題の一つであろう。
 参考文献 中野幡能『八幡信仰史の研究』 同『八幡信仰』 『日出町誌』
[中野 幡能]












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